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148話 オデットは、自分のお腹に触れているバスティアンの手を握りました。
オデットは、バスティアンの手を
押し退けるつもりでした。
間違いなくそうだったと、オデットは
自信を持つことができました。
子供との甘い眠りを妨げる
招かれざる客が
嬉しくなかったからでした。
どうして、あなたが?
お腹を触る手が意味することに
気づいたオデットは、
こみ上げてきた恨みの中で
目を開けました。
今さら何の資格で?
衝動的に
バスティアンの手を握った時、
オデットは明らかに怒っていました。
無謀な抵抗をしてでも、
必ず抑圧から逃れるつもりでした。
もう子供と一緒だから。
オデットは、
ただ運命を受け入れろと子供に教える
母親になりたくありませんでした。
その覚悟が悲壮だっただけに、
素直なバスティアンは
大きな虚無感をもたらしました。
片手だけで、オデットを
完全に制圧できる男でした。
それにもかかわらず、バスティアンは
拒否すれば退いてくれるとでも
言うように、
彼女に決定権を与えました。
戦意を失ったオデットは、
ぼんやりとした目で、
空中を見つめました。
大きくて固い男の手は、
依然として彼女の手の中に
静かに留まっていました。
背中に伝わるバスティアンの
心臓の鼓動は、穏やかな波のように
柔らかくて心地良いものでした。
オデットの心臓も、
いつのまにか彼と同じ速さで
鼓動していました。
もう、立ち去るのが正解でした。
オデットは、それが皆にとって
最善であることを
よく知っていました。
彼が与えた傷を忘れて
生きていく自信がありませんでした。
彼に与えた傷もまた同じでした。
過去を忘れて幸せを夢見るには、
すでに、あまりにも遠くまで
流れされてしまった仲でした。
お互いを不幸にする選択をするのは
愚かでした。
けれども、
とっくに止んだピアノの旋律が、
耳元に聞こえてくるような
気がしました。
それでも、
捕まえることも、
押し退けることもできない手が
分け与えてくれる温もりは、
自らを欺きたくなるほど温かでした。
そっと閉じていた目を開けた
オデットは、
子供が留まっている右側のお腹の下に
バスティアンの手を導きました。
彼とは関係のない子だと
思うことにしました。
その決心は今も変わりませんでした。
しかし、いくら否定しようとも、
この男が子供の父親だという事実が
消えることはありませんでした。
オデットは、その限界も
受け入れることにしました。
だから、もう一度最初から、
ダ・カーポ。
オデットは美しい幻聴に
しばらく心を委ねました。
そして、もう一度トリル。
結局、消えていく瞬間をつかむ
無駄な努力だとしても、
もう少しだけ。
その旋律が気に入ったと言うように
子供がふわりと体を動かしました。
それと同時に、
静かにお腹を包み込んでいた
バスティアンの指先に
微細な震えが走りました。
オデットは、
子供にもう少し近い所に
バスティアンの手を導きました。
何一つ、
まともなことがなかったけれど
それでも長く記憶に残りそうな
誕生日でした。
祝福のように降ったぼたん雪と、
お互いを慰めてくれた体温。
24本のアヤメ。
そして子供を踊らせたチョコレート。
いつか子供が、
父親について尋ねたら、
オデットは、今日のことを
話したいと思いました。
長くは一緒にいられなかったけれど
それでも、美しい日々があり
あなたは、
その光の中で生まれた子なのだと。
子供を欺く母親になっても
構いませんでした。
オデットは、
真実を話して傷つけるより、
心を守るために
嘘をつきたいと思いました。
胎動が収まってから間もなく、
新年の始まりを知らせる
最初の鐘が鳴り響きました。
それと同時に、ドンと
海の向こうから
花火が打ち上げられました。
どこかの邸宅で、
