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158話 ドーラはオデットにトリエ伯爵夫人からの手紙を渡しました。
張り込みを終えて戻って来た助手この件は、
もう諦めるべきではないかと
今日も同じ愚痴をこぼしました。
ケラーは気にせず、笑いながら、
差し出されたカメラを
受け取りました。
助手は、
どうせ何も収穫がない。
時間の無駄だと言っているのにと
ぼやきましたが、ケラーは、
そのおかげで、君の収入が
かなり良いということを
忘れたのかと言い返しました。
助手は、
お金も大切だけれど、
きちんとした仕事を
学ばなければならない。
老婦人の家の前を監視するために
探偵になったわけではないのにと
再び、ぼやきました。
「格好ばかり付けているな。
くだらないことを言っていないで
早く付いて来い」と叱って、
舌打ちをしたケラーは先頭に立って
事務所の隅にある倉庫へ
向かいました。
暗室として使われている空間でした。
ケラーはすぐに
現像作業に取りかかりました。
これまで溜め込んでいたフィルムが
多かったため、
普段より長い時間がかかりました。
おかげで、
助手の愚痴も長くなりましたが、
全く間違った言葉ではないので
放っておきました。
バスティアンが
トリエ伯爵夫人の動向を探るよう
指示したのは昨年末のことでした。
その日から調査に着手しましたが、
すでに、
2か月が経とうとしている今も、
これといった成果は
ありませんでした。
訪問者も行動パターンも
いつも同じ。
最も重要な行き先は皇宮でしたが
そこに潜入する手段がないため、
遠回しに
探りを入れている状態でした。
老婦人のカード遊びの相手を
調べるような境遇を嘆いていた助手は
調査結果を気にも留めていない
様子を見ると、
クラウヴィッツ少佐は
自分がそのような依頼をしたことを
忘れてしまったのだろう。
一度、確認してみたらどうかと
ひねくれた質問を投げかけました。
しばらく考え込んだケラーは、
分かった。
近いうちに電話をしてみると答えると
納得するように頷きました。
これ以上の調査は無意味だと
判断しましたが、
別途、指示がなかったため、
とりあえず継続して進めていました。
あまりにも大きな問題に直面して
混乱している人に、
このようなことで
連絡を取るのはどうかと思い
先延ばしにしてきましたが、
いつまでも、このように
タダ飯を食べさせてもらうわけには
いきませんでした。
機嫌を直した助手が、自分の役割を
果たし始めたおかげで、現像作業は
迅速に終えることができました。
写真を広げて乾かしておいた二人は
向かいにある行きつけのカフェで
昼食を取りました。
ビールと葉巻で、
うまくなだめた助手を
再び職場に送り出したケラーは、
すぐに事務所に戻って
後片付けをしました。
無駄なことに
時間を費やしていなかったという
事実が証明されたのは、
最後の写真を手に取った
瞬間でした。
それは、トリエ伯爵家で撮影された
中年女性の写真でした。
質素で端正な服装。普通の体格。
特徴のない外見でしたが、
一瞬で目を引きました。
しばらくして、
その理由に気づいたケラーは、
「ああ」と
思わずため息を漏らしました。
明るい光が差し込む
事務所の窓辺に行き、もう一度
確認する手続きを行いましたが、
ケラーの判断は変わりませんでした。
クラウヴィッツ家のメイド長が
単身で
トリエ伯爵夫人を訪問しました。
これは、ただ事ではないという
直感が走りました。
慌てて電話の前に近づいたケラーは
すぐに考えを変えて
帽子とコートを手に取りました。
短いメモを同封した写真を持って
ケラーは慌てて事務所を出ました。
海神の権能を象徴する
三叉槍が飾られた海軍省の尖塔は、
それほど遠くない場所で
輝いていました。

オデットはテラスに立ち、
アルデン湾を見つめました。
まだ冷たく荒涼として見えるものの
水の色が変わりつつありました。
間もなく訪れる春を
予感させる風景でした。
一層穏やかになった海風が
白いドレスの裾を揺らして
通り過ぎました。
ゆっくりと
閉じていた目を開けたオデットは
部屋に戻り、荷物を整理しました。
昨年の秋に、
すでにほとんどの持ち物を
整理していたため、残っている物は
それほど多くはなく、
質屋で引き取ってもらえなかった
細かい雑多なものや、
かさばって運べなかった
衣類程度でした。
価値のあるものはドーラに譲り
残りは全て捨てる予定でした。
着替えの服を数着用意して
