
96話 父親のスケッチブックの中には、幼い頃のダルトン氏の絵がありました。
ローラは初めてこの絵を見た時、
一目でダルトン氏であることに気づき
その可愛さに絶句しました
白く透き通っていて
雲のようにふわふわしている肌。
ほんのり赤らんだ頬。
黒い目。ギュッと結ばれた小さな唇。
今まで出会って来た少年たちの中で
一番、驚かされました。
もし近所に住む
知り合いの小さな子供だったら、
毎日飴を一つ買ってあげたり、
頬を一度ずつ
つねってあげたりしただろうと
思いました。
ローラはダルトン氏を見ました。
彼はローラのそばに立ち、
ズボンのポケットに手を入れたまま
湖の上を漂う
アメンボを見つめていました。
青緑色のスーツにベストまで着て
黒いネクタイを締めた彼は、
完璧な青年紳士でした。
きれいに梳かした髪の毛の下に現れた
横顔は、幼い頃の無垢な少年の面影は
微塵もなく
彫刻のように整っていました。
ローラの唇に浮かんでいた笑みが
消えました。
心臓が、故障したエンジンのように
ガタガタしました。
最近、よくこうなりました。
病気にでも罹ったかのように
彼を見ると、心臓が暴れました。
彼が自分のために泣いてくれた
あの日以来、彼女の感情は
制御不能になりました。
蓋で閉じられていたけれど、
ひびの入った隙間から
感情が漏れてしまいました。
彼女は超人的な力で
感情を無視しました。
そうして、表現する術のない感情は、
そのまま、心臓を引っ掻くような
苦痛となりました。
ローラは、胸を刺すような
ヒリヒリとした痛みに
眉を顰めました。
このような時、彼女は、父親の不在を
非常に残念に思いました。
ダルトン氏のように
感情に慣れる方法を父から学んでいれば
適切に対処する方法も
分かったはずでした。
今までの彼女の感情への対処方法は
コントロールし、無視し、
疑いの目で警戒することだけでした。
コントロールする力を失った彼女は、
まるで厳格に育てたせいで歪んだ子供が
成人して問題を起こす姿を
手をこまねいて見ているだけの
愚かな両親のように
感情の暴走に、ただ耐えるだけでした。
ローラは小さくため息をつきながら
スケッチブックを閉じました。
そして、いつものように穏やかな声で
ダルトン氏に、
何を考えているのかと尋ねました。
ダルトン氏は、
ハイド嬢との水切り対決を
思い返していた。
水を見ると、あの時の屈辱的な敗北を
思い出すと答えました。
ローラはクスッと笑って
面白い対決だったと返事をしました。
ダルトン氏は、
ハイド嬢は元気かと尋ねました。
ローラは、
そのようだ。
彼女から手紙が届いたけれど
今度、メアリー・ローティスの原稿を
うまく仕上げたので
特別手当をもらったそうだ。
プレゼントとして、
真珠の付いた小さなブローチを
一緒に送って来たと答えました。
ダルトン氏は、
それはすごい。 確かに、
石ころを水平線の向こうまで
投げられる淑女なら
何でもやり遂げるだろうと
感心しました。
ローラは、
そう願っている。
実は、出版社側で、
ハイド嬢をタイピストではなく
正式な編集者として採用することを
検討中だそうだ。
女性編集者は前例がないので、
幹部の間では
反対意見もあるそうだけれど
自分はうまくいくと思う。
文章に関しては、誰よりも鋭くて
見識のある人だからと話しました。
ダルトン氏は、
ハイド嬢が編集者になるかどうかは、
彼女の資質に
かかっているわけではない。
その出版社に
見る目があるかどうかによる。
編集者としての採用が流れたら
もう辞めるよう
ハイド嬢に伝えて欲しい。
正当な待遇をしてくれない所には、
長くいる必要はないと話しました。
ローラは、
フェアファクス氏も同じ考えだと思う。
彼はハイド嬢の昇進がダメになった時、
新たに推薦状を送る
出版社の長いリストを、
すでに用意していると話しました。
自分のことでも
しっかりやっていればいいものを。
全く、他人を助けたくて
仕方がない奴だと、
ダルトン氏は悪口を言うように
自分の友人を褒め称えました。
ローラは笑い出した。
その時、空から
ゴロゴロいう音が鳴り響きました。
空を見上げると、快晴だった空に
灰色の雲が、
急速に押し寄せて来ていました。
二人の視線が空中でぶつかりました。
