
99話 メアリー・ローティスは出版社の編集者に、ハイド嬢を自分の秘書にくださいと言いました。
その瞬間、
私の心に何が起こったのか、
ペンドルトン嬢は
推測できるでしょうか?
それは、最初にペンドルトン嬢が
私にタイピストとしての未来を
開いてくれた時の驚き、
家を出て初めて下宿に入った時の喜び
初出勤の日のときめきを
一つにまとめても足りないほどの
歓喜でした!
私は翌日すぐにローティスさんと一緒に
バースへ向かいました。そこで
講演会とサイン会の予定があります。
私は到着するとすぐに、
一日中、彼女に付いて回り、
行事のスケジュールを調整し、
衣服と馬車を準備し、
食事を用意しました。
個人秘書になったのです。
給料も3倍に上がりましたが、
全額を出版社が
支払うことになりました。
働く時間は増えましたが、
無給でもできる仕事を、
これほど大きな報酬で行うなんて
思いがけない幸運です!
まだ仕事を始めてから
一週間を少し過ぎたばかりですが、
私はローティスさんの忠実な僕です。
彼女の書類や服、
私の文字と同じくらい
滅茶苦茶なメモでいっぱいの手帳を
管理できるだけで幸せです。
そして、
彼女の秘書になったこと以上に
幸せなのは、彼女も私のことを
とても気に入ってくれているという
事実です。
ああ、ペンドルトン嬢に
私の幸せな姿を見せることができたら
どんなに素晴らしいでしょうか?
いつか、一度
バースに来てもらえませんか?
ペンドルトン嬢に
ローティスさんを紹介し、
三人でお茶を飲めたら嬉しいです。
ペンドルトン嬢も、
きっとローティスさんを
好きになるでしょう!
それでは、近いうちに
また手紙を送ります。
私が、この天国から
追放されないように祈ってください。
ペンドルトン嬢の大切な友人、
ジェーン・ハイドより
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待ち望んでいた編集者への昇進ではなく
まったく別の知らせでした。
ローラはじっくり考え込み、
この仕事がハイド嬢の成長に
大きく役立つだろうと
思うようになりました。
ハイド嬢は、
永遠にオフィスに閉じ込められて
生きる人ではありませんでした。
活動的で自由で勇敢な人。
きっとイギリス最高の旅行作家
メアリー・ローティスを
そばで支えながら、良い影響を受け、
自分の道を
見つけることができるだろう。
嬉しい手紙のようだと
フェアファクス夫人が指摘しました。
ローラは手紙を置きました。
彼女の頬は赤く染まっていました。
ローラは、
手紙の内容について話しました。
フェアファクス夫人は、
相応の祝意を表しました。
本には興味がなく、
メアリー・ローティスが
誰なのかは知りませんでしたが、
彼女は自立した女性に対して
常に敬意を抱いていました。
フェアファクス夫人は
市内にある、
「ベアトリーチェ」というレストランに
是非、立ち寄るようにと伝えて欲しい。
イタリア人のシェフがいて、
料理はすべて素晴らしいと話しました。
ローラは、
フェアファクス夫人が、以前、
バースに長く滞在していたことが
あるのですよねと確認しました。
フェアファクス夫人は、
「そうです」と答え、
夫が馬から落ちて腰を痛めたので
そこで一緒に療養したと話しました。
ローラは、
体の具合が悪かったなんて、
嘘みたいだ。
今は、とても活力に溢れていると
指摘しました。
フェアファクス夫人は
バースの温泉が彼を救った。
バースに行かなければ、
自分たちは、ヘンリー以外に
子供がいなかっただろうと
返事をしました。
ローラは顔を赤らめましたが
フェアファックス夫人は
気にせず話を続けました。
夫だけでなく、
自分もバースの恩恵を受けた。
彼の看病のせいで、
自分まで病人になりかけたけれど
あそこへ行って温泉水を飲み、
良いレストランを探しながら
活力を取り戻した。
舞踏会、読書会、ショッピング街、
音楽会。
どんな女性もバースでは、
憂鬱に浸っているわけにはいかないと
