![]()
161話 バスティアンは乗りかけた車から、オデットの元へ戻って来ました。
それほど長い時間では
ありませんでした。
荒々しい波のように始まった
口づけは、穏やかな水流となって
終わりました。
かろうじて意識を取り戻した
オデットは、震える手を上げて、
自分の顔を包み込んでいる
大きな手を包み込みました。
バスティアンは、
唇をそっと重ねたまま、
荒くなった息を整えていました。
必死に押し返そうとしましたが
無駄でした。
彼は、指先にじっと力を入れるだけで
オデットを
完璧に制圧することができました。
まるで巨大な壁に
遮られているかのようでした。
いつも、このような無力感を
与えてきた男だったという事実に
改めて悲しくなった瞬間、
バスティアンの唇が離れました。
両手は依然としてオデットの頬を
包み込んでいましたが、
束縛するように握りしめていた力は
もう残っていませんでした。
どうすれば良いか分からずにいる間に
「行ってきます」とバスティアンが
ゆっくりと唇を開きました。
オデットを湛えた青い瞳は、
今日の空のように
澄んで涼しい光を帯びていました。
深く見つめましたが、
何も読み取ることができませんでした。
オデットが知ることができるのは、
ただその目に映った
自分の途方に暮れた顔だけでした。
ふと、それに気づいたオデットは、
思わず目を伏せて視線をそらしました。
しかし、バスティアンは
素直に引き下がりませんでした。
手のひらに力を込めて顔を上げ、
再び、その視線を読み取りました。
「行ってきます、オデット。」
ため息と共に
懸念を飲み込んだバスティアンは、
「行ってきます、オデット」と
もう一度落ち着いた挨拶をしました。
出勤する夫と見送りに出た妻の
平凡な日常のように。
ただそれだけのように。
オデットは、
結局、何の返答もできませんでした。
ただ次第に赤くなる目で
じっと見つめるだけでした。
まるでセリフを忘れた俳優のような
その姿を静かに見守っていた
バスティアンは、ついに退くことで
相手役のミスを収拾しました。
そっと撫でたオデットの顔を離すと
バスティアンは、
何事もなかったかのように
背を向けました。
当惑している使用人たちに
黙礼で理解を求めると、
落ち着いて階段を降りて
車に乗りました。
エンジンをかけたクリーム色の車は、
晴れた日差しの中へ
ゆっくりと進み始めました。
徐々に速度を上げて邸宅の入口を抜け、
煌めくエメラルドグリーンの海が広がる
海岸道路に入るまで、
バスティアンは
一度も振り返りませんでした。

車の整備をしていた手を止めた運転手は
奥様が外出するのかと
驚いて聞き返しました。
ドーラは、
ご主人様が許可したことだと、
あらかじめ用意しておいた答えを
落ち着いて伝えました。
ガレージの窓を通り抜けた日差しが、
熱演を繰り広げる俳優を照らす
照明のように降り注ぎました。
運転手は、
確かに奥様の外出を禁止すると・・・
と反論しましたが、ドーラは、
その命令が無意味になってから
もうどれほど経ったと思うのか。
すでに何度も、奥様を乗せて
外出したではないかと指摘しました。
じっくり考え込んでいた運転手は、
まあ、それはそうだと答えて
頷きました。
マルグレーテを発見したという
知らせが入ると、
運転手はオデットを乗せて
アルデンのあちこちを走り回りました。
そしてバスティアンは一度も
そのことを問題にしませんでした。
ドーラは、
自分と一緒にアルデン市内に立ち寄って
風に当たってくる予定だ。
早く準備するようにと
平然とした口調で命令しました。
長年、主人に仕えてきた忠実な家臣。
自分が持つ権威の力を
ドーラはよく知っていました。
自分でそれを手放す選択をしましたが、
後悔はありませんでした。
トリエ伯爵夫人は
オデットをこっそり連れ出すことを
望みましたが、
ドーラの考えは違っていました。
クラウヴィッツ少佐の妻が
再び夫から逃げたという噂が立つのは
困りました。
それはバスティアンの評判を
さらに傷つけることになるからでした。
それだけは防ぎたいと
悩んでいたドーラが見つけた次善の策は
自分を利用することでした。
メイド長と一緒に外出したオデットは、
アルデン市内で、
偶然トリエ伯爵夫人に会う予定でした。
そして、これまで、
バスティアンが徹底的に遮って来た
皇命を聞くことになる。
本家に関連した一連の事件や事故に
怒った皇帝が離婚を勧めており、
最後まで従わなければ、バスティアンが
不利益を被ることになるという
内容でした。
事情がそうである以上、
