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145話 悪夢にうなされていたバスティアンを、オデットは起こしました。
焦点が定まっていない青い瞳は、
まるで霜の付いた
ガラス窓のようでした。
オデットは落ち着いて
バスティアンの視線を受け止めました。
相変わらず
彼を胸に抱いたままでした。
触れ合った胸に伝わる心臓の鼓動は
幸い、悪夢に悩まされていた時より
安定していました。
ゆっくりと瞬きを繰り返していた
バスティアンは、しばらくして
再び眠りにつきました。
オデットは、ようやくリラックスして
一息つきました。
その時、バスティアンが
懐に潜り始めました。
慌てたオデットが
目をパチパチしている間に、
彼がさらに深く潜り込んで来ました。
首筋に顔を埋め、
両腕で腰を抱き締めました。
彼女の懐に完全に収まるはずがない
大きな体を丸めて、
まるで何かに追われるように。
必死にしがみついてくるバスティアンを
オデットは、どうしても
押し退けられませんでした。
両腕いっぱいに彼を抱き締めて
静かに背中を撫でました。
数多くの夜、
悪夢をよく見たティラを慰めて来たので
慣れていることでした。
もちろん、
小さくて、か弱いティラとは
随分、違う男ではあるけれど。
ぎこちない姿勢を直したオデットは
慎重に布団を引き上げ、
バスティアンを包み込みました。
冷たいオデットの体が
温かくなっていくほど、
熱いバスティアンの体が
冷えて行きました。
まだ正常な体温ではなかったけれど
これ以上、心配する必要は
なさそうでした。
オデットは、
バスティアンの額に垂れている髪の毛を
慎重にかき上げました。
荒いうめき声と息づかいが落ち着くと
寝室は再び深い静寂に包まれました。
お互いを完全に憎むことも、
許すこともできない自分たちは、
これから、
どうすればいいのだろうか?
依然として、
答えを見つけることができない
疑問が、チラチラ舞う雪のように
浮かび上がりました。
ため息を飲み込んだオデットは
バスティアンを抱いた両腕に
そっと力を入れながら
目を閉じました。
暗闇の中を漂う難破船のような
ベッドの上に、揺らめく雪の影は、
夜明けが深まるまで
止むことはありませんでした。

どうして、自分に
こんな仕打ちができるのか。
泣き声の混じった
テオドラ・クラウヴィッツの絶叫が
書斎いっぱいに響き渡りました。
受話器を握り締めた手は、まるで、
痙攣でも起こしたかのように
震えていました。
テオドラは、
今回だけ、もう一度助けて欲しい。
今週中に手形の不渡りを防げなければ
海運事業は終わりだ。
それを誰が食い物にするか、
よく知っているではないかと
訴えました。
オズバルト子爵(テオドラの父親)は
もはや形勢は傾いている。
無理して手形の不渡りを
食い止めたところで、
状況が変わることはないだろうと
返事をしました。
テオドラは、
だからといって諦めたら、
フランツはどうなるのか。
あの子のことを考えて、どうか・・・
と懇願しましたが、
深くため息をついたオスバルト子爵は
二度と自分の前で、
その名前を口にするな。
その子はもう、うちの家門とは
関係ない者だと冷たく一喝しました。
「そんな、お父様・・・」と
テオドラは言い返そうとしましたが
オスバルト子爵は、
オスバルトとクラウヴィッツの縁は
ここまでだ。
最後まで離婚を拒否するなら、
お前とも縁を切ることにしたので
そのつもりでいろと、断固とした口調で
テオドラの言葉を遮りました。
戦意を喪失したテオドラは
力なく、その場に
へたり込んでしまいました。
オスバルト子爵は、娘が望むことなら
何でも叶えてくれた父親でした。
甚だしくは、
すでに妻がいる男が欲しいという
欲望さえも叶えてくれました。
だからこそ、テオドラは、
そんな父が背を向けたなら
妥協の余地がないということを
分かっていました。
フランツの絵が引き金となった
スキャンダルは、ついに、
家門全体を根底から揺るがすに
至りました。
その上、
バスティアンの作戦に引っかかって
被った莫大な損失まで加わりました。
ベルクの鉄道王
ジェフ・クラウヴィッツの没落は、
もはや避けらない運命も同然でした。
鉄道会社を諦めれば、
残りの事業体だけでも
守れたはずなのに、
彼は理性を失って暴走し、
最悪の手を打っている真っ最中でした。
オスバスト子爵は、
もう全て終わった。
これ以上遅くなる前に、お前だけでも
その泥沼から抜け出すようにしろと
勧めました。
しかし、テオドラは、
自分がジェフ・クラウヴィッツの
妻だという事実は、
今後も永遠に変わらないだろうと