出発の準備を終えたオデットは、
開け放した窓から吹き込む風に
当たりながら、
過去の生活が全て片付いた部屋を
見回しました。
急いで逃げた時とは
全く違う気分になるのは、ようやく
完全な終止符を打つことができた
おかげのようでした。
トリエ伯爵夫人が定めた日は、
もう一週間後に迫っていました。
約束の場所は、
アルデン市役所の裏手にある
公園でした。
ドーラの助けを借りて
正午までに、そこへ行けば、
その後の旅は、
トリエ伯爵夫人の代理人と共に
行くことになっていました。
協力者が誰なのか、
正確な目的地がどこなのかは
オデットもまだ知りませんでした。
詳しい内容については、
当日にならなければ
確認できませんでした。
ドーラが心変わりしたり
失言をする状況に備えるための
決定のようでした。
無謀な賭けでしたが、
オデットは淡々と受け入れました。
誰でも構いませんでした。
どこでも構いませんでした。
トリエ伯爵夫人を信じることにしたので
従うだけでした。
複雑な考えで
心を悩ませたくありませんでした。
呼び出しの紐を引いて
メイド長を呼んだオデットは、
再びテラスに出て海を眺めました。
母と父、ティラ、マルグレーテ、
そして、しばらく滞在して
去った赤ちゃん。
失われたものたちの記憶が
煌めくさざ波の中で
次々と砕けていきました。
そうして全てを空にし、
ついに空っぽになった心と向き合うと
オデットは、
これまでの人生が、
抜け殻として生きてきたも
同然だったということを、ようやく
理解できたように思えました。
「奥様、ドーラです」
ドアの外から聞こえて来た
馴染みのある声に、
オデットは我に返りました。
乱れた髪とスカートのしわを
整えている間に、
メイド長が入って来ました。
テラスを離れたオデットは、
窓を閉めて風をしのぎました。
ドーラは、
捨てる物が入っている箱を
調べていました。
マルグレーテのクッションと人形、
そしてオデット自ら作ったベビー服。
予想外の物に直面したドーラは当惑し
本当に大丈夫なのかと尋ねました。
オデットは、
面倒かもしれないけれど、
その箱に入っているものは
別途、焼却して欲しいと、
非常に冷静に答えました。
ドーラは再び驚きました。
決意を固めたオデットは
冷静かつ大胆に
計画を実行していきました。
冬の無力だった姿は、
もはや見つけることが
難しくなりました。
ドーラは、
自分がきちんと片づけると
返事をしました。
オデットはお礼を言うと、
ドーラが持っている手紙を見ながら、
その手紙は、
トリエ伯爵夫人からの返事かと
尋ねました。
「ああ、はい、そうです」
と答えたドーラは、「ここまで」と
オデットが引いた
明確な境界線に気づき、
そのくらいで一歩退くことで
本分を果たしました。
その後の会話は事務的に進みました。
ドーラは、
今回の件の進捗状況を冷静に報告し、
オデットは、
受け取った手紙を読みながら
熱心に耳を傾けました。
一見すると、家事を話し合う
普通の午後のひとときのように
見える光景でした。
箱を持ったドーラが去ると、
再び深い静寂が訪れました。
オデットは、
再確認したトリエ伯爵夫人の手紙を
細かく引き裂いて
炎の中に投げ入れました。
皇帝に伝えたい言葉があると
お願いしたところ、トリエ伯爵夫人は
頼みを聞いてくれました。
今日届いた手紙には
それに対する返事が書かれていました。
クラウヴィッツ少佐夫妻の離婚は
穏便に解決されるだろうと
皇帝は約束しました。
バスティアンが、
それによる不利益を被ることはなく
失墜した名誉を回復することにも
力を尽くすと述べました。
皇室と絶縁するという
オデットの意思も尊重しました。
十分満足のいく交渉でした。
オデットは、
裏庭が見える窓辺へ向かいました。
いつも、
焚き火が燃えている場所でした。
間もなく姿を現したメイド長は、
新しい薪の山を積み、
その中に箱の中の物を入れました。
その手つきは、
非常に細やかで丁寧でした。
ありがたいことでした。
炎が燃え上がり始めたのを
確認したオデットは、
思わず足を止めました。
これで全ての準備は整いました。
残ったのはただ一つ、
バスティアンの目を欺くための
芝居の役者として
生まれ変わることだけでした。

海軍省を大きく一周したバスティアンは
残雪が溶けた水の庭園に入りました。
普段より長い距離を走っていましたが、
疲れた様子は見られませんでした。
冬が暮れゆく風景の中を
力強く走り抜けたバスティアンは、
速度を落として演習場を回りながら