まずは皇帝の意向に従い、
自分の庇護のもとにあるのが良いと
トリエ伯爵夫人が勧め、
オデットは熟慮の末、
その提案を受け入れるという
流れでした。
結局、夫から離れたという事実は
変わらないけれど、
少なくとも、外部の介入や
やむを得ない事情によるという言い訳は
作れるはずでした。
幸いにも、トリエ伯爵夫人が悪役を
引き受けてくれることになったので
あとはドーラの決断だけでした。
予想通り、運転手は疑いを捨て
それでは30分以内に準備すると
告げました。
車庫を離れたドーラは
急いで邸宅に戻りました。
まず使用人の休憩室へ行き、
市内で買って来るものがあるか尋ね
さりげなく女主人の外出をほのめかし
自分の部屋に行って
外出の準備をしました。
今夜、
ここを去ることになるかもしれない。
ドーラは複雑な眼差しで
あらかじめ用意しておいた
自分のバッグを見つめました。
ドーラは、
バスティアンを騙せないことを
よく分かっていました。
きっと彼女を疑うだろうし、
最終的に
真実を知ることになるだろう。
主人を思う気持ちから生まれた
選択であったとしても、
裏切りは裏切り。
もしもバスティアンが、
その責任を問うなら、
ドーラは甘んじて
受け入れるつもりでした。
再び覚悟を決めたドーラは
服を着替えて部屋を出ました。
手にはお使いの品物を入れる
大きな買い物かごを持っていました。
ドーラは3階にある給湯室へ行き、
あらかじめ、そこに置いてあった
オデットの荷物をまとめました。
服が数着だけの小さなバッグは、
買い物かごの中に、
うまく隠すことができました。
いよいよ目前に迫った出発時間を
確認したドーラは、
急いで女主人の寝室へ向かいました。
「奥様、ドーラです」
終わりを告げるドーラの声が
廊下を満たす日差しの中に
響き渡りました。
「はい、お入りください」
オデットは、
いつもと変わらず淡々と答えました。
静かにドアを開けると、
窓の前に立っているオデットが
見えました。
海を見ていた目をそらした彼女は
落ち着いて振り返って
ドーラと向き合いました。
すでにコートを着て
帽子と手袋まで身に着けた姿でした。
心の準備ができているかという質問は
無駄な時間の浪費のように思えました。
「もう準備が整ったので
行きましょう」
ドーラは一歩後ろに下がって
道を空けてくれました。
背筋をピンと伸ばしたオデットが
静かな力強さを湛えた足取りで
寝室を横切って来ました。
すれ違い様に見た目元は
赤く腫れていました。
夫を見送って戻って来た朝から
ずっとそうだったことを
ドーラはよく知っていました。
しかし、眼差しだけは、
これまでになく決然としているという
事実もまた、よく知っていました。
ドーラが持っている買い物かごを
一瞥したオデットは、特に何も言わずに
先頭に立って歩き始めました。
表情を整えたドーラも
すぐにその後を追いました。
クラウヴィッツ少佐の妻を乗せた車が
邸宅を出発しました。
目的地はアルデン市内の繁華街。
作為的な偶然が起きることになる
この演劇の最後の舞台でした。

バスティアンは前日と同じ時間に
アルデンに到着しました。
昼と夜の境界。
金色に染まった太陽が
ゆっくりと沈み始める時間でした。
徐々に速度を落とした車は、
邸宅の入口へ続く階段の下で
止まりました。
迎えに出て来た使用人たちが
並んでいましたが、
オデットの姿は見えませんでした。
待機していた侍従に
ハンドルを渡したバスティアンは、
普段よりゆっくりと
階段を上りました。
次第に赤みを帯び始めた西の空は、
雲一つなく晴れていました。
美しい夕焼けが見られそうな
天気でした。
使用人たちの前に出て来た執事が、
本当に申し訳ないと
沈痛な顔で謝罪しました。
注意深く玄関ホールを見回した
バスティアンは、
これといった感情のない目を伏せて
ロビスを見つめました。
そして、
晩餐の準備は全て整っているかと
淡々とした質問で、
重苦しい沈黙を破りました。
昨日より食事の時間を
早めるよう指示を出しました。
きちんと実行されていれば、遅滞なく
晩餐を始められるはずでした。
真っ青な顔をしたロビスは、
トリエ伯爵夫人が
奥様を連れて行った。当分の間、
皇室が奥様を保護するという通告を
残したそうだと告げると
手に持っていた封筒を差し出しました。
トリエ伯爵家の紋章を認めた
バスティアンの目が細くなりました。
それを受け取ったバスティアンは
特に何も言うことなく、
邸宅のロビーに入りました。
顔色を窺う使用人たちを下がらせた
ロビスは、影のように静かに
主人の後ろを付いて行きました。