返事をしました。
自分は間違っていない。
テオドラは、
病的な強迫観念に囚われたまま
椅子から立ち上がりました。
晴れた空から降り注ぐ日差しが
赤く充血した目を刺しました。
あの男のために全てを捧げた。
この愛こそがテオドラの人生でした。
それを守る代償として
地獄に落ちることになるなら、
むしろ光栄だ。
ジェフ・クラウヴィッツもやはり
その炎の中にいるだろうから。
火を点けたキセルをくわえたのと同時に
「奥様、私です」と
聞き慣れた声が聞こえて来ました。
薬剤師に会いに行ったナンシーでした。
テオドラは、
わざと余裕のある態度を装いながら
メイドを迎えました。
頭を下げたナンシーが、そっと退くと
後を付いて来た女の子が
姿を現しました。
ニコニコした顔に、
何となく見覚えがありました。
彼女は、
ナンシー伯母の姪のモリーだと
先に丁重に挨拶をしました。
テオドラは、ようやく
使い捨てた駒を思い出しました。
テオドラは、
これは一体どういうことなのか。
自分は確かに、
使えそうな子を探して来いと
言ったはずなのにと非難すると、
釈明を求めるかのように
ナンシーを見つめました。
しかし、返事をしたのはモリーでした。
彼女は、
もう一度、奥様のために
働く機会を与えて欲しいと
伯母に頼んだと言いました。
テオドラは、
泥棒の濡れ衣を着せられて
追い出されたお前を、
また雇ってくれると思うなんて
自信過剰だと、
呆れたように失笑しました。
しかし、モリーは、
眉一つ動すことなく机の前に近づくと
それでも、
クラウヴィッツ少佐に関する件は
自分が適任だと思う。
自分より、
あの邸宅をよく知っている人も
いないだろうからと主張しました。
テオドラは、
すでに正体がバレたという事実を
すっかり忘れてしまったようだと
非難しました。
モリーは、
もちろん、
そう簡単ではないだろうけれど
方法が全くないわけではないと
言うと、
自信満々な態度で取り出した新聞を
机の上に置きました。
それを確認したテオドラの眼差しが
小さく揺れました。
このままソフィアの息子が
フランツを食いものにするのを
黙って見過ごすわけには
いきませんでした。
形勢が傾いたという父の言葉が
正しいことは知っていました。
しかし、テオドラは、
水面下の戦いにおいて、
自分がはるかに有利な手札を
握っていることもまた、
知っていました。
彼女は、
バスティアンの心が壊れて、
まともに暮らせなくなることを
願いました。
今度こそ、あの長年の願いを
叶えられそうな気がしました。
あの修羅場の中で
オデットを抱き締めていた
バスティアンを見て、
そう確信しました。
テオドラは、
次の犬を見つけました。
今回は子犬まで宿している
品種の良い美しい犬でした。
テオドラは、
再びモリーを見つめると、
何でもする準備はできているのかと
尋ねました。
モリーは、
「はい、いくらでも」と答えると
その代わり、手数料の半分は
前払いでお願いしたいと
要求しました。
テオドラは、
成功するか失敗するか
分からないことに、お金を使うような
ギャンブルをすると思っているのかと
尋ねました。
モリーは、
分からないけれど、
かなり危険なことだと思うので、
その程度の代償は
支払わなければならないのではないかと
無邪気に笑いながら主張しました。
驚愕した伯母が制止しても、
引き下がりませんでした。
貪欲だけに満ちた、
その澄んだ瞳を見つめていたテオドラは
つい声を出して
大笑いしてしまいました。
常軌を逸した娘だけれど、
だからこそ、
今回の仕事の適任者だという事実を
否定することは困難でした。
テオドラはモリーに、
それで、いくら欲しいのかと
尋ねました。
モリーは、
前回、約束した報酬だけは欲しいと
躊躇うことなく、
大胆な返事をしました。
その厚かましい顔を
じっと見つめていたテオドラは、
ゆっくり立ち上がると、
窓の前に近づきました。
湾の向こうにあるバスティアンの世界は
今日も眩しいほど輝いていました。

幻想だと思いました。
それ以外に、目の前に広がる光景を
他に説明する方法がなさそうでした。
オデットは、
バスティアンを胸に抱いたまま
ぐっすり眠っていました。
寝室を満たしている朝の日差しに
染まった顔が、
とても安らかに見えました。
再び見られるとは
思ってもみなかった光景でした。
頬を覆っている髪を
払い退けてあげたかったけれど、
バスティアンは、なかなか
手を伸ばすことができませんでした。
この美しい幻想から
覚めたくありませんでした。
ただ、このままでいたかった。
できれば、この懐の中で永遠に。
しかし、その安らぎの時間は
