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143話 バスティアンはアルデンに戻って来ました。
オデットは、
背中に伝わる温もりで
その男の存在に気づきました。
夢というには、
あまりにも鮮明な感覚でした。
バスティアンが帰って来た。
その事実を認識すると、
無意識のうちに、
静かにため息が漏れました。
思い悩んでいたオデットは、
マルグレーテを
胸の奥深くに抱きしめたまま、
再び眠りにつきました。
一人で耐えなければならなかった
恐怖を消し去ってくれた
バスティアンの声と体温を
オデットは
今でも生々しく覚えていました。
彼が来てくれて嬉しかったし、
その喜びの大きさほど自分が嫌でした。
光が明るければ明るいほど、
より濃くなる影のように、
バスティアンに対する感情は
いつも、
そのように矛盾していました。
彼が眩しくて心が痛んだ、
花が咲いた春の日の午後から、
オデットは、いつもそうでした。
彼は太陽のようだと思いました。
自らの力で、この世の誰よりも
煌びやかに輝く男。
彼の前でオデットは、初めて
自分の人生にまとわりつく
暗い影を実感しました。
一生大切に守ってきた誇りが
惨めに思えてしまうような
見知らぬ感情でした。
離婚を拒絶され、家に帰る途中、
オデットは、
それなら、割れた陶器のかけらの
一片になってでも、
自分の心だけは守り抜いてみせる。
彼の光の中でも、
ひと時、輝くことができるようにと
決心しました。
無駄な欲だと言われても
構いませんでした。
オデットは、
光として記憶されたかった。
少なくとも、あの男にだけは
そんな存在であることを願いました。
そのような自分が惨めで
恥ずかしくても、
心は止まりませんでした。
もしかすると破局に至った今も
依然として。
結局、眠れなかったオデットは
諦めたように目を開け、
闇に包まれた寝室を眺めました。
月を覆っていた雲が通り過ぎると
物の輪郭が一層鮮明になりました。
それが不快で顔を背けた瞬間、
マルグレーテが目を覚ましました。
首を長く伸ばして、オデットの背後を
しきりに覗き込んでいたマルグレーテが
うめき声を上げ始めました。
なだめようと努めましたが無駄でした。
もぞもぞと動いていたマルグレーテは
ついに隙を見つけて
オデットの懐から抜け出しました。
犬の吠える声が
深い夜の静寂を破りました。
慌てたオデットは、
状況を収拾するために
急いで体を起こしました。
しかし、マルグレーテは
すでに眠っている
バスティアンのそばに近づき、
騒ぎ立てていました。
オデットは、
かろうじて彼から引き離した
マルグレーテを抱えて
ベッドを離れました。
彼は物音に敏感で、
すぐに目を覚ますため心配したものの
幸いバスティアンは
目を覚ましませんでした。
その時、
何かおかしいことに気づきました。
月明かりが差し込む窓辺を
うろうろしながら
マルグレーテをなだめていた
オデットは、ふと振り返りました。
バスティアンは、
コートも脱がずに、
ベッドに倒れ込んでいました。
もしかして
飲み過ぎたのではないかと思って
近づいてみましたが、
酔っている様子はありませんでした。
「・・・バスティアン?」
オデットは慎重に彼を呼び、
サイドテーブルの明かりを灯しました。
光に照らされたバスティアンを見て
オデットは、
自然にため息を漏らしました。
彼の血の気のない青白い顔が
冷や汗で濡れていました。
息遣いも、いつもより速くて
荒くなっていました。
「バスティアン」
オデットは、
悲しそうに鳴くマルグレーテを降ろし
バスティアンを
激しく揺り起こし始めました。
どうやら、
人を呼ばなければならないような
気がした時、熱い手が
オデットの手首をギュッと握りました。
オデットは、
微かなうめき声を上げながら
後ずさりしました。
驚いた胸をなで下ろしている間に
バスティアンが目を開けました。
暗闇の中を彷徨う視線は、
焦点が定まらず虚ろでした。
まるで目を開けたまま
眠っているような姿でした。
こうしたことは、
これまでにも、度々あったことだと
思い出したオデットは、努めて冷静に
彼が落ち着くのを待ちました。
幸いなことに、バスティアンは
まもなく再び目を閉じました。
相変わらず、オデットの手首を
握ったままでしたが、
最初よりは握力が弱まっていました。
オデットは慎重に手を引き抜くと
バスティアンの額に触れました。
熱くなっていました。
人の体温が、これほどまでに
高くこともあり得るという事実に
