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146話 バスティアンの具合はどうなったのでしょうか?
風呂から上がると
掃除が終わっていました。
オデットは、
晴れた午後の日差しの中に立って
寝室を見つめました。
シーツを交換したベッドは、
新品のようにきれいに
整えられていました。
そこに横になっていなければならない
患者の姿は見えませんでした。
少なくとも3日間は絶対安静という
クラマー博士の指示を、いつの間にか
忘れてしまったようでした。
バスティアンを探して
寝室を覗いていたオデットの視線は、
暖炉の前のテーブルの上で
止まりました。
アヤメでした。
オデットは、
一目でその花に気づきました。
青いアヤメの花束が
テーブルの上に置かれていました。
大きなベルベットの箱も一緒でした。
奥様宛に届いた
お誕生日プレゼントだと
後を付いて来たメイド長の説明を聞いて
オデットは、
山のように積まれている他の花束と
プレゼントの箱を見つけました。
そこへ近づいたオデットは、
戸惑いながら、
同封されているカードを確認しました。
ほとんど、
バスティアンと親交のある
軍人と実業家の家門から
送られて来たものでした。
結婚してからは、毎年誕生日ごとに
依頼を伴う贈り物が
殺到していましたが、
様々なスキャンダルで
評判が地に落ちた今年まで、
このような熱意を見せるとは
思っていませんでした。
バスティアンが、
健在だという証拠のようで
オデットは、ほっとしました。
すでに互いに十分傷つけ合い、
壊し合ってしまいました。
オデットはこれ以上、
借金をしたくありませんでした。
後片付けを終えたメイドたちが退くと
平穏な静寂が訪れました。
オデットはまず、
プレゼントと一緒に届いたカードを
一つにまとめて整理しました。
彼女宛に送られて来たものの、
実質的には、
バスティアンの歓心を買うための
贈り物でした。
人脈を管理するためには、
彼が確認できる名簿を
残しておく必要があるはずでした。
おそらく最後になる
妻の仕事を終えたオデットは、
唯一、差出人のないプレゼントに
再び目を向けました。
メイド長を呼んで聞けば
解決される問題だと知りつつも
なかなか決心がつきませんでした。
悩んでいたオデットは、
包装を解いた花束と花瓶を持って
浴室へ行きました。
洗面台の蛇口を飾っている
白鳥の金色の翼を
ぼんやりと見つめているうちに、
花瓶にいっぱいになった水が
溢れ出しました。
遅ればせながら、
それに気づいたオデットは、
慌てて蛇口を閉めました。
その勢いで落とした花束が
浴室の床に散らばってしまいました。
普段はしないミスでした。
静かにため息をついたオデットは
身を屈めて花を拾いました。
何気なく数えた花の本数は24。
オデットの年と同じでした。
胸に抱いた花束を
じっと見下ろしていたオデットは、
しばらくして、ようやく、
やろうとしていたことを
再び思い出しました。
アヤメを入れた花瓶を持って
寝室に戻ると、いつの間にか海が
金色に染まっていました。
寝坊をしたせいか、1日が
とても短く感じられる日でした。
コンソールの上に花瓶を置いた
オデットは、
再び窓際のテーブルに戻り、
赤いベルベットの箱に
向き合いました。
慎重に蓋を開けると、
きれいに包装された、
色とりどりのチョコレートが
現れました。
オデットは、慎重に取り出した
金貨型チョコレート1つを
手のひらの上に置きました。
仕事が見つかった記念に購入したけれど
バスティアンから逃げる途中、
落として壊れてしまった、
あの日の、あのチョコレートと
同じようなものでした。
オデットは混乱した眼差しで
手に持ったチョコレートを
見つめました。
マルグレーテが吠える声が
聞こえて来たのは、24本のアヤメに
目を向けた瞬間でした。
バルコニーに通じるドアの前に立った
マルグレーテが、
せっせと尻尾を振りながら
窓ガラスを引っ掻いていました。
その理由に気づいたオデットは、
悪い悪戯をしてばれた子供のように
慌ててチョコレートを置きました。
バスティアンが
バルコニーの手すりにもたれかかって
海を眺めていました。
指の間に挟んでいるタバコを
見つけたオデットは、
思わず眉を顰めました。
元々、患者の体力が
非常に良かったので、幸いだった。
まだ、経過を観察する必要が
あるけれど、
熱が再び上がらなければ、数日以内に
回復することができるだろうと
クラーモ博士は言いました。
オデットも、
その意見に同意しました。
