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157話 バスティアンはオデットに、子供も犬も死んだと言いました。
「あなたのせいです!」
オデットの悲鳴のような叫び声が
波の音を消しました。
慌てて白い砂の浜辺を走って来た
使用人たちは、
はっと驚いて足を止めました。
バスティアンは目配せをして
彼らを退かせた後、
再びオデットと対峙しました。
真っ青に青ざめていた両頬が
怒りで赤く染まって行きました。
涙で透明に膨らんだ瞳が
キラキラと輝き、唇は
痙攣するように震えていました。
いよいよ、あなたが壊れてしまう。
バスティアンは、
ずっと待ち望んでいた瞬間が
来たことを予感しました。
壊れたオデットの中で
探そうとしたものは、もう永遠に
消えてしまうだろうということも。
喉元まで込み上げて来た激情を
飲み込んだバスティアンは、
ついにオデットを放し、
一歩、後ろに下がりました。
拳を握る手の甲の上に
血管が浮き出ていました。
「赤ちゃんもマルグレーテも、
全てあなたが命を奪った!」
必死に飲み込むのを
繰り返して来た恨みが、
膿のように噴き出しました。
遅れてその事実に気づいた
オデットの顔は
自責の念で歪みました。
これは間違った判断であることを
理解していました。
オデットは、
これほどまでの底知れぬ深淵へと
墜ちたくありませんでした。
だからこそ、
どうか自分を止めてほしいと
懇願するように
バスティアンを見つめましたが、
彼は冷淡な沈黙により、
彼女の最後の砦さえも崩しました。
オデットは、
なぜ皇命に従わなかったのかと
責めると、震え始めた手で
バスティアンを叩き始めました。
そして、オデットは、
トリエ伯爵夫人の所へ行かせてくれれば
子供とメグは無事でいられたのに。
なぜ何も言わなかったのか。
なぜ自分を騙したのか?一体なぜ?
と、もはや無意味になった
「もしも」を仮定して絶叫しました。
バスティアンは一言の言い訳もせず
ただ傍観するだけでした。
オデットは、
自分をフェリアに
放っておくべきだった。
どんなに貧しくても、
今ほど惨めではなかっただろうと
バスティアンを責めました。
お腹の中の子どもが好きだったリンゴを
マルグレーテと分け合って食べた
穏やかな夕食の記憶が、
今のことのように鮮明に蘇りました。
必死に涙を堪えていたオデットは
充血した目を伏せて、
子供が消えたお腹を
じっと見つめました。
マルグレーテのいない世界を
見つめました。
そして再び目を上げた先には、
オデットに残された
最後の一人の男が立っていました。
自分の救いであり絶望。
悲しみと苦しみの別名。
不憫に思いながらも憎み、
それでも、どうしても手放せない
自分を狂わせる人。
「むしろ最後まで
騙すべきだったのに!」
胸の奥深くから込み上げて来た憤りを
爆発させた瞬間、
オデットはようやく気づきました。
マルグレーテが必ず戻って来るという
信念の裏に隠された卑劣な本心を。
目をつぶれば、哀れな愚か者に
なれるような気がしました。
それでも、
この場所を守り抜きたいと思いました。
そんな自分が嫌で、
それに気づかせたバスティアンを
憎みました。
「こんなことなら、
なぜ自分を助けたのか!」
無造作に振り回す、力のない拳が
バスティアンの胸と肩に
飛んで来ました。
「言って!早く答えて!」
オデットは荒い息を吐きながら
悪態をつきました。
ある瞬間からは、
何を言っているのかさえ
正しく認識できませんでした。
ただバスティアンが
傷つくことを願っていました。
ただ、その卑劣な欲望に酔いしれて
暴れました。
その一方的な乱暴は、
疲れ果てたオデットが
力尽きたことで、幕を閉じました。
バスティアンは、
崩れ落ちるオデットを
胸の奥深くに抱きしめました。
そして、
そっと背中を撫でてあげました。
オデットは、
空っぽになったかのように
虚ろな目を上げて
バスティアンを見つめました。
声を限りに泣き叫びたかったけれど
泣くことができませんでした。
まるで溢れ出た涙に沈み、
静かに窒息していくような
気分でした。
バスティアンも同様に見えました。
オデットは震える手を上げて
バスティアンの頬を撫でました。
風が止んだ海のように
静かだった眼差しが
小さく揺れました。
依然として唇は、
堅固な沈黙を守っていましたが、
うごめく喉元までは
