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160話 いよいよオデットが出て行く日がやって来ました。
バスティアンは、
夜が更けるまで寝ませんでした。
今日は処理すべき業務が
多いようでした。
眠れずに寝返りを打っていた
オデットは、諦めたように
ベッドから降りました。
ショールを羽織っている間に、
真夜中の鐘の音が鳴り始めました。
いよいよ最後の日がやって来ました。
その事実を反芻しながら
窓辺をうろうろしていたオデットは
衝動的に踵を返しました。
そして、寝室を出て、
暗くなった廊下を歩き、
階段を降りました。
失敗したことに気づいたのは、
ドアの隙間から漏れている
書斎の明かりが
見え始めてからでした。
早めに帰宅して
オデットと夕食を共にした
バスティアンは、夜遅くまで
書斎で仕事をしていました。
電話と書簡が殺到し、
時には会社の秘書や役員が
アルデンを訪問することも
ありました。
まるで、会社を
邸宅に移したかのような光景でした。
それでも無理をして
時間を割いてくれたことを
オデットはよく理解していました。
時間があの男にとって
どんな意味を持つのかも。
その努力に感謝し、
その努力に応えられなかったことを
申し訳なく思いました。
結局、お互いをさらに苦しめるだけの
関係であることを
実感させられた日々でした。
つまり、ここまで。
書斎の明かりを見つめていた
オデットは目を逸らし、
そのまま背を向けました。
床を踏みしめる足音が、闇の中に
静かに染み込んでいきました。
寝室に戻ろうとして
心変わりしたオデットは、
ここで過ごした過去を振り返りながら
邸宅を歩き回りました。
小さな書斎へ行き、すでに
きれいに片付いた机を見た後、
廊下の端にあるサンルームへ
向かいました。
ガラス張りの部屋は、
ほのかな月明かりに染まっていました。
オデットは、
その中央に置かれたピアノの前に
ゆっくりと近づきました。
あらかじめ、楽譜も全て、
片づけていたため、
譜面台はがらんとしていました。
空高く昇った月と、
その月を照らす海の光が、
真夜中の闇を薄めていました。
オデットはピアノの前に座り、
その風景を眺めました。
別れを告げるように撫でていた
ピアノの鍵盤を
そっと押してみたのは
衝動的な選択でした。
冷たく澄んだ音が、透明な闇の中に
染み込んでいきました。
その残響が消える前に、
オデットは次の鍵盤を押しました。
そしてまた、さらにまた。
一つ一つ、音名を口ずさんでいた
オデットは、思わず、
ため息をつくように
ふっと笑ってしまいました。
その時、半分開いている扉の向こうの
廊下の床に映っている
人影が見えました。
壁にもたれている男性でした。
何気なく目を向けた場所で
それを見つけたオデットの瞳が
小刻みに震えました。
彼が来た。
その事実に気づいたオデットは、
鍵盤を撫でていた手を
慌てて引っ込めました。
バスティアンは、依然として
その場所に留まっていました。
近づくことも退くこともない距離に。
先週、ずっとそうであったように。
一体なぜ?