だからといって、
冷たい風に当たりながら
タバコを吸っても、
大丈夫な状態とは思えませんでしたが。
オデットは、
静かなため息をつきながら
バルコニーの前に近づきました。
しかし、なかなかドアを開けられず
躊躇っているうちに
バスティアンが
タバコを吸うのを止めました。
視線は依然として
海に留まっていました。
風になびいているコートの裾を
じっと見つめていたオデットは、
ドアから手を離し、背を向けました。
その時、背後から、
冷たい風が吹きつけて来ました。
オデットはビクッとして
振り返りました。
バスティアンが
バルコニーのドアを開けました。
慌てふためいたオデットが
躊躇している間に、
先に、ウキウキしたマルグレーテが
雪の積もったバルコニーに
飛び出しました。
その様子をチラッと見たバスティアンは
何も言わずに、
再び手すりの前に戻りました。
ドアを開けたままでした。
勇気を振り絞ったオデットは、
落ち着いた足取りで
敷居をまたぎました。
一晩中降り続いた雪で覆われた世界は
純白に輝いていました。

そろそろ、
ベッドに戻った方がいいと思うと
先にオデットが口を開きました。
バスティアンは視線を斜めに下げて
そばに立っているオデットを
見つめました。
オデットは、
風が冷たいし、
あなたは患者ではないかと告げると
白い雪の花が咲いている
冬の庭を見ていた目を
バスティアンに向けました。
叱るような眼差しが
バスティアンを虚しくさせました。
一体、誰が誰を心配しているのか。
馬鹿げていましたが、
同情される気分は、
それほど悪くはありませんでした。
乱れた髪をかき上げたバスティアンは
肩にかけていたコートを脱いで
オデットのそばに近づきました。
ふわふわと雪の結晶が舞う風が
向かい合う2人の間を
通り過ぎました。
煌めく光のカーテン越しの女を
じっと見つめていたバスティアンは
手に持ったコートで
痩せた肩を包み込みました。
慌てたオデットが
首を横に振りましたが、
彼は意に介さず、目標を遂行しました。
白い砂浜に打ち寄せる
穏やかな波の砕ける音が、
冷たく澄んだ風に乗って
広がって来ました。
落ち着いてコートのボタンを留めた
バスティアンは、最後に襟を立てて
オデットの首元を包み込みました。
彼が一歩下がると、
オデットはようやく、
まともに息を吐き出しました。
意図せず、
患者の服を奪って着ることになり
心が落ち着きませんでしたが、
これ以上、いざこざを
起こしたくありませんでした。
そのまま背を向けようとしたのを
やめたオデットは、
あのスキャンダルとトラブルを
うまく解決してくれてありがとうと
一晩中悩んで、準備した
お礼の言葉を淡々と伝えました。
じっと彼女を見つめる
バスティアンの目は、
晴れた日の海のように
深く静かでした。
オデットは、
自分のせいで、
たくさん苦労をかけたこと、
そして、そのせいで
体を壊したということも
知っている。
意図せず、迷惑をかけてしまって
申し訳ない。
もう、ある程度、健康を回復したので
連休が終わり次第、出て行くと
告げました。
棘のように刺さっていた言葉を
口にすると、
心が一層安らかになりました。
ここまでにしよう。
素直な心でバスティアンと向き合うと
もうこの男に対する憎しみと恨みまで
効力を失ったことが
初めて分かる気がしました。
それならオデットは、
もう、ここから立ち去りたいと
思いました。
オデットは、
以前のように、
逃げるという意味ではない。
お互いに連絡が取れる程度の関係は
維持しよう。
もしあなたが、
子供の父親としての権利を持つことを
望むなら、その意思を尊重する。
代わりに養育は自分に任せて欲しい。
もちろんラビエル嬢の同意が
必要だけれどと・・・言いましたが、
バスティアンは、
サンドリン・ド・ラビエルは、
もう自分の子供のこととは無関係だと
穏やかなため息交じりの返事で
オデットの言葉を遮りました。
そして、バスティアンは、
ラビエルとの婚約は解消した。
その子を育てたいなら、
自分の妻として生きて欲しいと
悩んだ末に下した結論を
落ち着いて伝えました。
取り返しのつかない関係だということは
分かっていました。
それでも、
手放すことはできませんでした。
「いいえ、バスティアン。
やめてください」
オデットは混乱した顔で
バスティアンを見つめました。
力を込めて握り合った両手が
痙攣するように震え始めました。
オデットは、
あのスキャンダルに対する
罪悪感のためなら、
そんなことをする必要はない。
自分が望むのは自由と平安だけ。
