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142話 バスティアンはオデットと離婚をするようにという皇命を断りました。
皇帝の犬が主人を噛んだ。
遅ればせながら、
その事実を理解したトリエ伯爵夫人は
呆れ果てたように、
深いため息を漏らしました。
バスティアンは、
皇帝が、帝国の軍の最高責任者として
下す命令なら、
何でも従う準備ができている。
しかし、自分の妻の件は、
軍律と無関係の領域にあるので
無条件の服従をする義務はないと
極めて忠実で信実な態度で
不敬を犯しました。
抑揚のない淡々とした声と、
冷ややかな表情が
威圧感をさらに倍増させました。
トリエ伯爵夫人は
思わず息を殺しました。
鋭い刃のような男でした。
バスティアン・クラウヴィッツが
誰なのかを実感すると、
オデットがさらに心配になりました。
トリエ伯爵夫人は、
皇帝は軍の最高責任者である以前に
オデットの伯父なので、
十分関与する資格があるだろうと
反論しました。
しかし、バスティアンは
「そうですね、伯爵夫人」と
返事をすると、
形の良い眉をピクピク動かしながら笑い
穏やかなため息をつきました。
バスティアンは、
もし皇帝が本気で伯父の務めを
果たす気があったなら、
自分がオデット嬢の夫になることは
なかっただろう。
縁談を取り持った伯爵夫人は、
誰よりも、その事実を
よく知っているはずだと言いました。
その言葉に
顔を赤らめたトリエ伯爵夫人は、
こんな風に皇室を侮辱しておいて
無事でいられると思うのかと
怒鳴りました。
しかし、バスティアンは、
ありのままの真実を話しているだけ。
気に障った点があったなら、
深くお詫びすると、
非の打ちどころのない礼儀正しい黙礼で
遺憾の意を表しました。
その優雅な身のこなしが、
辛辣な非難と嘲弄の
決定打となりました。
トリエ伯爵夫人は、頭のてっぺんまで
怒りが込み上げて来ましたが、
どうしても、
何の反論もできませんでした。
バスティアンは、
いかなる理由で成立した結婚とはいえ
自分は妻に対する正当な権利を
持っている。
皇帝の名で与えられたからといって、
皇帝の名があれば
奪えるものではないということを
代わりに皇帝に伝えて欲しいと頼むと
頭を下げて、背を向けました。
衝撃のあまり、
よろめいたトリエ爵夫人は、
ソファーの背もたれをつかんで
かろうじて体を支えました。
もはやオデットが、
あなたに何の利益ももたらさない
存在だということを
よく知っているではないかと息巻く
トリエ伯爵夫人の声が
鋭く響き渡りました。
バスティアンはドアノブを握ったまま
足を止めました。
トリエ伯爵夫人は、
これは英雄を守るための
皇帝の配慮でもある。
あなたには、どんな不利益も
もたらさないようにすると
約束する。
この結婚の見返りとして得た利益は
離婚後も有効だろうと、今度は
帳簿の数字に訴え始めました。
バスティアンは
微かな笑みを浮かべて首を回し、
皇帝が立派な取引条件を提示したことは
自分もよく知っていると
返事をしました。
トリエ伯爵夫人は、
それなら、
これで愚かなプライドを捨てろ。
それが2人のための道だと
説得しましたが、バスティアンは
よくある空騒ぎに過ぎない。
解決できる。必ずやり遂げると
確信に満ちた口調で断言しました。
言葉を失ったトリエ伯爵夫人が
ぼんやりと目を瞬かせている間に、
掛け時計が定刻を打ち始めました。
バスティアンは、
夜遅くなったので、
気をつけて帰るようにと言う
警告のような挨拶を最後に
応接室を去りました。
侮蔑感に震えていたトリエ伯爵夫人は
崩れ落ちるように
ソファの上に座り込みました。
バスティアン・クラウヴィッツは
まるで鋼鉄の壁のようでした。
これ以上の説得と懐柔は
無意味に思えました。
どうやら、他の方法を
講じなければならないようでした。

オデットが食事を終えると
影のように静かに、その場にいた
メイド長は、
もう少し食べるようにと勧めました。
オデットは小さく首を横に振って
ナプキンを置きました。
5日ぶりに体力を取り戻して
ようやく起きたところでした。
食欲が戻るはずがありませんでした。
赤ちゃんのためにも、
しっかり食べなければならないという
主治医の言葉を、
もう忘れてしまったとは思わないと
厳しい舎監のように告げるメイド長を
じっと見つめていたオデットの口元に
柔らかな笑みが浮かびました。
オデットは、