当惑するほどでした。
再びバスティアンを
起こそうという気持ちを変えた、
オデットは、ベッドの横にある
呼び鈴の紐に手を伸ばしました。
緊迫した呼び鈴の音が、
夜明けの静けさの中に包まれていた
邸宅を揺るがし始めました。

申し訳ないけれど、再考の余地はないと
最後通告をする瞬間にも、
マクシミンの態度は、
一様に丁重で穏やかでした。
しかし、
たった一度のミスで除名だなんて。
これは、やり過ぎではないだろうかと
受話器の向こうから聞こえて来る声は
さらに切迫していました。
マクシミンはため息をつきながら
机の前から立ち上がりました。
書斎の窓の向こうに見える空は、
青灰色の雲で覆われていました。
雪が降りそうな天気でした。
マクシミンは、
犯罪の被害者である貴婦人を
悪意的に侮辱した事件だ。
そんな破廉恥な行動を
たった一度の過ちと呼ぶことこそ
やり過ぎではないだろうかと、
優しいけれど、
断固たる力が込められた口調で
反論しました。
芸術協会のメンバーの1人が、
問題の絵が掲載された雑誌を
入手してきました。
忘年会での出来事でした。
彼は、販売中止となった雑誌を
手に入れるために、
闇市を探し回ったことを、
まるで英雄談のように吹聴し
虚勢を張りました。
スキャンダルを鎮めるために
古物商の孫が支出した
莫大な金を嘲笑い、
恥さらしになった乞食姫を
からかいたかったのでした。
遅れて知らせを聞いたマクシミンは、
躊躇うことなく、
その連中が集まっている所へ
行きました。
奪った雑誌を暖炉に投げ込んだのは
多分に衝動的な選択でしたが、
彼は後悔しませんでした。
自分は会則に基づく決定を下したと
マクシミンは、
再び確固たる意志を伝えました。
問題を起こした会員に対する
除名処分を提案し、
今日の会議結果が出ました。
除名確定という事実が公表されると
問題の会員と親交のある知人たちから
電話が殺到し始めました。
どうか寛容を示し、
処罰の水準を下げて欲しいという
お願いでした。
若者がこんなに融通が利かないなんて
社交界と敵対するつもりなのかと
非難されると、マクシミンは、
明らかな被害者である
クラウヴィッツ少佐も、
ただスキャンダルに
巻き込まれたという理由だけで
排斥されているではないか。
もし社交界が、このような騒動に
目をつぶるというのなら、
不公平だという非難は免れないだろうと
言い返しました。
君は一体誰の味方なのかと
聞かれましたが、マクシミンは、
自分は、ただ、人の道理と紳士の名誉を
守りたいだけだと答えました。
電話の相手は
「おい、ジェンダス卿・・・」
と食い下がりましたが、マクシミンは
夕食の約束に遅れないよう、
そろそろ出発しなければならない。
次回の会合で会おうと告げ、
すぐに通話を終了しました。
ちょうど受話器を置いた時、
トントンと、軽快なノックの音が
聞こえて来ました。
「お入りください、お姫様」と
返事をしながら、マクシミンは
慈愛に満ちた笑みを浮かべた顔で
振り向きました。
まもなくドアが開き、
新しく作ったドレスを着たアルマが
姿を現しました。
コマのようにクルクル回りながら
煌めく飾りがついたスカートを
自慢したアルマは、
はじけるような笑いを浮かべながら
駆けつけて、
マクシミンの胸に抱かれました。
アルマは父親に、
これからパーティーに行くのですよねと
尋ねました。
マクシミンは、
そろそろ出発しようと答えました。
ひたすら嬉しそうにしていたアルマは
パーティーに来たお客が
自分をきれいだと
思ってくれるだろうかと、
突然、真剣な表情で尋ねました。
マクシミンは喜んで頷きながら、
バラ色の頬にキスをすると、
もちろんだ。眩しいほどきれいで
皆、びっくりするだろうと
答えました。
すると、アルマは、
クラウビッツ夫人のように?と、
突拍子もない質問をしました。
マクシミンの眼差しが
わずかに揺れました。
それを知る由もない子供は、
ウキウキしながら
今日のパーティーで、
クラウヴィッツ夫人に
会うことができるかと尋ねました。
マクシミンは、
いえ、それは難しいだろうと
答えました。
アルマは、
どうして?まだ具合が悪いのかと
尋ねました。
マクシミンは、
クラウヴィッツ夫人に会いたいのかと
逆に質問しました。
アルマは、
とても会いたい。
でも、クラウヴィッツ夫人は、
自分たちに
会いたくないのだろうかと呟くと
たちまち、意気消沈した顔で
マクシミンを見つめました。
マクシミンは
適当な答えを見つけられず
悩んでいるうちに、
