![]()
154話 白い動物の亡骸を見に行ったオデットの所へバスティアンは向かいました。
目的地に近づくにつれて、
両足が重くなっていきました。
オデットは鉄の匂いのする息を
荒く吐きながら立ち止まりました。
まだ体が完全に
回復していない状態でした。
これ以上走るのは無理だと判断した
オデットは、
早足で森の道を歩き始めました。
追いかけて来た使用人たちの制止も
オデットを
止めることはできませんでした。
マルグレーテを見つけたと
知らせて来たのは庭師でした。
枯れた木を片づけるために
歩いていた森で、
野生の獣に襲われたような
犬の死骸を発見したと
話していました。
状態が完全ではないため
確信は持てないけれど、
毛の色や体つきが、まるで
マルグレーテのようだったとの
ことでした。
オデットは夕食に向かう途中で
その知らせを聞きました。
そして、
すぐに邸宅を飛び出しました。
メイド長が代わりに行くと
申し出ましたが、
オデットは引き下がりませんでした。
マルグレーテではないと
信じていましたが、
もし本当にマルグレーテであれば、
なおさら、直接、
確認したいと思いました。
子どもの最期も
見ることができませんでした。
オデットが意識を取り戻した時には
すでに葬儀は終わっていました。
病院が手厚く
見送ってくれたとのことでした。
オデットが言えたのは、
辛い仕事を代わりに引き受けてくれた
クラーモ博士への
感謝の言葉だけでした。
女の子だったのか、
それとも男の子だったのか。
どちらに、どれだけ似ていたのか。
舌の先に残った質問は
結局、口に出せず、
深く飲み込みました。
それを知った後の余波に
耐えられる自信が
なかったためでした。
クラーモ博士が沈黙した理由も
そこにあるはずでした。
遅ればせながら、
あの日の選択を後悔しましたが、
オデットはどうしても、
再び傷口を見つめる勇気を
出せませんでした。
マルグレーテまでも、
そんな風に卑怯な形で
送ってしまったら、自分自身を
到底、許せないように思えました。
海岸の崖が近づき始めると、
人々のざわめき声が
聞こえて来ました。
庭師と労働者たちが、
地面に置かれた何かを
囲んでいました。
その光景が、
何を意味するのかに気づくと、
目頭が熱くなり視界がぼやけました。
一緒に遊ぼうとせがむ
マルグレーテを無視しました。
生憎、それが最後の記憶でした。
ボール遊びをしてあげていたら、
マルグレーテは
寝室を離れなかっただろう。
そうしていれば、
マルグレーテだけで
廊下をうろうろしながら、
モリーに会って
災難に遭うこともなかっただろう。
すべて自分のせい。
もはや否定できなくなった真実が
胸を切り裂きました。
無理をしてでも、
トリエ伯爵夫人に連絡するという
決心だけでも守っていれば、全てが
変わったかもしれませんでした。
しかし、彼から
離れることができませんでした。
バスティアンが送ってくれた
赤ちゃん部屋のカタログを
一枚ずつめくる度に、
虚しい期待が膨らんで行きました。
勝てないふりをして
ローザンの別荘へ行き、
可愛い赤ちゃん部屋を
飾ってみたかったのでした。
時間が経ち、子どもが生まれ、
そうして何度かの季節を過ごせば、
何かが変わるかもしれないと
思いました。
それならば、その時まで判断を
保留しても良いのではないか?