それほど長くは続きませんでした。
さざ波のように押し寄せて来た眠気が
バスティアンの意識を蚕食しました。
意志とは関係なく、目が閉じました。
背中を撫でる手を
感じたような気もしましたが、
記憶は不確かでした。
バスティアンは、
さらに明るくなった光の中で
再び意識を取り戻しました。
ひんやりとして柔らかな手が
額に触れていました。
夢というには生々しい感覚でした。
バスティアンは無意識に息を殺して
目を閉じました。
寝具をかすめる髪の毛の音が
サラサラと、
温かな光の中に染み込みました。
そして、まもなく、
彼を包んでいた温もりが
去っていきました。
バスティアンは反射的に目を開けると
寝返りを打った彼女の白い背中が
目に入って来ました。
オデットは、
もうベッドから出ようとしているのか
布団を払い退けていました。
「・・・もう少しだけ、オデット」
バスティアンは、衝動的に
オデットを抱き締めました。
夢でも、現実でも、
そのどちらでも構わない。
その盲目的な渇望のままに、
オデットの背中を抱き締めました。
ビクッとして、身をよじらせた彼女は
そう長くは経たないうちに
静かになりました。
依然として背を向けたままでしたが、
バスティアンは気にしませんでした。
少なくとも拒否はしなかった。
今は、それで十分でした。
バスティアンは、
胸の奥深くにオデットを抱き締めたまま
窓の向こうの空を見つめました。
過ぎさった日々を、
再び生きているような気分にさせる
平安と休息の時間でした。
じっくりと記憶を辿っていた
バスティアンの眼差しが深まりました。
高熱と悪寒に苦しんでいる状態で
邸宅に到着しましたが、
バスティアンは、
何の処置も取っていませんでした。
ただ、この部屋に来て、
オデットのそばに倒れ込んで
横になっただけでした。
もう少しだけ、このままで。
今のように虚しい未練を
捨てられないまま。
私はあなたを愛している。
すべてが白く燃え尽きた場所で
バスティアンが向き合ったのは、
結局、
それほどまでに虚しい真実でした。
子供は、最初から、
バスティアンの関心事では
ありませんでした。
ただ、オデットを手放さない口実が
必要だっただけでした。
惨めに裏切られてもなお、依然として
この女を渇望する自分自身を
到底、容認できなかったからでした。
それは、ただ一つの目標のために
捧げて来た全生涯を
否定するようなものでした。
穏やかな静寂の中、ドアの外から、
クラーモ博士が、
今、ご主人様を診察してもいいか
聞いていると、
メイドの声が聞こえて来ました。
意に介さないバスティアンとは違って
オデットはギョッとして
体を起こしました。
オデットはドーラに、
「はい、そうしますと
伝えて欲しい」と返事をすると
腰を抱き締めている、
バスティアンの腕を押し退けて、
急いでベッドの下に降りました。
白い日差しに染まった、
オデットの一糸纏わぬ姿を
じっと見つめていた
バスティアンの視線は、
膨らんだお腹の上に
釘付けになりました。
美しいものを、
ついに台無しにしてしまった
過ちの証拠であり、
それでも唯一の希望の証でした。
振り返って
バスティアンを一瞥したオデットは
何も言わずに、
再び目を逸らしました。
脱いでおいたネグリジェと
ガウンを着たオデットは
ドレッサーの前へ行って
髪を梳かしました。
最後に、レースのショールを羽織った
オデットが立ち上がったのと同時に、
クラーモ博士の
ノックの音が響き渡りました。
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オデットとバスティアンの関係が
ようやく良い方向へ
行きそうになっているのに、
再び、テオドラが、それを、
ぶち壊しそうな予感がします。
テオドラは
ソフィアの命を奪ってまで
ジェフ・クラウヴィッツと
結婚したけれど、彼の心までは
手に入れられなかった。
ジェフの妻の座は手に入れても、
結局、ソフィアに勝てなかった
テオドラは、フランツが
バスティアンに勝つことで、
その恨みを晴らそうとしたけれど、
それも叶わなかった。
しかし、悪運の強いテオドラは、
オデットが
バスティアンの弱みであることを
知ったので、ソフィアと同じ方法で
オデットと子供に
手をかけることにした。
何度も犯罪に手を染めようとするほど
ジェフ・クラウヴィッツが
価値のある男なのか、
そして、古参のメイドたちが、
テオドラの犯罪に手を貸すことに
何の良心も痛まないのか、
甚だ疑問です。
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