隠すことができませんでした。
それだけでしたが、オデットは
自分がこの男を傷つけたことを
知りました。
そして自分が与えた傷を
そっくりそのまま、返されました。
ふと、それに気づくと、
自分たちの前に残された日々が
描かれました。
互いに傷つけ合い、
互いに傷ついた自分に耐えていく。
まるで、壊れた感情の残骸の中に
閉じ込められた無期懲役囚のように。
震える唇を動かしていたオデットは
結局、何も言えずに
視線を落としました。
謝罪も悪あがきもできませんでした。
その事実に息が詰まり始めたその瞬間
バスティアンの手が
顔を包み込みました。
再び目が合い、
視線が絡み合いました。
顔を背けようとする度に、
オデットをつかむ大きな手には
ますます熱い力が込められました。
あなたを見ると苦しくなるという
オデットの最も真実な告白が
再び訪れた夜明けの静けさの中に
染み込みました。
やがてバスティアンは、
分かっていると答えました。
オデットは、
あなたもそう見えると指摘しました。
バスティアンは「はい」と
苦痛に満ちた返事をしましたが
その瞬間でさえ、
オデットを離すことが
できませんでした。
どうしても、
彼を見ることができなくなった
オデットは目を閉じました。
これが地獄の中の唯一の逃げ場でした。

ご主人様も本当にひどいという
怒った料理人の声が
重い沈黙を破りました。
休憩室の中央に置かれた机に集まって
座っていた使用人たちの視線は
一斉に、そちらへ向きました。
奥様がメグを、
どれほど大切に思っていたか
誰よりも、よく知っていたのに、
なぜ、あの哀れな犬の墓一つも
作ってやらないのかと、ぼやくと
料理人は首を横に振りながら
舌打ちしました。
いつもバスティアンの味方をしていた
普段の様子とは
全く異なる態度でした。
様子を窺っていた使用人たちが
一言ずつ口を挟み始めると、
休憩室は再び騒がしくなりました。
ほとんどが、冷酷な主人に対する
非難の言葉でした。
ドーラは、ただ黙って
冷めたお茶を飲んでいました。
その立場を理解できないわけでは
ありませんでしたが、
それでも今回ばかりは、どうしても
バスティアンを弁護するのは
困難でした。
庭師が森で見つけた犬が
まさにマルグレーテでした。
遅れて明らかになった真実よりも
大きな衝撃を与えたのは
バスティアンの対応でした。
彼は全てを知っていながらも
沈黙しました。 妻を騙すためでした。
さらには死骸を片づけろという
指示すら出しませんでした。
そのせいで庭師は、
女主人が子供のように愛した犬を
ゴミと一緒に燃やすという
過ちを犯してしまいました。
マルグレーテを可愛がっていた
この邸宅の住人全員に
大きな傷を与えた出来事でした。
隅でアイロンがけをしていた
洗濯室のメイドが、
ところで、一体なぜ、
あのビラを撤去していないのか。
今日も変な犬を連れて来て
マルグレーテだと主張する
詐欺師が現れたようだと
神経質に怒鳴りました。
アルデン中にばら撒いたので、
一度に片付けるのは難しいだろう。
どうか奥様には、
気をしっかり持って欲しいと言って
深くため息をつくと、
料理人は立ち上がって、
夕食の準備のために
台所へ向かいました。
その時になって、
ようやく時間の流れを実感したドーラは
再び仕事に戻りました。
まず怠けている使用人たちを
それぞれの持ち場に戻し、
夕食のメニューを決めるために
オデットの部屋へ向かいました。
どうせ今日も
きちんとした食事をしないのは
明らかでしたが、それでも、
手をこまねいているわけには
いきませんでした。
ドアの前に立ち止まったドーラは、
まず息を整えてから
ノックをしました。
「はい、お入りください」と
しばらくして聞こえて来た
オデットの声は、
いつも通り落ち着いていました。
静かにドアを開けて入ると、
向かい合った顔も同様でした。
オデットは、
今日も窓辺に置かれた椅子に座り、
邸宅の裏手の庭を
見下ろしていました。
マルグレーテの亡骸を焼いた場所から
掘り出した土で作られた
仮の墓がある場所でした。
骨片一つ、
まともに残っていませんでしたが、
それでも、オデットは
形式的な葬儀を行いたいと
思っていました。
それでも、
気持ちを整理できて良かったと、
ドーラはひそかに安堵しました。
あまりにも悲惨な最期で
心が痛みましたが、それでも、
拷問に近い希望を捨て切れずに
苦しむよりはマシでした。