「今更だけれど」と呟きました。
メイド長は、
どういう意味かと尋ねました。
オデットは、レモネードと、
キュウリのサンドイッチが
食べたくなったと答えました。
オデットの意図を理解したドーラは
トマトスープを忘れたら寂しいと
答えて、微笑みました。
縄張り争いをしていた時代が、
はるか昔のように感じられました。
目の敵のようだったメイド長と
親しくなるなんて、
どうしようもなく流れた時間を
実感させる変化でした。
料理が半分も減っていない
皿を片付けたドーラは、
独断で次の料理を用意しました。
どんな手を使ってでも、
オデットにきちんと
食べさせなければならないと、
クラーモ博士は、
何度も何度も念を押しました。
直接、言及しませんでしたが、
バスティアンの気持ちも
そうだということを
ドーラはよく知っていました。
しばらく席を外していたメイド長は
白い湯気が立ち上るカボチャスープと
焼きたてのパンが載った
お盆を持って帰って来て、
これだけでも食べて欲しいと
頼みました。
午後の日差しに染まったベッドに
もたれかかって
居眠りをしていたオデットは、
ビクッとして目を覚ましました。
品位のないミスでしたが、
幸いにもドーラは
気にしていない様子でした。
オデットは悩んだ末、
結局、スプーンを握りました。
口の中が苦かったけれど、
ドラの真心を
無駄にしたくはありませんでした。
オデットの2回目の食事は、
午後遅くになって
ようやく終わりました。
ドーラに助けられて、お風呂に入り
ネグリジェに着替えると
日が暮れる時間が近づいていました。
オデットをベッドに寝かせたドーラは
当然の手順のように
マルグレーテを連れて来ました。
再び眠気が押し寄せて来た頃、
ドーラは、
まだ何の連絡もないのを見ると、
ご主人様は、今日も遅いようだと
そっとバスティアンのことを
口にしました。
バスティアンの帰宅時間は
一定ではありませんでした。
午後遅くや、深夜、あるいは早朝。
不意に立ち寄って、
すぐに去りました。
ほとんどの時間、
眠っていたオデットとは
挨拶の一言も、まともに
交わすことができなかった日が
ほとんどでした。
だからなのか、
青い夜明けの光に染まった顔。
夕焼けとともに訪れた柔らかな足音。
月光を背にして去って行った後ろ姿。
その全てが、
まるで夢のような気がしました。
胸に抱いた
マルグレーテの温もりがなかったら、
初日の会話さえも、
自分だけの夢だと思ったはずでした。
ドーラは、
あまり寂しく思わないで欲しい。
奥様を守るために
最善を尽くして忙しいのだからと
慰めました。
オデットは「・・・はい」と
答えました。
オデットは微かな笑みを浮かべて
頷きました。
自分を慰めようと努めている
ドーラへの気遣いでした。
彼女は、
それでも奥様の誕生日には
早めに帰ってもらえると嬉しい。
結婚式を挙げてから
3年が経とうとしているのに、
奥様は、毎年誕生日を、
1人で過ごして来たので、
今年は、2人で
一緒に過ごせるといいのにと
言いました。
次第にドーラの声が、
意識の彼方へと遠ざかり始めました。
オデットは「・・・はい」と
無意識に答えるのを繰り返しながら
すっと目を閉じました。
もうすぐ誕生日だということに
気づきましたが、ただそれだけ。
これといった感慨もありませんでした。
ドーラは、
オデットが眠りにつくまで
ベッドヘッドの横で
見守ってくれました。
ぼそぼそと聞こえて来る話のせいか、
オデットは、あの男の夢を見ました。
バスティアンが
マルグレーテを返してくれた。
オデットは嬉しかった。
バスティアンが
子供を返してくれた。
オデットは嬉しかった。
そして、バスティアンが
別れを告げました。
まぶしい真昼の日差しの中へ
遠ざかって行く、あの男の後ろ姿を
オデットは、
長い間見つめていました。

仕事納めは、
バスティアンの短い挨拶によって
締めくくられました。
大陸最大規模の鉄鋼会社設立と
空前絶後の利益を収めた株式公募。
それにフェリアとベロップを結ぶ
鉄道事業権の再落札成功まで。
金字塔を打ち立てるような成功を
収めた1年でしたが、会社の雰囲気は
比較的落ち着いていました。
祝祭を楽しめるような状況ではない
人への配慮でした。
いよいよ、
本当に終わりが見えて来た。
坊ちゃんを本当に誇りに思うと
言いながら、
壇上から降りたバスティアンのそばに
近づいたトーマス・ミラーは、
感激に満ちた表情で握手を求めました。
バスティアンは、
