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151話 オデットは助かりましたが、子供を失ってしまいました。
オデットは午後の日差しの中で
目を覚ましました。
見知らぬ天井を
ぼんやりと見つめているうちに、
次第に意識がはっきりして来ました。
ここは、おそらく病院だろうという
結論に至った頃、
「これで、気が済みましたか?」
と、非常に怒っているような声が
聞こえて来ました。
オデットはゆっくりと体を起こして
座りました。
周囲をじっくりと見渡していた目は
痣のある手の甲の上で止まりました。
注射針を刺した痕のようでした。
お茶を飲みながら
ベビー用品のカタログを見ていた時
意識を失いました。
そして再び目を開けるまでの時間は
空白のままでした。
恐ろしい痛みに
苦しんでいたようでしたが、その記憶は
濃い霧の向こうにあるかのように
曖昧でした。
「ついに、
あの子の人生を台無しにして、
気が済んだかと聞いているのに!」
時間の流れを推し量ろうと
努めているうちに、
一層、鋭くなった叫び声が
響き渡りました。
オデットは目を大きく見開いて
病室のドアを見つめました。
トリエ伯爵夫人の声でした。
オデットは、
絶対安静が必要な患者なので
声を抑えて欲しいと、
すぐに落ち着いた低い声が
聞こえて来ました。
バスティアンでした。
病室のドアの外で
二人が口論している。
状況を把握したオデットは
急いでベッドの下に降りました。
足がふらつきましたが、
幸いにも、すぐに
サイドテーブルで
体を支えることができました。
何かがおかしいという予感がしたのは
反射的に子どもを抱きしめた
瞬間でした。
日増しに膨らんでいたお腹が
平らになっていました。
どうやら、まだ意識が
はっきりしていないようだと
結論づけたオデットは、
もう一度ゆっくりと
お腹を触ってみました。
空っぽのように虚ろになった眼差しが
揺れ始めたのと同時に、
トリエ伯爵夫人が、
だからあの時、素直に皇命に従って
オデットを自分のもとへ送ってくれたら
こんな悲劇は
起こらなかったのではないかと
怒鳴り声を上げました。
バスティアンはトリエ伯爵夫人に、
もう帰った方がいいと勧めましたが、
彼女は、
退くべきなのはあなただ。
離婚を受け入れろと言い放ちました。
バスティアンは、
すでに、自分の答えは
聞いているはずだと
言い返しました。
トリエ伯爵夫人は、
愚かな意地を張ったせいで、
子を失ったのに、
まだ目が覚めないのかと
非難しました。
理解しがたい言葉が
次々と飛び出して来ました。
ぼんやりとした目を
パチパチさせていたオデットは、
衝動的に病室を横切りました。
どうやら、
何か誤解が生じたようでした。
そうでなければ、
奇妙な悪夢を見ているかの
どちらかでした。
そして、オデットが
ちょうどドアノブを握った瞬間、
あくまで、
そのような態度を取るつもりなら
皇室近衛隊を動員してでも
オデットを連れて行くと、
トリエ伯爵夫人が、
脅し文句を言い放ちました。
バスティアンは、
あまり驚いた様子もなく、
どうぞ好きなようにやってくださいと
淡々と返事をしました。
皇帝が永遠に
あなたの味方だと思っているのか。
勘違いしないようにと言う
トリエ伯爵夫人の鋭い声が
少し近づきました。
そして、
皇帝がオデットの伯父の役割に
関心がないという事実は
否定しない。
しかし、皇室の名誉は別だ。
たとえ地位を剥奪されたとはいえ、
皇室の血が流れる皇族なのに
古物商の孫に売られて
散々苦労した挙句、
これほど悲惨な境遇に陥ったのだから
皇帝も非難を免れないだろうと
言い放ちました。
しかし、バスティアンは、
伯爵夫人が
ディセン公爵家の令嬢時代の
オデットの生活がどうだったかを
すっかり忘れてしまったようだと
皮肉を言いました。
しかし、トリエ伯爵夫人は、
荷物同然の家族の面倒を
見なければならなかった
貧乏人の生活も
もちろん大変だったろう。
しかし、今が、それよりマシだとも
言えないのではないか。
スキャンダルに巻き込まれて
名誉を汚し、あらゆる苦難を経験し
さらには、再び子どもを持つことさえ
難しい体になってしまったのだから。
まさか、これらすべてを
お金で弁償できると
思っているわけではないだろうと
非難しました。
緊迫した口論は、
トリエ伯爵夫人の
その厳しい叱責をもって
幕を閉じました。
オデットは唾を飲み込み、
躊躇いながら後ずさりしました。
ドアノブから離れた手が
細かく震え始めました。
誤解を解いてくれる
バスティアンの声を待ちましたが、
その願いは、
結局、叶いませんでした。
沈黙の重さに耐えられなくなった
オデットは、逃げるように
踵を返しました。
「赤ちゃん・・・」
囁くような湿った声が
金色の埃が漂う日差しの中に
染み込んでいきました。