再び電話のベルが鳴り始めました。
マクシミンは娘を抱き抱えたまま
机の前に近づきました。
無意味な頼み事だろうと推測しましたが
受話器の向こうからは
意外な声が聞こえて来ました。
オデットのことで
相談したいことがあるので
少し時間を作ってくれないか。
オデットが、
あれほど切実に求めていた
トリエ伯爵夫人でした。

最悪の事態は免れました。
体温計を確認したクラーモ博士は、
長々と、
安堵のため息をつきました。
バスティアンは、
まだ高熱に苦しんでいるものの
幸い薬が効いて、
峠を越えることができました。
もう少し、様子を見る必要があるけれど
もう深刻な状況を心配しなくても
良さそうだと言う、温かな音色の声が
静寂の中に染み込みました。
オデットは、
ずっとバスティアンを見つめていた
目を上げて、
クラーモ博士を見つめました。
いつの間にか、空は
バラ色の夕焼けに
染まり始めていました。
オデットは、まず、クラーモ博士に
お礼を言いました。
倒れたバスティアンを発見した
夜明けから今に至るまでの
時の流れを実感すると、
ようやく現実感が戻って来ました。
待機していた看護師を退室させた
クラーモ博士は、
長い間、蓄積した疲労に
ナイフで刺された傷が化膿して
炎症を起こし、病状が悪化した。
それでも、
患者の体力が並外れて良いし、
患部の壊死もないため予後は良好だ。
今夜が山場だけれど、この状態で
これ以上熱が上がらなければ
回復傾向に入るだろうと、
じっくり、バスティアンの病状を
説明してくれました。
黙って話を聞いていたオデットは、
とても痛かったはずなのに、
どうして、
何のそぶりも見せなかったのかと
ため息混じりの質問をしました。
クラーモ博士は、
元々、自分の体を労わることを
知らない子だったけれど
これほど愚かではなかった。
よほど、焦っていたのだろうと
答えました。
まだ意識を取り戻していない
バスティアンを見つめる
クラーモ博士の目元が
赤く熱くなりました。
私情を表に出さないよう
努めていましたが、
これ以上は無理でした。
クラーモ博士は、
母親と弟の命を奪った女性の息子が
今回は妻と子供に
危害を加えようとしたので、
冷静さを保つのは
難しかったのだろう。
1日も早く復讐を終わらせようと
血眼になるのも無理はない。
それが、まさに
家族を守る道でもあるのだからと
話しました。
その言葉にオデットは、
ぼんやりした目を
パチパチさせながら
それは・・・どういうことかと
固く閉ざしていた口を開きました。
クラーモ博士は
きょとんとした顔で彼女を見つめると
バスティアンの気持ちを察するに
おそらく、
そうだったのだろうと・・・
と答えました。
しかし、顔が真っ青になったオデットは
慌てて首を振りながら。
そういう意味ではない。
つまり、クラーモ博士は、
バスティアンの母親と弟が
継母・・・つまり、
テオドラ・クラウヴィッツによって
命を落としたと言ったのかと
尋ねました。
クラーモ博士は、ひどく当惑しながら
まさか知らなかったのかと、
信じられないというように
問い返しました。
オデットは、
ただ震える唇をパクパクするだけで、
何の返事もできませんでした。
途方に暮れたクラーモ博士は、
オデットに、失言したことを謝ると
逃げるように立ち上がりました。
オデットは急いで彼を呼び止めると
体を起こしました。
窓の外に見える空と海は、
今や夕暮れに染まっていました。
振り向いてオデットを見つめる
クラーモ博士の眼差しは、
薄暗がりに包まれた風景のように
深まっていました。
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オデットが、
一生大切に守って来た誇りは、
皇族の血を
引いているということではないかと
思います。
だから、
どんなに惨めな生活をしていても
卑屈になることはなく、心だけは
気高く保っていたのではないかと
思います。
でも、オデットは、
たまたま追放された皇女の娘として
生まれただけで、
彼女の守って来た誇りは
自分の力で手に入れたものではない。
オデットは
バスティアンと出会ったことで、
そのことに
気づいてしまったのではないかと
思います。
でも、オデットは
その誇り以外何も持っていないので
太陽のように光り輝く彼と
対等でいるためには、
誇りで自分を輝かせるしかないと
考えたのではないかと思いました。
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