話しました。
しばらくして、
ローラは自分の部屋に戻りました。
彼女は紙を一枚取り出し、
ハイド嬢に返事を書き始めました。
祝福の言葉に満ちた
温かくて心のこもった手紙でした。
手紙を封筒に入れて封をした後、
ローラはアンからの手紙を
取り出しました。
アンは、
ローラがロンドンを離れた後も
定期的に手紙を送って来ていました。
アンはいつも自分の安否を伝え、
ローラの生活を心配しながらも、
相続したタウンハウスで
毎日のように酒盛りやギャンブルをする
チャールズ・ペンドルトンを罵倒し
そんな息子を、
手をこまねいて見ているだけの
ジェラルド・ペンドルトンに、
「野垂れ死んでしまえ」と
呪いの言葉を吐くことに、
多くの紙面を割いていました。
ローラは、
祖母が大切にしていた美術品を
勝手に処分して
ギャンブルの資金を集める
チャールズの行動と、
長男の事業の投資家を探すために
ロンドンの富豪たちを訪ね、
詐欺まがいの空約束をしながら
歩き回っている伯父の近況を、
手紙で知りました。
伯父が守ろうとしていた家門の名誉が
何を意味していたのか、ローラは
次第にわからなくなって行きました。
今回は、どれほど胸がざわつく近況が
書かれているのか案じながら、
ローラは、アンの手紙を取り出して
読み始めました。
しかし、手紙の内容は
ローラの予想を完全に裏切りました。

愛する私の主人
ペンドルトン嬢へ
前回の手紙を書いてから
二日も経たずに再びペンを取ることを
どうかお許しください。
つまらないお喋りをするためでは
ありません。
前回の返事を受け取った後、
お嬢様が、
ペンドルトン家の話を聞くことを
快く思っていないことが
分かりました。
私がお嬢様の心を傷つけるために
紙を無駄にしてきたことに気づき
心の底から反省しました。
私は、これから一ヶ月間は
手紙を控えることに決めました。
ペンドルトンの旦那が
馬車から転げ落ちたり、
チャールズ・ペンドルトンが
ジェンセン嬢に見捨てられることを
祈る代わりに、このタウンハウスを
きれいに掃除することに
集中すべきだと思っています。
確かに、そう決心しました。
しかし、今日の午後、一人の男性が
このタウンハウスを訪れたことで、
私は固く閉めていたインク瓶を
再び開けざるを得ませんでした。
お嬢さん、もしかして
ジョン・アシュトンという男性を
知っていますか?
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ジョン・アシュトン。
ローラは、
手紙を落としてしまいました。
ジョン・アシュトン。
記憶の奥底に潜んでいた
一人の男性の姿。
赤い縮れ毛。淡褐色の肌。
はっきりとした顔立ち。
壁のように背が高くて
堂々とした体格。
両頬に深いえくぼができる明るい笑顔。
ローラは震える手で手紙を取り、
再び読み始めました。
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彼は大きな四輪馬車に乗って来ました。
濃い赤毛に、茶褐色の肌をした
背の高い男性でした。
(ダルトン氏と同じくらい
大きかったです)
とても濃い紫色の瞳で、
頬には、えくぼができました。
体格もがっしりしていました。
(ほぼダルトン氏と同じくらいです)
喪服を着ていましたが、
とても高級な素材でした。
お嬢様の記憶の中に、
そのような男性がいますか?
その人は、
ペンドルトン嬢を探していました。
まだ、こちらに住んでいるのか
気にしていたようです。
アビゲイル夫人の訃報も
知っていました。
私は、お嬢様が出て行ったと
お伝えしました。
その人は、お嬢様がどこへ行ったのか
知りたがっていました。
私が話すことを拒否すると、
お金を渡そうとしましたが、
それすら拒否すると、
とても怒りました。
私は眉一つ、動かしませんでしたが。
彼は、もう一度訪れると言って、
馬車に乗って去りました。
私がお嬢様の行方を伝えることが
正しかったのでしょうか?