新年を記念する花火大会を
開いたようでした。
いよいよフィナーレ。
謙虚に終わりを受け入れることにした
オデットは、ついに
バスティアンの手を離しました。
その手が、離れようとする
オデットの手を握ったのは、
ちょうど2回目の花火が咲いた
瞬間でした。
連続して打ち上げられた
色とりどりの花火が
アルデンの夜空を彩りました。
オデットは赤くなった目で
その炎の饗宴を見つめました。
手の甲を包んだ熱い手が
彼女の手を再び、
子供が眠っているお腹の上に
導きました。
美しい光の饗宴の中で、
12回の鐘が鳴るまで
1つになった彼らの手は、
子供の上にじっと留まっていました。

「おい、クラウヴィッツ少佐!」
名前を呼ぶ陽気な声が
響き渡りました。
バスティアンは立ち止まって
振り返りました。
予想通りの顔、
エーリッヒ・ファーバーが
廊下の向こうから
近づいて来ていました。
出勤中の将校たちの視線は
一斉に彼らに集中しました。
「久しぶりに、
一緒に散歩をするのはどう?」
エーリッヒは、
精一杯、もったいぶった態度で
窓の外を指差しました。
鼻高々なのを見ると、
望む結果を手に入れたようでした。
ここで語るべき話ではないという
判断を下したバスティアンは、
素直にその提案に応じました。
出勤時間まで、
まだ30分程度、余裕がありました。
それくらいなら、
エーリッヒ・ファーバーの
機嫌を取るのに十分なはずでした。
海軍本部のロビーに出た2人は、
水の庭園の方へ足を向けました。
ラッツにも、
かなりの雪が降りましたが、
海軍省の歩道は完璧に除雪されていて
歩くのに支障はありませんでした。
くだらない雑談で大騒ぎをしていた
エーリッヒ·ファーバーは、
庭の中央に辿り着いてから
ベッカー夫妻を見つけたと、
本題に入りました。
彼は、
大都市に定住したおかげで
追跡が容易だったそうだ。
製材所を作る
準備をしているらしいけれど、
お前が探している
あのベッカーかと尋ねました。
バスティアンは
「ああ、そうだ」と淡々と答えて
頷きました。
新大陸に移住した親戚の多い
エーリッヒ·・ファーバーは、
新大陸に関することにおいては
最高の情報源でした。
特に、政府筋に強い人脈があり
人を探すことにかけては
普通の探偵より優れていました。
それを証明するかのように、
彼は予想よりもはるかに早く
成果を上げました。
妹を守ろうとして、
お前の背中にナイフを突き立てた女。
乱闘中に聞いたフランツの悪口を
再び思い出したのは、
刃物で刺された傷の縫合が
終わる頃でした。
弟の罪を代わりに被って、
その秘密を守るために
全てを捧げるなんて、
到底、話にならないことでした。
しかし、バスティアンは
あの愚かな女が、いくらでも
そんな、とんでもないことを
しでかすことができるということを
知っていました。
明らかに何かがある。
直感を信じることにした
バスティアンは、その日すぐに
エーリッヒ・ファーバーと
電話で話をしました。
オデットが持っている
ティラ・ベッカーの住所は
現在の居住地と
一致していませんでした。
おそらく、あちこちを転々としながら
定住地を探しているようでした。
次の手紙が来るのを
待つこともできましたが、
バスティアンは、そんな忍耐力を
発揮したくありませんでした。
エーリッヒは、
今日中に人を送るそうだ。
お前に、直接電話をするようにと
伝えればいいのだろう?と尋ねると
気前よく、
タバコの箱を差し出しました。
そして、
あっ、お姉さんのためのことだという
言葉も一緒に伝えるんだよね?
と確認しました。
バスティアンは
「そうだ」と答えると、
素直にタバコを1本取り出して
火を点けました。
不必要な好奇心を露わにする
エーリッヒの質問には、
適当に表面的な答えで通しました。
長年繰り返して来たので、
慣れていることでした。
もしオデットが
とばっちりを食ったのだったら?