必死にお腹を撫でながら
子供の痕跡を探していた痩せた手は
間もなく力を失いました。
トリエ伯爵夫人が
助けの手を差し伸べてくれたのに
バスティアンは拒否しました。
一言の相談もなく、独断で。
絡まった糸のように
複雑な頭の中を整理する
オデットの眼差しが
深く沈みました。
彼から離れられなかったせいで
子供を失いました。
そして、
もう二度と母親にはなれない。
とどめの一言に、
ひび割れた心が崩れ落ちました。
込み上げて来る嗚咽を
飲み込んだオデットは
よろめきながら窓辺に近づきました。
この悪夢から覚めたいという
願いを込めて窓を開けると、
雪の匂いがほのかに漂う風が
吹いて来ました。
凍えるほど冷たい風でした。
決して夢ではありえない
生々しい感覚でした。

マクシミンは、しばらくしてから
顕微鏡から目を離しました。
眼鏡を外して
重くなった瞼を撫でている間に、
軽快なノックの音が
聞こえて来ました。
入室を許可した後、
時間を確認したマクシミンは、
柔らかな笑みを浮かべた顔で
客を迎えました。
午後のお茶の時間を共にすると
約束をした
王立植物園の学芸員でした。
茶菓子を運んで来た助手は
丁重な挨拶を残して退出しました。
マクシミンは笑みを浮かべながら
客の向かいの席に座りました。
学芸員は、
ジェンダス卿と
お茶を一緒に飲むことができて
光栄だと言いました。
マクシミンは、
もう仲間になったのだから、
気楽に接して欲しいと告げると
爽やかな笑みを浮かべながら
ティーカップを握りました。
国立植物園長が、マクシミンを
主任研究員として招聘しました。
1年間、その地の在来種を
研究するポストでした。
ラッツの生活に馴染んでいるアルマを
見知らぬ土地へ連れて行くことを
心配して、躊躇っていましたが、
マクシミンは、結局
その提案を受け入れました。
国立植物園は、風光明媚な田園都市
ロスバインにありました。
そこで大自然を満喫することは、
子供にとっても
良い経験になると思われました。
それに、
騒がしい首都の社交界が与えた
嫌悪感も相当なものでした。
学芸員は、
突然、ティーカップを置くと、
慌ててカバンから取り出した
書類のファイルを丁重に差し出し、
そういえば、以前、
お願いされていた件だけれど、
静かな村を中心にいくつか選んでみた。
現在、案内できる良い物件も併せて
まとめてあるので
見て欲しいと言いました。
書類を広げたマクシミンは
目を大きく見開き、
このように心を込めて準備してくれて
本当にありがとうと
お礼を言いました。
マクシミンは、
国立植物園の主任研究員の職を
受け入れた時、
静養しながら滞在するのに良い村を
紹介して欲しいと
一つ頼み事をしました。
トリエ伯爵夫人との
約束を守るためでした。
オデットを助けることを決心したのは
新年が始まった日でした。
一晩中トリエ伯爵夫人との
会話を思い返しながら
悩んでいたマクシミンは、
夜明けが近づく頃に決意を固めました。
下手をすれば、自分にまで、
泥水が跳ね返りかねない事態だと
分かっていましたが、
それを恐れて保身に走れば、
きっと後悔するだろうと思いました。
それならば、
むしろ無謀になることにしました。
人生で初めての逸脱でした。
じっくり考え込んでいた学芸員は
ジェンダス卿は、
すでに住む場所を決めていなかったかと
尋ねました。
マクシミンは、
自分とアルマは、
国立植物園近くにある家の別荘で
過ごすつもりだと答えました。
学芸員は、
「それではこの家は・・・」
と尋ねました。
マクシミンは
親戚の女性が滞在する場所だ。
体調が良くないので、
しばらく療養する場所を
探しているけれど、
ロスバインが適地のようだと
あらかじめ用意しておいた言い訳を
落ち着いて並べ立てました。
学芸員は、
それなら最高の選択をしたと
返事をすると、
誇りに満ちた笑みを浮かべながら
療養客が多く訪れる
ある温泉街について
説明を始めました。
マクシミンは適当に傾聴しながら
受け取った書類を検討しました。
トリエ伯爵夫人の計画は、
まずオデットを連れ出した後、
皇帝の力を借りて
決着をつけるというものでした。
そのためには
バスティアン・クラウヴィッツが
見つけられない隠れ家が
必要でしたが、マクシミンが
その役目を引き受けました。
トリエ伯爵夫人は、
信頼できる協力者が必要だ。
皇帝との交渉が終わるまでは
首都を離れるのが難しいけれど
その間、オデットをラッツに置くのは
どうしても危険だと言っていました。
マクシミンの見解も同じでした。
バスティアン・クラウヴィッツは
常識外れの男でした。
オデットの行方を知れば、
決して素直に
諦めることはなさそうでした。
離婚手続きを終えるまで、
安全な場所でオデットの面倒を見る
保護者が必要でした。
そして、マクシミンには、
ちょうど、