無駄な期待を抱く自分が嫌で、
恥ずかしかったけれど、
それでも、
断ち切れなかった愚かな未練が
全てを台無しにしてしまいました。
オデットは、
振り返って逃げ出したい衝動を抑え
苦しい足取りで歩きました。
その様子を見た庭師は一歩横に退き
道を開けてやりました。
犬の死骸は、今や
ぼんやりとした形が判別できるほど
近づいていました。
その時、冬の森を揺るがす
激しい足音が聞こえ始めました。
足を止めると風が吹いて来ました。
それを認識した瞬間、
大きくて硬い手が
オデットの目を覆いました。
背中を抱き締める腕と
破裂しそうな心臓の鼓動、
荒い息遣い。人の気配でした。
「・・・オデット」
バスティアンは、
ため息をつくように
その名前を呼びました。
目を覆った手を押し退けようと抗う
オデットを、無理矢理振り向かせて
両腕でしっかりと縛りつけました。
競走馬のように疾走して来た
慣性に勝てず、
揺れていた体とコートの裾は、
ようやく落ち着きました。
「退いて!離して!」
オデットは、もがき始めましたが、
バスティアンは
引き下がりませんでした。
振り返れないように後頭部を包み込み
胸の奥深くで抱き締めました。
ようやく呼吸を整えて、顔を向けると
冷たい地面に横たわる
犬の亡骸が見えました。
もがくオデットを
さらに強く抱き締めたバスティアンは
目配せで指示を出しました。
どうしていいかわからず
慌てていた使用人たちは
静かに退き、
視界を開けてくれました。
「メグではないですよね?」
無意味な抵抗を止めたオデットは
涙ぐみながら囁きました。
バスティアンは、
冷たく閉ざされた眼差しで
死んでいる犬を見つめました。
死骸の損傷状態はひどかったものの
血まみれになった白い毛だけは
はっきりと識別できました。
「バスティアン、 違いますよね?」
叩いて押し退けることに必死だった手が
懇願するように
バスティアンの裾を掴みました。
「早く違うと言って」
オデットの切実な訴えにもかかわらず、
バスティアンは沈黙しました。
そっと顰めた眉の間に溜まっていた
夕焼けの光は、
間もなく消えてしまいました。
日が暮れた森には、いつの間にか
薄闇が降り始めていました。
「どうか、バスティアン・・・」
しがみつくように
彼を抱き締めたオデットが
懇願しました。
バスティアンは沈黙を守りながら
彼女を抱き締めました。
彼が与えられる唯一の答えでした。

テオドラは、
酒の入ったグラスを置いた手で
スーザンが渡した封筒を
受け取りました。
カーテンを閉めていない寝室は
紫色の夕暮れに
染まりつつありました。
テオドラは、
匿名で来たのかと尋ねると、
顎で合図を送りました。
スーザンは素早く照明を点けると
誰かが、
邸宅の正門の前に置いていったのを
見つけて持って来たと、
丁重に返事をした後、離れました。
ソファーの奥深くに寄りかかった
テオドラは、
その明かりの中で封筒を開けました。
最初に目に入ったのは、
見知らぬ女名義の家の書類でした。
住所は、
帝国東部にある小さな町でした。
それをテーブルの上に投げた
テオドラは、
次の書類の束を取り出しました。
ジェフ・クラウヴィッツの
借名口座の情報が一目で分かるように
整理されていました。
宝石はもちろん、邸宅の銀食器まで
売らなければならない状況にあるとは
信じられない額の金が、
いくつかの口座に分散されていました。
その中には、先ほどの家の書類に
書かれていた女の名前もありました。
テオドラは、ますます焦った手つきで
封筒をひっくり返しました。
尾行して、こっそり撮ったと思われる
写真が数枚、散らかったテーブルの上に
落ちました。
新しく注いだウイスキーを
一気に飲み干したテオドラは、
硬直した手で、
一番近くにある写真を手に取りました。
ジェフ・クラウヴィッツが
若い女の腰を抱き、
静かな住宅街を歩いていました。
彼らを案内している中年の男は
典型的な、
不動産仲介人の外見をしていました。
次の写真は反対側の方向から撮影し
彼らの顔がはっきりと見えました。
着道楽で有名な
ジェフ・クラウヴィッツが
体に合わない
ゆったりとした服を着ているのを見て
最近撮った写真だと確信しました。
急激に痩せた彼は、数か月のうちに
体が半分になってしまったので。
一方、そのそばにいる女は、
咲き始めた花のように
瑞々しく華やかでした。
白黒写真でしたが、
その女の目と髪の毛が
見えるようでした。
空色の目に豊かなプラチナブロンド。
小柄で清純な印象の美人。
何番目のソフィア・イリスなのか、
もはや数えるのも、うんざりしました。
しばらく考え込んでいたテオドラは
再び家の書類と借名口座を調べました。
お金を工面するために
必死で駆けずり回っていると
大口をたたいていましたが、
愛人と愛の逃避行をするという
甘い夢に浸っているようでした。
様子を窺っていたスーザンは、
実は自分も、ご主人様が、
奥様と若様を残して去ることを
考えているという
良くない噂を聞いたことがある。
それでも、まさかと思った。
どうしたら良いのだろうかと
そっと口を開きました。
泣き顔になったスーザンを
じっと見つめていたテオドラは、
特に答えることなく
空のグラスを満たしました。
バスティアンの仕業でした。
ここまで執拗な尾行をする人も、
それを彼女に押し付ける理由がある人も
あの子だけでした。
さらに、バスティアンは
それを隠す気すらなさそうでした。
Κ
写真の裏面に書かれていた
その頭文字は
バスティアンの署名でした。
最後の勝負手は失敗に終わりました。
テオドラは、諦めるように
その事実を受け入れました。
自分から心が離れた男にすがりつき
悲惨な最期を迎えた
ソフィア・イリスを思い浮かべると、
思わず笑ってしまいました。
結局、あれほど嘲笑し軽蔑していた
女と同じ境遇に陥りました。
まるで、古物商の娘が
勝利したかのようでした。
少なくともソフィア・イリスは、
自分が愛した男の胸に
不滅の神話として刻まれたのだから。
この愛が終わったら、
ジェフ・クラウヴィッツにとって
自分は、
どんな意味を残すのだろうか?