少なくとも、もう、
マルグレーテの幻影を追うことは
なくなったので。
まず、ドーラは、
ご主人様は今日も帰宅が遅いようだと
最も困る知らせから伝えました。
オデットは、
微かに微笑みを浮かべて頷きました。
オデットは、
それなら、ここで食事をするので
簡単に準備して欲しいと
昨日と変わらない返事をしました。
もう退く頃でしたが、
ドーラは、すぐに立ち去ることが
できませんでした。
静かにドーラの視線を受けていた
オデットは、
他に用件が残っているのかと
淡々と尋ねました。
静かな雰囲気は変わりませんでしたが
鉢植えの植物のようだった以前とは
何かが違いました。
態度が一段と落ち着き、
眼差しには、冷たい理性が
宿っていました。
海から戻った夜明け以降に
始まった変化でした。
どうやら、
この関係の鍵を握っているのは
オデットのようでした。
今回が最後のチャンス。
ドーラは深呼吸をしながら
オデットのそばに近づきました。
今月末まで膠着状態が続くならば、
皇帝が介入するだろうと
聞きました。
トリエ伯爵夫人は、
それだけは阻止したいという気持ちで
悪役を自ら引き受け、
ドーラの考えも同様でした。
決意を固めたドーラは、
数日間ポケットに入れておいた手紙を
慎重に取り出しました。
それはトリエ伯爵夫人が
オデットに送ったものでした。
おそらく、あの日に交わした会話を
まとめた手紙に違いありませんでした。
トリエ伯爵夫人が定めた期日は、
もう10日しか残っていませんでした。
それでも先延ばしにしたのは、
どうかバスティアン自身が
賢明な決断を下してほしいと
願っていたからでしたが、
もう、その期待は諦める時が
来たように思えました。
バスティアンは、
決して妻を手放すことはない。
オデットが枯れ果てて死に、
自分の人生が崩壊しようとも
何一つ、
変わることはないように思えました。
きっと掴み続けて共に堕ちて行く。
そうであれば、
残された希望はオデットだけでした。
最後の一歩を踏み出すことにした
ドーラは、勇気を出し、
「お受け取りください」と告げて
手に握った手紙を差し出しました。
オデットは、特に問い返すことなく
それを受け取りました。
張り詰めた弓の弦のような沈黙の中で
封筒が開かれました。
ゆっくりと手紙を読み進めた
オデットは、
黄昏が訪れる頃になって
ようやく再び顔を上げました。
やや混乱した目つきでしたが、
予想よりも、
ずっと冷静で落ち着いていました。
もう、十分に努力した。
これからは、奥様だけのための
選択をして欲しいと言う
静かな力強さを帯びたドーラの声が
赤く染まっていく夕日の光の中に
染み込みました。
手に握った手紙を
もう一度確認したオデットは、
涙ぐんだ目を上げて
ドーラを見つめました。
簡単に、
言葉を続けられませんでしたが、
答えを推測するのは、
それほど難しいことでは
ありませんでした。
ドーラは頭を下げ、
奥様の意志に従うようにしますと
答えることで、
主人の命令に従いました。
ドーラが寝室を出る瞬間まで、
オデットの沈黙が
破られることはありませんでした。
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自分の気持ちを心に秘めて
決して表に出すことのなかった
オデットが、
バスティアンへの恨み言を
口にしたのは、オデットが、
バスティアンに気を遣うことなく
彼と付き合っていくための
必要な過程だったのではないかと
思います。
最初は賭けの商品。
次は、雇用主と雇われ人の関係。
そして、バスティアンを
裏切ったことで、
彼から罰を受ける対象となった。
バスティアンに
本気で文句を言うことなど
できなかったオデットが、
それができるようになったことで
ようやく、二人が、
対等に向き合えるようになるのでは
ないかと思います。
そのためには、
しばらく二人が離れる必要が
あると思うので、
トリエ伯爵夫人の申し出は
願ってもないことだと思いました。
ところで、
庭師が見つけた動物の死骸は
マルグレーテではなかったのでは
ないかと思います。
オデットに怒られながらも
自分の食べ物を分け与えていた
バスティアンが、
ごみと一緒にマルグレーテを
燃やさせるようなことはしないと
思いました。
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