中央階段を上り、寝室へ続く廊下を歩き
そして妻の部屋のドアを開ける瞬間まで
バスティアンは頑なまでに
沈黙を貫きました。
ロビスは、
メイド長と一緒に外出したところ
アルデン市内の繁華街で
トリエ伯爵夫人が・・・と
説明し始めましたが、
バスティアンは、
もう下がるようにと命令することで
ロビスの言葉を遮り、その後、
落ち着いた足取りで敷居を越えました。
背後でドアを閉めると、
女主人のいない部屋を侵食した静寂が
一層、深まりました。
規則的に響き渡っていた靴音は
格子窓の影が落ちている
カーペットの上で止まりました。
バスティアンは後ろ手に組んで立ち
探るように、
妻の寝室を見渡しました。
目に映る全ての場所が
隅々まできちんとしていて
整然としていました。
あまりにも整然とし過ぎていて
生活感がないほどでしたが、
元々、オデットの部屋は
そのような様子でした。
その事実が、ふと虚しくなり、
バスティアンは少し笑いました。
いつも、そのように
生きて来た女でした。
いつでも出発できる準備をし、
しばらく滞在してから去る客のように。
「ただいま」
一日中、舌の先に
こびりついていたその挨拶を
飲み込んだバスティアンは、
止まっていた足を動かして
海が見える窓辺に近づきました。
今や部屋は、すっかり
バラ色に染まっていました。
窓を開けたバスティアンは
海を越えてきた風を浴びながら、
トリエ伯爵夫人からの手紙を
読みました。
アルデン市内で偶然出会ったオデットを
連れて行くまでの経緯が
長々と書かれていましたが、
結局、伝えたい言葉は、
皇命を履行したので
受け入れること。
それだけでした。
オデットもまた、
それを望んでいると。
なかなか手の込んだ脚本を
練り上げたところを見ると、
思った以上に
緻密な準備をしていたようでした。
適当に折りたたんだ手紙を
コンソールの上に放り投げた
バスティアンは、
コートのポケットに入っていた
タバコの箱を取り出しました。
続けて2本のタバコを吸った後、
ご主人様に伝えたいことがあると言う
メイド長の声が聞こえて来ました。
バスティアンは、
3本目のタバコを取り出しながら
入室を許可しました。
間もなくドアが開き、
固い表情のメイド長が入って来ました。
鎖に繋がれた罪人のように
重い足取りで近づいてきたメイド長は
全て自分に落ち度がある。
ご主人様の処分に従うと告げると
深く頭を下げました。
バスティアンは、
窓枠にもたれかかって
タバコを吸いながら
その様子を見守っていました。
裏切られたわけだけれど、
怒りはありませんでした。
自分を守るために
これほどまでに苦労しているドーラが
気の毒に思えましたが、
その憐みさえも
長くは続きませんでした。
バスティアンは疲れていたので
今はただ、休みたいだけでした。
それ以外のことに関する判断は、
後回しにしても遅くはないはずでした。
バスティアンは、
食事は30分後に、
自分の部屋に用意するようにと
事務的な口調で命令すると
短くなったタバコを消しました。
「ご主人様・・・」と呼ぶメイド長に
バスティアンは、
それで十分だ。もう下がるようにと
告げると、窓を閉めて背を向けました。
ドーラがすすり泣く声が
聞こえて来ましたが、
それを気にかける余裕は
残っていませんでした。
バスティアンは
2つの部屋をつなぐ通路を通って
自分の寝室へ向かいました。
まず服を着替え、その後、
冷たい水で顔を洗いました。
再び部屋に戻った時、
夕暮れが迫っていました。
静かに食卓を準備している
メイドたちの横を通り過ぎた
バスティアンは、窓の前に立ち、
明かりの灯った
父の世界を見つめました。
オデットの安全が保証されたので、
あとは何の心配もなく
最後の準備をすれば良いだけでした。
明確な目標で雑念を消した
バスティアンは、食卓の前に座って
カトラリーを握りました。
晩餐のために用意された料理は
豊富で美味しそうでした。
最後の一口まで、バスティアンは
残さず平らげました。
![]()
![]()
バスティアンは、
ケラーの任務を解いてしまったので
オデットが出て行ったら、
今までのようにオデットの行先を
知ることができなくなります。
バスティアンは、それを承知の上で
オデットのために、
彼女に騙されたふりをして
彼女をそのまま出て行かせ、
自分はいつものように
出勤しようとしたけれど、
ここで別れたら、
もう二度と彼女に
会えないかもしれないという
思いが湧き起こって来て、
自分の思いの丈を込めた
口づけをしたのではないかと
思いました。![]()