理事のおかげだ。
今までご苦労様だったと労うと
穏やかな笑みを浮かべながら
彼の手を握りました。
父の没落は、
予想よりもはるかに速いペースで
進んでいました。
あちこち走り回って
火消しに追われているけれど、
近いうちに限界に直面するだろう。
泥沼に落ちた評判に、
世間から後ろ指を差された
後継者まで。
すでに復讐に成功したも同然でした。
ついに任務を遂行しました。
生涯の目標を達成する日が
目前に迫っていましたが、
劇的な喜びはありませんでした。
ただ、バスティアンは疲れ果て、
疲労困憊していました。
バスティアンは、
父親が海運株を投げ売りしたと
聞いたと、
トーマス・ミラーに確認しました。
彼は、
ジェフ・クラウヴィッツが、
そうまでして、鉄道を
守ろうとしているようだけれど
もう再生不能な状態に陥ったと
答えました。
バスティアンは、
それでは、鉄道が手に入り次第、
片を付けることにしようと
告げました。
トーマス・ミラーは
せっかくここまで来たのだから、
きちんと
終止符を打ってみてはどうかと
慎重に異議を唱えました。
バスティアンは、
儀礼的な笑みを浮かべながら
首を横に振ると、
これだけやれば、
祖父の目を閉じてあげるのに
十分な成果だと思うと答えました。
多少、残念な決定ではありましたが
トーマス・ミラーは
もちろんそうだ。
坊ちゃんの意向がそうであれば、
言う通り処理するようにすると
素直に受け入れました。
ジェフ・クラウヴィッツは、
すでに手足が全て
もがれたような状態でした。
あえて死地に追い込まなくても、
徐々に衰弱死していくのは
明らかでした。
極限まで追い詰めて、
余計な同情論を呼び招くよりは、
この辺で手を引いた方が
バスティアンの評判にとって、
はるかに有益ななはずでした。
今のように世論が悪い状況では
なおさらでした。
トーマス・ミラーは
もう少し頑張って欲しい。
全て、うまく解決するはずだと
心から
バスティアンを慰めました。
バスティアンが鉄鋼業界を掌握して以来
雰囲気はさらに過熱していました。
フランツが自滅し、
スキャンダルの熱気が一段落すると、
今や政敵たちは、直接バスティアンに
照準を合わせました。
妻を虐待したという濡れ衣が再燃し、
ついには
父親を食い物にする息子という
非難まで沸き起こり始めました。
今回が最後のチャンスだと
考えているようでしたが、
言い換えれば
この危機さえうまく乗り越えれば、
そのような羨望や嫉妬が
届かない所まで飛躍できるという
意味でもありました。
トーマス・ミラーは、
あの事件は順調に結着しそうだ。
今日の午後、警察局長と
電話で話をしたところ、
正当防衛として認められ、
これ以上の調査はないという
見通しを示してくれたと
報告しました。
バスティアンは
トーマス・ミラーにお礼を言い、
また新年に会いましょうと
適当なところで話を終えると
背を向けました。
ロビーに降りると、
運転手が近づいて来ました。
どうやら直接ハンドルを握るのは
難しそうだったので、
事前に依頼しておいたのでした。
短い挨拶を交わすと、バスティアンは
すぐに待機中の車の後部座席に
乗り込みました。
目を閉じると、
頭痛がさらにひどくなりました。
おそらく睡眠不足のせいだろうと
思いました。
波のように押し寄せてきた疲れに
飲み込まれたバスティアンが
再び目を覚ましたのは、
車がフレベ大通りの中心部に
差し掛かった頃でした。
街は一面、
年末年始の祝祭ムードに
染まっていました。
華やかな明かりと賑やかな音楽、
街を埋め尽くした人並みの喧騒が
夜の街を包み込んでいました。
時の流れを実感した
バスティアンの眼差しが
深く沈みました。
いつのまにか1年の最後の日、
あの女の誕生日が近づいていました。
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父親への復讐は
バスティアンの悲願だったけれど
それを達成したら、
彼には、何が残るのだろうと
思いました。
今までバスティアンは
祖父の無念を晴らすために
ひたすら頑張って来たので、
今度は、自分の幸せのことを
考えるべきだと思います。
バスティアンは
家族に恵まれなかったので、
オデットと幸せな家庭を
築いて欲しいのですが、
その道のりは
またまだ険しそうに思えます。
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