バスティアンは、
雪が積もっている庭を
じっと見つめながら、
過去の記憶を思い起こしました。
オデットの願いは、
皇女の盾の役割をした代価として、
僅かな年金を守ることだけでした。
もしディセン公爵の事故によって
崖っぷちに追い込まれなかったら
あの女は、決して
2年間の偽の妻の役割を
受け入れなかったはずでした。
バスティアンは、
正確にその弱点を突いて
結婚を成功させ、そのため誰よりも
その事実をよく知っていました。
しかし、あの事故を起こしたのが
妹だったら、そんな妹のために
望まない結婚をしたのなら、
その秘密を守るために自分を裏切って
奈落に落ちたのだとしたら、
一体、あの女の人生は
どうなってしまうのか。
どうかフランツの勘違いであることを
願いたくなった頃、15分前を告げる
鐘の音が鳴り響きました。
バスティアンは深く吸い込んだ煙を
吐き出しながら鐘塔を見つめました。
指先に伝わった、
弱々しい震えを思い出したのは、
タバコを口にくわえた瞬間でした。
手段と目的に過ぎなかった
子供という存在が、
実在する1人の人間に
近づいた瞬間でした。
子供ができた。
オデットの妊娠が意味するものを
明確に悟ると、
限りなく無力な気分になりました。
できるだけ早く、
この混乱に終止符を打つという決意を
固めた瞬間でもありました。
バスティアンは、
まだ半分も吸っていない
タバコを消して踵を返しました。
まず、デメル提督の執務室へ行って
新年の挨拶をし、
始業式に出席するための
準備をしました。
完璧な礼装を整えた姿のどこにも、
連休中ずっと、
ベッドに留まっていた病人の痕跡は
見当たりませんでした。
最後に制服の身だしなみを整えた
バスティアンは、大股で
日差しが溢れる廊下を
横切り始めました。

用心深く、門衛所の前まで
やって来た1人の若い女が、
窓ガラスを叩き、
メイドの面接を受けに来たと
告げました。
彼女がぺこりと頭を下げると、
古びたボンネットの上に
積もっていた雪が
はらはらと落ちました。
ぼろぼろのマフラーとコートで
小さな体をグルグル巻きにした姿は
まるでミイラのようでした。
渋々立ち上がった門番は
欠伸をしながら窓を開けました。
彼は、少し待つようにと告げると
投げやりな態度で日誌を広げました。
規則を破った使用人を
大量に解雇した上に、近いうち
女主人と共にローザンへ行く
人員まで抜けるため、邸宅の人手が
非常に不足していました。
おかげで、毎日のように
使用人を採用するための面接が
続いていました。
門番は、
今日の12時に
台所仕事をするメイドの面接を
受けに来たのかと尋ねました。
若い女は
「はい、そうです」と答えました。
ちょうど11時を指している時計を
確認した門番は、目を細めながら
まだ面接の時間ではないのに、
なぜ、こんなに早く来たのかと
尋ねました。
若い女は、
歩いて来れば、
ちょうど時間通りに来られると
思っていたけれど、
自分が急ぎ過ぎたようだ。
迷惑をかけて申し訳ないと謝り
落ち着きのない様子で
頭を下げました。
駅からここまで、
あんなに遠い距離を歩いて来たなんて
愚か者だと、呆れた門番は
舌打ちして門衛所の外に出ました。
ぼろぼろの服を何枚も重ね着した
若い女は、
古びたカバンを、命綱のように
大切に抱えていました。
都会への漠然とした幻想を抱いて
仕事を探しに来た
典型的な田舎の少女の姿でした。
人を見る目が厳しいメイド長の目に
留まるはずがないので、
見るまでもなく
断られることになるはずでした。
門番は、
まあ、ゆっくり見物でもしてから
面接を受けに行くようにと告げると
門を開けてやることで、
今日が最初で最後になるであろう
哀れな田舎者に配慮しました。
頭を深く下げながら
お礼を言った女は、
小走りで屋敷に向かいました。
門番は長い欠伸をしながら
再び門を閉めました。
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ヘレネはオデットを
愛していなかったわけでは
ないけれど、
皇籍を取り戻す時のために
オデットを厳しく躾けたので、
彼女は母親からの温もりを
感じたことがなかった。
そして、ディセン公爵も、
父親としての愛情を
注ぐことはなかった。
オデットは、
両親の温もりを知らずに育ったけれど
バスティアンが、
それを与えてくれた。
従の扱い方を教えてくれたり
観覧車に
乗せてくれようとした時など、
折に触れて
バスティアンの温もりに触れた
オデットは、
そういったものに慣れていないせいで
ぎこちなさを覚えたけれど、
心地良さも感じたのではないかと
思います。
そして、今は、それを
手放したくないと思っている。
けれども、
バスティアンと一緒に
いるべきではないとも考えている。
今のオデットに必要なのは
環境の良い所で、穏やかに暮らしながら
自分の気持ちを見つめ直す時間を
持つことではないかと思いました。
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