お嬢様の意思を確認するためにも
返事が欲しいです。
どうか早めに手紙を送ってください。
あの人がまた来た時に、
私が貝のように口を閉ざして
沈黙を守るか、それとも、
あの魅惑的な紳士とお嬢様の間に
縁の橋を架けるかを決められるように。
愛を込めて、
アン・スティール。
PS
まもなく手袋が編み終わります。
次の手紙と一緒に送ります。
懐かしいお嬢様に、会いたいです。
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ローラは、
しばらくぼんやりと座っていました。
彼女の頭の中は
12年前に遡っていました。
愛の幻想にどっぷり浸かっていた
17歳の未熟な頃へ。
彼は22歳の
オックスフォード大学の学生でした。
社交界に姿を現した彼は
人物は立派でしたが、
人気はありませんでした。
資産が全くなく、
甲斐性のない両親と幼い弟妹たちを
大勢抱えている状況でした。
後援者のグランチャード伯爵夫人が
いなければ、
大学にすら行けなかった人でした。
彼は、公然と伯爵夫人の玩具と
呼ばれていました。
実は伯爵夫人の遠い親戚の甥でしたが
ロンドンの社交界は、
素朴な真実と下品なゴシップのうち
後者が事実となる場所でした。
だから、
スキャンダルで苦しんでいた
若い青年が、
ローラに関心を持つようになったのは
ある意味当然のことでした。
ローラもまた、両親の不名誉のために
疎まれていた淑女でした。
彼のダンスを拒まず、
彼の冗談に笑顔で応じてくれる
唯一の女性だったのでした。
どちらが先に、
互いに愛を感じたのかは
分かりませんでした。
どちらが先に
一緒に逃げようと言ったのかも
はっきりしませんでした。
12年の歳月は、
いたずら好きな少年のように
記憶をぐちゃぐちゃにし、
落書きを描き入れました。
唯一確かなことは、
彼がローラを裏切ったことでした。
すでに、
社交界で軽蔑されている女性が
彼に捨てられ、どんな運命に陥るか
分かっていながらも、
彼はローラを捨てました。
一通の手紙も、
言い訳の一言もありませんでした。
なぜ、また来たの?
ローラは手紙を再び読み、
彼が喪服を着ていたという表現から
彼の妻が亡くなったようだと
推測することができました。
彼は自分を捨てて間もなく
結婚しました。
巨大な材木商の娘だと聞きました。
彼の義父は婿の法律勉強を支援し、
巨大な法律事務所を建てて
彼をイギリスで名の知れた
弁護士にしました。
妻が亡くなってから、
自分が気になったようだ。
それまでは妻への義理のため、
そして義父の顔色を窺って、
昔の女性の消息を知ろうとする
勇気がなかったのだろう。
ローラは気分が悪くなりました。
彼を許したと思いました。
若かったから、貧しかったから、
家族を無視できなかったから
自分を捨てたのだろう。
忘れよう。 許そう。
憎んでも自分だけが傷つく。
しかし、このように彼の知らせを聞くと
しまっておいた昔の記憶が
忘却の幕を破って蘇りました。
彼とのスキャンダルで笑い者になり
どれほど傷ついたか。
彼の結婚の知らせを聞いて
どれほど泣き苦しんだか、
その後、誰かを愛することに
どれほど懐疑的になったか。
彼女の傷は思ったより深く、
ローラは彼に
会いたくありませんでした。
自分の近況を
伝えたくもありませんでした。
ローラは紙を取り出し、
アンに送る手紙を書き始めました。
私は彼との再会を
歓迎していません。
彼がまた訪ねて来たら、
家族との不和のために家出し、
今は生死さえも分からないと
伝えてください。

そして、しばらくして
ホワイトフィールドは
一世一代の波乱を迎えました。
数十枚の招待状が
ロンドンへ送られたことが
その始まりでした。
ホワイトフィールドの大地主
イアン・ダルトンと
一度でも挨拶を交わした人には、
漏れなく招待状が送られました。
招待した人々が
承諾の返事を送って来ました。
およそ80名前後でした。
この数字を基に、ローラは
ホワイトフィールドの
大規模なパーティーの準備を
始めました。

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これで、12年前の出来事の全てが
明らかになったのではないかと
思います。
ローラは、
ジョン・アシュトンのことが
本当に好きだったのですよね。
だから、
彼と一緒に逃げようとしたのに
彼に裏切られた。
男性不信に陥っても
仕方がないと思います。
ローラは
ジョン・アシュトンとのことを
考えないように
していたのでしょうけれど
彼が名の知れた弁護士になったことを
知っているということは、
意図せず、彼女の目や耳に、
その名前が入って来て、
その度に、愚かな恋をした自分を
責めていたのかもしれません。
ダルトン氏は、
背格好だけは、ジョン・アシュトンに
似ているかもしれないけれど、
中身は全く違うということを
ローラに証明して、
彼女の愛を勝ち得て欲しいと思います。
ところで、
アビゲイル夫人の大切にしていた
美術品まで買ってに売ってまで
ギャンブルの資金を集めるなんて
相続した億単位のお金は、
もうギャンブルで
すってしまったのでしょうか?
それでも、まだジェンセン嬢は
婚約を解消していないのですね。