ふと浮かんだ疑問が、
ピアノの前から離れようとした
オデットを引き止めました。
じっとバスティアンの影を
見つめているうちに、
夜がさらに深まりました。
離婚は適切な時期に
代理人を通じて処理される予定だと
聞いていました。
異変がなければ、
二度と会うことはできないだろう。
それ以外に、
特に整理すべきことが残っていない
関係だから。
別れの挨拶一つすらなく
終わりになるという事実を
改めて思い出すと、
ピアノを閉じようとした指先から
すっと力が抜けました。
バスティアンの影を見つめていた目を
そらしたオデットは、
まっすぐな姿勢で
ピアノに向き合いました。
そして再び、
止まっていた幻想曲の次の音を
弾きました。
そして次、また次。
ゆっくりと続いていた音と音は、
そう長くは経たないうちに、
一つの旋律へと溶け合いました。
本来の拍子とリズムを取り戻した
オデットは、
水の流れのように滑らかな演奏を
続けて行きました。

立ち去ろうとした瞬間に
音楽が始まりました。
バスティアンをここへ導いた
まさに、その旋律でした。
次第に豊かになる演奏が
月明かりのように流れ込んで来ました。
バスティアンは足を止めて
オデットの演奏に耳を傾けました。
仕事を終えて書斎を出ようとした時
かすかに音楽が聞こえて来ました。
勘違いだと思いましたが、
両足は、すでにここへ向かって
動いていました。
もう眠っているはずのオデットが、
月明かりが降り注ぐ
ピアノの前に座っていました。
自分の目で直接見ても
現実感が湧かない光景でした。
耳元に残る馴染みのある旋律と、
小さく口ずさむ歌声も同様でした。
一時、中断されていた演奏が
再開されたのは、
幻を見ているという結論に至った
瞬間でした。
バスティアンは、
廊下の壁に背をもたれかけて
静かに目を閉じました。
夢でも構いませんでした。
生まれて初めて心に留めた音楽は
今も美しく、バスティアンは
この演奏が続くことを
願っていました。
その事実がもたらした甘美な虚無が
ため息となって流れ出た瞬間、
穏やかな波のような旋律が
聞こえ始めました。
トリル。
美しい瞬間を持続したいという
努力の音でした。

再び最初に、ダ・カーポ。
オデットは、
記憶に残っている楽譜の指示に従い
曲の最初に戻りました。
そして再びトリル。
より豊かになった幻想曲の旋律の中で
時計を巻き戻してみました。
取り返しのつかない傷を与え、
傷ついた日々を越え、
最善を尽くした偽りの中で
平安を享受した時代へ。
それから、
プロポーズではないプロポーズを受けた
バラが満開の春の日の午後に。
その回想の終着点は、震える手で
ベールをめくった夜でした。
間違って留められた
この縁の最初のボタンでした。
過ぎた時間を、
もう一度生きることができれば。
儚い仮定を試みているうちに、
オデットが演奏する幻想曲は
クライマックスに達しました。
良い時代に出会い、
平凡な出発点に立つ将校と淑女を
描いてみました。
しかし、その瞬間にもオデットは
その仮定は
前提から間違っているということを
知っていました。
バスティアンの苛烈な人生のどこにも
そのような始まりを許す良い時代は
存在しませんでした。
オデットの過酷な人生もまた
同様でした。
そういう人たちでした。
そうするしかなかった縁でした。
その事実に直面した瞬間、
オデットは気づきました。
過去に戻った彼らの最善は、互いに
会わないことだけだということを。
いつの間にか、
また最後の章になりました。
オデットは、もう一度トリルを演奏し
必死に戻した記憶の時計の針を
手放しました。
本来の流れを取り戻した時間の流れが
急流となって激しく渦巻く間に、
心を乱していた思いが
消えていきました。
過ぎた時間を、
もう一度生きることはできないけれど
これからの時間を決める力は
残っていました。
そして彼らは今、
その岐路に立っていました。
今からでもお互いを手放すこと。
最初から
出会うべきではなかった縁のための
最善の結末を、
オデットは淡々と受け入れました。
終わり。そしてやがてフィーネ。
繰り返される楽曲の
最後の一節を演奏し終えると
オデットは目を閉じました。
楽譜にないトリルを演奏し始めたのは
それを弾き終えた瞬間でした。
意味がないと分かっていながらも、
オデットは弾き続けました。
次も、その次も。
美しい曲の余韻を散らしながら。
しかし、それでも終わりは
確実に近づいて来ました。
オデットは、虚しい努力を止めて
最後の音符を弾きました。
力を入れて鍵盤を押しても、
音はすぐに消えていきました。
目を開けたオデットは、首を回して
開いているドアの隙間を
見つめました。
そこに留まっていた影が揺れました。
そしてゆっくりと廊下の向こう側へと
遠ざかり始めました。
ピアノの余韻が消えると、
再び静寂が訪れました。
オデットは、音が止んだ鍵盤から
手を離し、ピアノの蓋を閉めました。

バスティアンは、
うっすらと明るくなり始めた