このような同情と責任は
望んでいないと主張しました。
罪悪感。同情。責任。
泥沼の中でも、
高潔な価値を見出すオデットの上に
初めての出会いの記憶が
浮かび上がり、
バスティアンの虚無感を深めました。
彼は、
オデット嬢の目には、
自分がそのような理由で
犠牲と献身をする人格者のように
見えるのかと、
ため息をつくように、
自嘲混じりの質問をしました。
国益のために結婚を命じた皇帝は、
皇室の名誉のために
離婚を命じました。
誰に姪を売ったのか、
ようやく実感したようでした。
トリエ伯爵夫人は、
オデットの後見人になることを願い出て
皇帝は、それを受け入れました。
離婚すれば、オデットは
トリエ伯爵家の庇護を
受けることになると言いました。
物心両面で惜しみない支援をしながら
オデットを助けると。
つまり、オデットはもはや
誰にも顧みられない絶海の
孤島などではないという意味でした。
その勅書に向き合った瞬間、
バスティアンは、
オデットの救援者という
今まで享受してきた
その絶対的な職位を
剥奪されたということを悟りました。
彼が素直に皇命を受け入れるなら、
オデットは、貧乏人の身の上で、
底辺を彷徨う悲劇などなしに、
自由に平穏に、
あれほど切実に夢見た新しい人生を
始めることができました。
バスティアンは、
自分がそれを望んでいると告げると
遠い海を眺めていた目を
再びオデットに向けました。
彼を湛えている
オデットの青緑色の瞳には、
海を覆っているさざ波に似た光が
揺れていました。
美しかった。
この女の人生を台無しにする
足枷となってでも、
決して、手放したくないほどに。
バスティアンは、その歪んだ欲望を
これ以上、
回避しないことに決めました。
自分のもの。
誰も彼のものを、むやみに
奪うことはできませんでした。
たとえ、それが皇帝だとしても
同じでした。
もはや、
オデットの最善になれなくても
構いませんでした。
バスティアンは、たとえ騙し、
縛り付けることになっても
この女を望んでいました。
目と耳を塞いで隠しておくのも
悪くはなさそうでした。
彼はオデットを、オデットは子供を
各自が切望するものを
手に入れるわけだから、
少なくとも最悪よりはマシな
選択になれるはずでした。
「ドーラです、奥様」
ノックの音とともに、
メイド長の声が、
深まりつつあった沈黙を破りました。
オデットは入室を許可すると
逃げるように
バルコニーを離れました。
バスティアンは、
習慣的に握っていたタバコを置いて
オデットの後を追いました。
静かに近づいて来たメイド長は、
2人とも病気なので、誕生日の晩餐は
こちらに用意した方が
良いと思うけれど、
奥様の考えはどうかと
丁重に尋ねました。
オデットは、
ひどく慌てて首を横に振り、
その必要はないと断りました。
しかし、メイド長は、
結婚後初めて、
2人が一緒に過ごす誕生日なのに、
このまま何もしないでいるのは
残念ではないかと訴えると、
オデットをかすめた視線を、
そばにいるバスティアンに
向けました。
2人に無理のない範囲で、
ささやかに
誕生日のお祝いをするのはどうか。
クラーモ博士の助言を仰ぎながら
準備してみると、
メイド長はかつてないほど
頑固な態度を見せました。
沈黙することで
返事を代わりにしたバスティアンは
暖炉の前に置かれた椅子に座って
熱を帯びた息を整えました。
窓の向こうの海は、今や、
暮れ行く今年最後の日が残した光で
赤く染まっていました。
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バスティアンがオデットへの愛を
自覚したのはいいけれど、
まずは、それを伝える必要が
あるのではないでしょうか。
サンドリンとの婚約は解消した。
その子を育てたいなら、
自分の妻として生きて欲しい。
ではなくて、
あなたを愛しているから、
サンドリンとの婚約を解消した。
だから、これからも
自分の妻として生きて欲しい。
と言うべきではないでしょうか。
しかも、目と耳を塞いで隠すなんて、
オデットの人間としての尊厳を
全く無視しています。
バスティアンだってオデットに
自由で平穏な人生を与えることが
できるのだから、
まずは、拗れた関係を解消するために
本心を伝えて、誠心誠意、
オデットに接するべきだと思います。
ドーラは、そんな2人の関係を
修復する手助けをしてくれそうです。
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