呼吸を整えました。
体育館に入った時には、
いつの間にか、
体力トレーニングの時間の半分が
過ぎていました。
入口に置かれていた水のボトルを
一気に空けたバスティアンは、
躊躇うことなく、
次の運動に入りました。
肩の負傷のために下げていた重量を
再び戻したバーベルを手に
バスティアンは、
決められた順序通りに
トレーニングを遂行しました。
次のセットでは、
平均より、さらに重量を上げました。
まだ負担の大きい重さでしたが、
バスティアンは諦めませんでした。
極限の苦痛を、むしろ歓迎しました。
それに集中している間は
雑念を消すことができるので。
ケラーが海軍省を訪れました。
バスティアンは、
作戦司令部で招集された会議を終えて
出て来る途中で、
その知らせを聞きました。
ケラーが預けて行ったという
書類の封筒は、彼の机の上に
きちんと並べられていました。
写真一枚と短いメモ一行。
それが全てでしたが、
バスティアンは、
難なく状況を理解しました。
その時、体力トレーニングの
終わりの時間を知らせる
予告の鐘の音が鳴りました。
その瞬間を境に思考が止まりました。
バーベルを置いた瞬間、
自分の名前を呼ぶ声が聞こえました。
顔を上げると、
心配そうな顔をしている
ルーカスが見えました。
彼が、
「もう行こう。 時間だ」と言って
時計を指し示すと同時に、
終了15分前を知らせる
予告の鐘が鳴り始めました。
先に行ってくれと、
短い返事をしたバスティアンは
次の順番のために
マットへ移動しました。
体力トレーニングは
本日の最後の行事なので
遅くなっても、
大きな問題はありませんでした。
ルーカスが、
さらに数言、話しかけましたが、
バスティアンは
うまく聞き取れませんでした。
ただ運動に集中し、
次第に強度を上げていきました。
クールダウンを終えた時には
体育館は、
すっかり空っぽになっていました。
バスティアンは、
汗でびっしょり濡れたまま
マットに横たわり、
天井を見つめました。
夕焼けが沈む間に、
鉄の臭いがしていた息が落ち着き
破裂しそうに鼓動していた心臓が
本来の拍動を取り戻しました。
写真の中の女の顔が
再び浮かんだのは、
体を起こして座った時でした。
あれはメイド長でした。
ケラーのメモがなくても、
バスティアンは写真の中の女性を
認識しました。
20年近い歳月、見てきた顔でした。
間違えるはずがありませんでした。
メイド長が
トリエ伯爵夫人に会いました。
その事実から導き出せる結論は
一つだけでした。
オデット。
その名前を繰り返しているうちに、
空がすっかり赤く染まりました。
立ち上がったバスティアンは
体育館を横切って
シャワールームへ向かいました。
頭上に降り注ぐ
水しぶきを浴びながら立っている間に
今日の最後の光が消えて行きました。
その後は、
いつもの夕方の日常が続きました。
長いシャワーを終えて出てきた
バスティアンは、
すぐに帰宅の途につきました。
行き先は、
ラッツの中心の金融街でした。
会社の建物は、今日も灯台のように
明るい光を灯していました。
執務室に上がると、
後から付いて来た秘書が、
いくつかの重要な案件を
報告しました。
その中には本家の知らせも
含まれていました。
バスティアンは、
タバコを一本くわえたまま
受話器を取りました。
それほど長くは経たないうちに、
「はい、ケラーです」と
聞き慣れた声が聞こえてきました。
バスティアン・クラウヴィッツです。
任務を変更します。
深く含んでいた煙とともに流れ出た声は
窓の外の闇のように
低く沈んでいました。
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家族に振り回され、
バスティアンにも振り回され
常に誰かのために生きて来た
オデットは、全てを失って初めて
自分のために人生を送ることが
できなかったことに気づき、
それが、彼女の言う
抜け殻の人生だったのでは
ないかと思いました。
しかし、今のオデットからは
全てのしがらみから抜け出し、
清々しささえ感じられました。
これから、本当に彼女が
自分のために生きる新しい人生が
始まるのだと思います。
オデットは、今回も
バスティアンを出し抜こうと
思っていますが、
彼は、すでに何かが起こると
感づいているのですよね。
バスティアンの今後の行動が
とても気になります。
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