夜明けの光の中で目を覚ましました。
習慣的に時計を確認した後、
ベッドの横に目を向けました。
オデットはまだ眠っていました。
まるで明け方のように澄んでいて
安らかに見えるその顔を、
バスティアンは、
しばらく静かに見つめました。
その間に周囲が徐々に明るくなり
起床時間が近づいて来ました。
これ以上は無理だと悟った瞬間
バスティアンは躊躇うことなく
ベッドから降りました。
1時間も眠れませんでしたが、
疲れは感じませんでした。
布団の縁を上げて
オデットの肩を包み込むと、
そのまま自分の寝室へ行き、
出勤の準備を始めました。
あの旋律が、ふと耳元に蘇ったのは、
シャワーの水流の下に
立っていた時でした。
バスティアンは
昨夜の記憶を辿りながら
長い時間、シャワーを浴びました。
そして蛇口を閉めたとき、
彼の眼差しは、
さらに深く静かになっていました。
深呼吸をしたバスティアンは、
一時中断していた出勤準備を
再開しました。
普段より長い時間をかけて髭を剃り
髪を整えました。
ポマードで端正に撫で付けた後、
髪の毛一本たりとも乱れぬよう、
もう一度、抜かりなく整える工程を
繰り返しました。
服を着替えるために寝室に戻ると、
ロビスがノックする音が
聞こえて来ました。
バスティアンは入室を許可すると
ピンと張ったシャツの裾を
ガーターに固定しました。
靴下もまた、ガーターを締めて
固定しました。
制服の皺や勲章の向き一つまで
気を配って整えているうちに、
ついに、
アルデンを出発する時間が来ました。
心配そうな顔で見守っていたロビスが
もう出発の時間だと
急かす言葉をかけました。
顎の先で頷いたバスティアンは、
角砂糖を放り込んで
かき混ぜた濃いコーヒーで
意識を覚醒させました。
再び耳元を漂い始めた
ピアノの旋律を消すためには、
もう一杯のコーヒーが必要でした。
寝室を出る前に、
バスティアンは鏡の前に近づき、
もう一度、身だしなみを整えました。
最後に手袋をはめて振り返ると、
待機していたロビスが
ドアを開けました。
オデットは、その向こうで
バスティアンを待っていました。
「遅かったですね、バスティアン」
と言って、にっこり笑う顔が
きれいでした。
「行ってらっしゃい。 見送ります」
優しい気遣いに
愛おしさを感じました。
つまり、まるで最後のように。
じっとオデットを見つめていた
バスティアンは、
貴婦人に対する礼儀を尽くして
妻をエスコートしました。
オデットは水色のドレスを
きちんと着こなしていました。
好きな服でした。
耳たぶで輝く
小さな真珠のイヤリングも同様でした。
長い廊下を通り階段を降りる間、
二人は特に
話すこともありませんでした。
ただ前を見つめながら
歩調を合わせて一緒に歩きました。
オデットが口を開いたのは
玄関ホールの端に
辿り着いた後でした。
「バスティアン、ちょっと待って」
耳元を漂うピアノの旋律の間に、
オデットの柔らかな声が
聞こえて来ました。
バスティアンが足を止めると、
オデットは静かに近づいて
勲章の形を整えてあげました。
そして再び後ろへ下がると、
静かな微笑みを浮かべました。
「行ってらっしゃい」
オデットが落ち着いて挨拶をすると
整列していた使用人たちも
一斉に頭を下げました。
バスティアンは、
短い黙礼を残して立ち去りました。
今日もできるだけ早く
アルデンに戻る予定でした。
昨日よりも、
さらに盛大な晩餐を共にし、
同じベッドで眠りにつく。
バスティアンは、自分を欺きながら
冷静な足取りで歩を進めました。
まるで普通の朝のように、ただ淡々と。
しかし、次第に大きくなっていく
ピアノの旋律が
ついに理性を侵食しました。
運転席のドアを開けようとした手を
止めたバスティアンの喉が
荒々しく動きました。
眉間にできたしわが深くなり、
固まった口元が、
わずかに痙攣しました。
結局、踵を返して、
玄関へ続く階段を再び上った
バスティアンは、
妻と向かい合った場所で
足を止めました。
オデットは彼の影の下で
見開いた目を上げました。
「バスティアン・・・」
震える声で囁いた名前が
バスティアンの熱い唇の上で
砕けました。
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最初は偽りの関係だったけれど
それが本物になる可能性も
大いにあった。
けれども、オデットとバスティアンは
家族のしがらみに囚われていたために
幸せになれなかった。
でも、オデットは
家族のしがらみから抜け出し、
バスティアンも、
もうすぐ、そうなりそうなので、
ようやく二人は、一人の男と女として
向き合えるようになるのではないかと
思います。
オデットが出て行くと分かっていて
帰宅した後のいつもの日常を
無理に描こうとするバスティアンが
切なかったです。
別れずに、二人の関係を
修復する方法があれば良かったのにと
思います。
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