狼狽の色が、二人の顔をかすめて
通り過ぎました。
彼は素早くジャケットを脱ぎ、
ローラの頭の上にかぶせました。
彼の体にぴったりのジャケットは
頭からかぶっても
ローラの上半身を覆うほど
大きいものでした。
すぐに、ポツポツと、
雨粒が水面を叩き始めました。
彼はジャケットのボタンを
しっかり留めながら、ローラに
走れる靴かと尋ねました。
ローラは頷きました。
森を散歩しに来る時は、
靴底がゴム製の丈夫なブーツを
履いて来るのが常でした。
彼は片腕でローラの肩を抱き締めると
「それでは、走ろう」と告げて
走り出しました。
ローラはダルトン氏について
走りました。

二人は小さな道と二つの泉を通り、
栗の木がびっしりと立ち並ぶ
深い森の中に入りました。
すぐに小さな小屋が現れました。
三角形の屋根にクヌギの木で造られた
丈夫な家でした。
二人は中に入りました。
ローラは頭からかぶっていた
ジャケットを肩まで降ろして
家の中を見回しました。
ぱっと見ただけで、
廃屋だと分かりました。
薄暗い室内は火を焚いた跡がなく、
椅子は散らばり、食卓は
埃だけが白く積もっていました。
ダルトン氏は、
木こりの家族が住んでいた場所だ。
家長が亡くなってから、
妻はロンドンで家政婦の仕事を得て
去った後、ずっと放置されていた。
汚いけれど、雨が止むまで
ここに居ようと告げました。
彼は袖をまくり上げると、
転がっている
二つの木製の椅子を壊して
暖炉に入れました。
そしてポケットから
小さなマッチ箱を取り出し、
火を点けて暖炉に投げ入れました。
すぐに火が点き、薄暗かった家の中が
明るくなりました。
彼の動きを見守っていたローラは
びっくりしました。
明るい光に照らされた彼は、
全身、ずぶ濡れでした。
髪の毛からは、水がぽたぽた落ちて、
湿ったシャツ越しに、肌がチラチラと
見え隠れしていました。
秋で、雨が降っていて、
しかも森の中でした。
呼吸する度に、微かに白い息が出るほど
気温が下がったのに、
あんなに濡れるなんて。
ローラは彼の健康が心配で
胸が締め付けられました。
ダルトン氏は、面倒臭そうに
湿ったベストを脱いで
木のテーブルの上に置きました。
そして、
残った椅子一つを引いて来て
ポケットからハンカチを取り出し
椅子の埃を
きれいに拭き取りました。
清潔だったハンカチが
真っ黒な雑巾になってしまいました。
彼はそれを丁寧に折りたたんで
テーブルの上に置き、
椅子を暖炉のそばへ移しました。
彼はローラに向かって優しく手招きし
近くに来るようにと勧めました。
ローラは、ゆっくりと
暖炉に近づきました。
彼はローラを椅子に座らせると
肩に掛けている濡れたジャケットを
脱がせた後、彼女を見回しました。
ジャケットを着ていたおかげで
上半身は水滴一つ当たらず、
スカートが、
少し湿っていただけでした。
すぐに彼は立ち上がり、
さらにいくつかの椅子を壊して
暖炉に入れました。
火はより明るく燃え上がり、
小さな小屋は暖かくなりました。
手を叩いて汚れを落としている彼に
ローラは、
掛けていた黒いショールを差し出して
体を拭くようにと勧めました。
彼は首を横に振って、
ペンドルトン嬢の服を
台無しにしたくないと言いました。
しかし、ローラは、
ロンドンの中古品店で
五ペンスで買った安物のショールなので
すぐに捨てても惜しくない物だ。
自分の大切な友人が
風邪を引くのが怖いので
どうか使って欲しいと頼みました。
彼は、にっこり笑いながら
ショールを受け取りました。
そして水気の多い顔と首筋、
腕を軽く拭きました。
そして、
これを、また使うのは
気が引けるだろうから、
これは自分が処分し、
似たような物を、新しく一つ
買ってあげると言いました。
ローラは頷きました。
ダルトン氏は、
ショールはきちんと畳んで手に持ち、
傍らに置いていたジャケットを
ローラの足下に敷いて、
その上に座りました。
ローラは、
ショールを敷く方が、
湿っぽくないと思いましたが、
淑女の服の上に座るのが
気まずいのだろうと思って
何も言いませんでした。
大粒の雨が、古い木の家を
激しく叩いていました。
ローラは窓の外を眺めました。
30分ほど前までは、
太陽が照りつけていたというのに、
辺りは、