すでに答えを知っている質問を
反芻するテオドラの顔が
奇妙に歪みました。
上流社会に進出するために妻にした
トロフィー。
しかし、古物商の血筋よりも劣る
後継者を産み、
彼の人生を台無しにし、
実家の後ろ盾とお金がなければ
何の価値もない女。
未練なく背を向けて、
新しいソフィア・イリスの腕に
抱かれるだろう。
それでは、どうなさいますか?
生意気な質問を投げかける
バスティアンの声が
聞こえてくるような頭文字を、
テオドラは
長い間じっと見つめていました。
それでも半分は成功を収めたという
思いが浮かんだのは、
海の向こうの邸宅を見つめた
瞬間でした。
バスティアンの思い通りに
遊んであげるのも
悪くないと思いました。
その先に何があるのか、
あの子は、
まだ知らないようだから。

お風呂の湯が、
すっかり冷めるほどの時間が経っても
オデットは戻って来ませんでした。
暖炉の前に座って彼女を待っていた
バスティアンは、静かに立ち上がり
浴室へ向かいました。
ドアを開けると、甘くて柔らかな香りが
漂って来ました。
オデットがよく使う入浴剤でした。
バスティアンは、
気配を最小限に抑えた足取りで
浴室を横切りました。
オデットは、浴槽に体を浸したまま
眠っていました。
手を浸してみると、浴槽の湯は
体温より低くなっていました。
このまま放置するのは危険でした。
「オデット」
肩を抱き締めながら名前を呼ぶと
オデットは
ゆっくりと目を開けました。
少し驚いたように
身を縮めましたが、それ以上の
拒絶反応は見られませんでした。
マルグレーテを探しに行った森から
戻って以来、オデットは
ずっと、このような状態でした。
目を開けていても
眠っているように見えました。
メイドを呼ぼうとして、
気が変わったバスティアンは
オデットの世話をしました。
浴槽から抱き上げた冷たい体を
タオルで包み、
寝室の暖炉の前へ連れて行き、
新しいネグリジェを着せました。
濡れた髪を乾かし始めた時
じっと身を委ねていたオデットは
マルグレーテではなかったと
言いました。
そして、ゆっくりと首を回し
後ろに座っている
バスティアンを見つめました。
オデットは、
確かにメグより小さかった。
毛も短かったようだと言うと
焦点の定まらない
ぼんやりとした目が、
徐々に異彩を放ち始めました。
理性を麻痺させていた衝撃が消えると
客観的に状況を
判断できるようになりました。
きちんと
見ることはできませんでしたが、
それでも大まかな形や印象は
残っていました。
もっと詳しく観察したバスティアンなら
明確な答えを出せるはずでした。
「バスティアン」
オデットは、
急かすように名前を呼びながら
体を回して座りました。
静かに燃えている暖炉の炎が
向かい合って座る二人を
暖かい色調で染めました。
オデットは、震える手を上げて
バスティアンの顔を包み込みました。
久しぶりに見た彼の顔は、
最後に会った日よりも
ずっとやつれていました。
額を覆うプラチナブロンドの髪と
鼻筋を辿って下りて来た
オデットの指先が、
固く閉じたバスティアンの唇に
触れました。
「教えてください、バスティアン。
お願いします」
![]()
![]()
赤ちゃん部屋のカタログは
オデットの心を
動かしていたのですね。
モリーが毒さえ盛らなければ
オデットとバスティアンの仲が
修復できたかもしれないと思うと
本当に残念です。
せめて、マルグレーテが
生きていてくれればと思います。
ジェフ・クラウヴィッツは
テオドラの身分が目当てで
彼女と結婚しただけであり、
最初からテオドラを
愛していなかったことを
彼女自身も知っていたけれど
ジェフの妻である限りは、
彼がソフィア似の女性と
付き合い続けても我慢できた。
けれども、
彼がソフィア似の女性と逃げれば
離婚をしない限り、
彼の妻ではいられるけれど、
彼は自分の前からいなくなってしまう。
バスティアンは、
テオドラに一番衝撃を与える方法を
本当に良く知っていると思います。
それでも、まだバスティアンに
何かをしようとするテオドラ。
髪と目の色だけはソフィアから
受け継いだのに、
顔と才能はジェフから受け継いだ
バスティアンが憎らしくて
仕方がないのでしょう。
諦めが悪いです。
![]()