その役割を果たす余裕がありました。
たっぷり故郷の自慢話をした学芸員は
西の空が赤く染まり始める頃
「それでは、またロスバインで
お会いしましょう」と挨拶をして、
去っていきました。
研究室の前まで彼を見送った
マクシミンは、
再び応接テーブルの前に戻り、
書類を広げて手に取りました。
片隅を折って
印をつけておいたページには、
小さな石造りの住宅の写真が
載っていました。
これくらいなら、
一人で暮らすのに悪くないし、
彼の別荘から、それほど遠くない
静かな村にある点が、
特に気に入りました。
決断を下したマクシミンは
机の前に近づき、受話器を取りました。
見舞いに行ったトリエ伯爵夫人は
今月中に、オデットを連れて来る
決心を固めました。
歩調を合わせるためには、彼もまた、
急ぐべき時でした。

警官が病院を訪れたのは、
オデットが
ちょうど眠りについた頃でした。
バスティアンは、
当直をしていたメイドを通じて
その知らせを聞きました。
頷いたバスティアンは
静かに席を立ちました。
睡眠薬を飲んだオデットは
すぐに深い眠りに落ちました。
意識を取り戻してからは
ほとんどの時間を
眠りに費やしていましたが、
少なくとも苦痛に苛まれるよりは
マシだと思ったので、
止めませんでした。
メイドに席を譲ったバスティアンは
そのまま病室を出ました。
警官は廊下の端にある待合室で
彼を待っていました。
警官は、
遅い時間に訪ねて来たことを
謝罪した後、
モリー・ロスを見つけたという
知らせを伝えるためにやって来たと
率直に本論を述べました。
すでに予想していた知らせでした。
バスティアンは、
今、どこにいるのかと尋ねました。
警官は、
アルデン湾の海水浴場近くの下水道で
変死体として発見され、
現在は検視所に移されたと
意外な返事をしました。
ぼんやりと、彼を見つめていた
バスティアンの唇が歪みました。
バスティアンは、
殺害されたのかと尋ねました。
警官は、
解剖結果が出なければ、
正確には分からないけれど、
その可能性は高いと見ていると
答えました。
バスティアンは、
あまり驚いた様子もなく
「そうなんですね」と納得しました。
警官は、当惑しながら手帳を取り出し
もしかして疑わしい人物に
心当たりがあるのかと尋ねました。
バスティアンは
「そうですね」と返事をしました。
窓の向こうの夜空を見つめている
彼の眼差しが、
ひやりと冷たく沈み込みました。
彼は、
思い出したら話すという適当な返事で
会話を締めくくりました。
復讐をここで終わらせようという
決意は、もはや無効でした。
バスティアンは、最後の最後まで
やり通すつもりでした。
たかが猟犬一匹を殺めた程度で
監獄の中に逃げ込まれては
困りました。
バスティアンは、
ギュッと閉じていた目を開けると、
もしかして、
犬も一緒に発見されたかと
尋ねました。
マルグレーテが行方不明になりました。
モリーが連れて行くのを
メイド長が見たとのことでした。
警官は「犬ですか?」と、
何を馬鹿げたことをと
言わんばかりの様子で
聞き返しました。
バスティアンは、
白い毛の小さな犬で、首には
レースのリボンを結んでいる。
もしかして遺体のそばに
そのような犬がいたかと尋ねました。
警官は断固として首を振って
犬はいなかったと答えると
手帳を閉じました。
バスティアンは静かにため息をつき
立ち上がりました。
バスティアンは、
無駄だと知りながらも
もし、その犬を見つけたら
連絡して欲しい。
名前はマルグレーテ。
必ず見つけ出さなければならないと
丁重な依頼の言葉を残しました。
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トリエ伯爵夫人は、
今ではオデットのことを
娘のように思っているので、
バスティアンに
怒りをぶつけたのでしょうけれど
でも、オデットの病室の前で
言い争いをするのはダメだと
思います。
子供を失っただけで
かなりのショックを受けたのに
再び子供を持つことが難しいことを
そんなに早く知らされれば
オデットは、
打ちのめされてしまうと思います。
その上、マルグレーテまで
行方不明だなんて、残酷すぎます。
ただ、トリエ伯爵夫人の言うように
バスティアンがオデットと
離婚していたとしても、テオドラは、
バスティアンがオデットを
愛していることを知っているので
彼を絶望の底に落とすために
遅かれ早かれ、オデットを
手にかけていたのではないかと
思います。
トリエ伯爵夫人は、
マクシミンをオデットの夫に
考えているのでしょうか。
マクシミンも、
ここまでオデットのことに
親身になっているのは、
彼女のことを
愛しているからではないかと
思います。
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