日の入り直前の夕暮れ時のように、
どんよりとした灰色の闇に
包まれていました。
はたして、いつ頃雨が止むのか
予想するのも大変でした。
一晩中降り続けるなら、
夜が明けるまで、
ここでじっとしているほかは
ありませんでした。
ローラは、天候悪化の兆しを
無視すべきではなかったと
後悔すると、ため息をついて
ズキズキする右手を
もぞもぞと動かしました。
一方、ダルトン氏は、
暖炉の中の炎を見つめながら
静かに座っていました。
彼が、ジャケットから取り出した、
銀製のシガレットケースを
片手で握り締め、
ケースに彫られた模様を
延々と撫でているのを見たローラは
彼の苛立ちを読み取りました。
ローラは
「吸いたいですか?」と尋ねました。
彼はにっこり笑って
「ちょっと」と答えました。
ローラはダルトン氏に、
吸うよう勧めました。
彼は、淑女の前では吸わないと
断りました。
ローラは、
友人の前では大丈夫だと言いましたが
ダルトン氏は、
あなたが吸う空気を汚したくないと
返事をしました。
その一方で、彼は強迫的に
ケースの蓋を開けたり閉めるのを
繰り返しました。
彼はため息をつきました。
ダルトン氏は、
喫煙というものは
色々な意味で悪趣味だ。
健康にも良くないし、
他人にも悪い影響を及ぼす。
息子ができたら、
決して喫煙は教えないと言いました。
ローラは、
父親から喫煙を教わったのかと
尋ねました。
彼は頷くと、
15歳の時、 休暇で家に帰ると
書斎にいた父が自分を呼んだ。
以前のように頭を撫でる代わりに
握手を求めて、タバコを勧めてくれた。
その後、休みになると、
いつも書斎に座り、
ビジネスの話をする大人の男性のように
父とタバコを吸いながら話をしたと
答えました。
お父様はダルトン氏を
大人の世界に導きたかったようだと
ローラは指摘しました。
ダルトン氏は、
その頃から本格的に
ダルトン家を継ぐ準備を始めたので、
そうだったのだろうと答えました。
彼は、
父は亡くなったけれど、
ダルトン家とタバコは
自分のそばに残っている。
それから、このケースもと言うと
軽く手に持っているケースを
振って見せながら、
ケンブリッジの入学祝いに
父からもらったものだと話しました。
ローラは
「素敵」と感嘆しました。
ダルトン氏は、
父からのプレゼントの中で
一番好きなものだ。
ケンブリッジ時代から今まで、
どこへ行っても常に身につけている。
そうしているうちに、
ケースの中に入ったタバコに、
ずっと、ちょっかいを出すようになり
喫煙習慣が完全に身についてしまったと
話しました。
ローラは、
お父様は、息子と好みを
共有したかったのだろう。
理解はできるけれど、自分なら、
むしろ息子と釣りをすると話しました。
雨の音の間から、パチパチと
薪の燃える音が聞こえて来ました。
ローラは、
何かを受け継がせてくれる
両親がいたことが羨ましい。
自分は、癖も、思い出も、
プレゼントも、
受け継いだものが多くないと
残念がりました。
ダルトン氏は、
あなたそのものが彼らの遺産だと
言いました。
しかし、ローラは、
自分の中には、
彼らとは関係のないものだけが
詰まっていると返事をしました。
すると彼は、問いかけるような
眼差しを向けました。
暖かい火と雨の音が
心を和ませたのだろうか。
ローラの口から、
誰にも話したことのない言葉が
出ました。
今は両親の愛が
愚かなことだとは思わない。
母がペンドルトン家から離れたかった
気持ちも分かるし、
父も、その結果に対して
責任を取るために努力したことを
知ることになったから。
しかし、もし彼らと
同じ運命を辿ることになっても、
自分は同じ選択をしない。
正しくないからというより、
自分はそういう人間ではないから。

![]()
椅子を壊して暖炉に入れるなんて
ダルトン氏は、
何という強力の持ち主なのでしょう。
そして、雨が降り出す前に
ジャケットを脱いで、
ローラの頭からかぶせてあげるという
判断力の早さ。
自分のことよりもローラを優先させ
彼女のために尽くすダルトン氏。
たとえローラが、今まで
彼に恋していなかったとしても
今回の彼を見たら、
絶対に彼に恋すると思いますが、
最後の言葉で、ローラは
彼女とダルトン氏の間の壁を
補強したように思いました。