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163話 テオドラとジェフ・クラウヴィッツは亡くなりました。
「葬儀は無事に終わった」
マリア・クロスは低くかすれた声で
会話の口火を切りました。
続いて、深いため息の音が、
ようやく破られた長い沈黙の隙間へと
消えて行きました。
バスティアンは、
形式的な微笑みを浮かべながら
ティーカップを置きました。
窓の向こうに見える
父の邸宅を一瞥した視線は、
すぐにまた、応接テーブルの向こうの
マリアへと向かいました。
極めて冷酷な視線に圧倒されたマリアは
言葉を続けることができず
冷めたお茶を飲みました。
ジェフ・クラウヴィッツは、
妻の手にかかって最期を迎えました。
夫に毒入りの酒を飲ませた
テオドラ・クラウビッツは、
あらかじめ用意しておいた拳銃で
自ら命を絶ちました。
遺書は発見されませんでした。
あらゆる憶測が飛び交うことを
意図したかのような死でした。
非常に衝撃的な事件であったため
世間の関心が集中しました。
それを証明するかのように、
葬儀場は、参列者よりも多くの記者で
賑わっていました。
最後まで姿を現さなかった
バスティアン・クラウヴィッツの
ニュースも加わり、明日になれば、
熱気はさらに高まるはずでした。
マリアは、
心から哀悼しろという意味ではない。
死んだからといって
許される罪ではないから。
しかし、最低限の体裁は
取り繕った方が良いのではないか。
無用な難癖をつけられる隙を与える
必要はないからと、心から訴えました。
眉を顰めて笑ったバスティアンは、
黙ってタバコの箱を開けました。
まず、マリアに1本勧め、
自分も1本火を点けて吸いました。
マリアは諦めたように
タバコを吸いながら
バスティアンを見つめました。
無常に散って行く煙の向こうの彼は
この悲劇とは無関係な人のように
超然として見えました。
勝者の余裕が滲み出ている態度なのに
なぜかマリアは不安でした。
まるで犬に噛みつかれながら
海に落ちて、
死にかけていた子供を見つけた
あの日に戻ったような気分でした。
バスティアンが変わったと、
マリアは今、
確信を持つことができました。
バスティアンは巧みな処世術で
出世街道を駆け上がりました。
この世の誰よりも
素晴らしい演技を見せる俳優であり、
危うい綱渡りを楽しむ曲芸師でした。
何が自分のための最善か
誰よりもよく知っているはずなのに、
なぜか自己破壊的な選択を
続けていました。
ただ父親を、徹底的に
叩き潰しさえすればいいかのように。
その先のことなど、
まるでないかのように。
「バスティアン?」
マリアは急に怖くなり、
バスティアンを呼びました。
窓の向こうの海を眺めながら
タバコを吸っていたバスティアンは
ゆっくりと首を回して
マリアに向き合いました。
これまで見てきた、
あの冷徹な野心家の顔でありながらも
なかなか安心できませんでした。
マリアは、
しばらく、自分と一緒に過ごそうと
衝動的に提案しました。
眉をそっと顰めたバスティアンは、
しばらくして、ふっと
毒気の抜けたような笑いを
漏らしました。
バスティアンは、
孤児となった甥に対する配慮だけは
ありがたく受け取ると返事をしました。
マリアは、
真剣に考えてみるように。
あなたの父親の墓場となった家を
目の前にして生きていても
良いことなんてないだろうと
主張しました。
しかし、バスティアンは、
心配しないように。
すぐに消えてしまうからと、
まるで
天気の話をしているかのように
普通の口調で返事をしました。
そのため、マリアは、
何度も繰り返し考えた末に、
ようやくその言葉の意味を
完全に理解することができました。
「なんてことでしょう!」と
嘆くマリアにバスティアンは、
今、解体のスケジュールを
調整しているところで、
遅くとも夏が来る前には
終わる見込みだと話しました。
マリアは、
今あの家まで壊したら
世論はさらに悪化するだろうと
心配しましたが、バスティアンは
構わないと答えて、
肩を軽くすくめると、
水の入ったグラスを握りました。
体重が減ったために
緩くなった時計がずり落ちると、
手首の傷が見えました。
それを見つけたマリアは
目を大きく見開きました。
マリアは、
どうして、そんなことに・・・
と尋ねましたが、バスティアンは
彼女の質問が終わる前に、
訓練中に少し怪我をしたと
先に答えました。
表情と呼べるもののない顔を
わずかに顰めていました。
グラスを再び置いたバスティアンは
めくっていたシャツの袖を下ろし、
カフスを整えました。
赤い傷は、
すぐにその下に姿を消しました。
マリアは、
もう目標をすべて達成したのだから、
早く除隊するように。
このままだと無事な場所が
一つもなくなりそうだと
心配しましたが、バスティアンは
軽い擦り傷に過ぎないので、
心配するほどではないと返事をすると
すぐに元の顔色を取り戻しました。
このまま会話は
平行線のままだろうという
予感がしたマリアは、
その辺りで一歩引きました。
あらゆるスキャンダルと非難を
足枷のように引きずりながらも、
ついに頂点に立ったバスティアンは
軽蔑の対象であると同時に
畏敬の対象となりました。
皇帝の姪である妻を捨てても
なお皇帝の寵愛を受けている点も、
彼に対する恐怖を増大させる
大きな要因となりました。
しばらくは騒がしくなるだろうけれど
バスティアンは、
もう、そのような攻撃では、
どうすることもできないほど
大きくなっていました。
彼と対立した結果を
身をもって証明してくれた
ジェフ・クラウヴィッツがいるので
そろそろ、皆、自分の身を
大切にすることになるはずでした。
勝手に除名を決定した社交クラブが
こっそり除名撤回の話を
漏らしているのを見ると、
皆が身に染みて感じたことが
少なくなかったようでした。
海軍省もまた、
今年のポロ大会出場選手名簿の最上位に
クラウヴィッツ少佐の名前を
挙げました。
バスティアンの没落を
期待していた人々を嘆かせる
結果となりました。
恐怖というものは
これほどまでに力が強い。
したがって、マリアは
もはやバスティアンの立場を
心配しませんでした。
危機が訪れても克服するだろうから。
ただ虚無に蝕まれた心が
心配でなりませんでした。
愚かな愛でもつかんでいれば
良かったのだろうか。
ふと、そんな後悔さえしましたが、
表には出しませんでした。
代わりにマリアは
バッグに入れて来た手紙を
一通取り出しました。
マリアは、
実はテオドラが
自分に手紙を送って来た。
あの出来事が起きた翌日に到着した。
受取人の名前はあなたなのに、
自分の家の住所が書いてあった。
おそらく自分が代わりに
届けて欲しいと思ったのだろうと
告げると、その手紙を
テーブルの端に静かに置きました。
完全な終わりを見届けなければ
新しく始められないだろう。
マリアは、
テオドラの手紙が、何らかの形で
長きに渡る悪縁を精算する
終止符になると信じていました。
一体、何を企んでいるのか
見当もつかなかったので、
捨てようと思ったけれど、
どうやらそれは越権行為のようだ。
読むにせよ捨てるにせよ、
その決定は、
あなた自身でするようにと告げると
役目を終えたマリアは
そのまま席を立ちました。
バスティアンもすぐに続きました。
そして、冷静に手に取った手紙を
ジャケットの内ポケットに入れると
平然とエスコートを求めました。
気が変わったらいつでも連絡してと
マリアは最後にもう一度、
心を込めてお願いしました。
バスティアンは、
「はい。そうします」と
爽やかに答えると、
滑らかな笑みを浮かべました。
その魅惑的な顔をじっと見つめていた
マリアの唇から
新たに虚しい笑みがこぼれました。
最後の最後まで、バスティアンは
あくまでも、
あの墓を守るつもりのようでした。

ロープがピンと張られると、
ベッドが揺れ始めました。
壊れそうなほど、軋んだ後、
ギギギッと引きずられて、
また軋む音が、
深い夜の静寂を破りました。
一時、止まっていたその騒ぎは、
荒くなった息遣いと共に
再び始まりました。
ロープは、
ベッドの脚からバスティアンの手首まで
直線を描きながら、
しっかりと結ばれていました。
逃れようとすればするほど、結び目は
さらに強く締まっていきました。
ロープに縛られた猛獣のように
もがいていたバスティアンは、
一瞬、気絶するかのように
床に倒れ込みました。
皮膚が剥がれた手首から流れた血が
ロープを赤く染めましたが、
虚ろな瞳は奇妙なほど
静まり返っていました。
大きな体を丸めて横たわり、
息を切らしながら呻いていた
バスティアンは、
間もなく静かになりました。
空中を見つめていた
焦点の定まらない目は閉じられ、
次第に呼吸が落ち着いて行きました。
再び目を開けたのは
夜明けが近づき始めた頃でした。
床と天井、そしてベッド。
周囲を探るように見ていた目は、
最後に、手首を縛っている
ロープを見ました。
ギュッと閉じた目を開けることで
眠気を飛ばしたバスティアンは、
床に倒れていた体を
ゆっくりと起こして座りました。
窓の向こうから差し込む
青い夜明けの光で満たされた部屋は
まるで深い水の中のようでした。
バスティアンは淡々と
ロープの結び目を解きました。
手首に巻いていたハンカチは
見えませんでした。
激しくなったもがきのせいで、
落ちてしまったようでした。
子どもがやって来ました。
今日は母親の手を握って来て、
3人家族が一緒に過ごす
平凡な1日を過ごして去りました。
これよりも残酷で美しい悪夢を
バスティアンは知りませんでした。
やはりクラーモ博士に
睡眠薬を処方してもらうのが良いと
思いました。
深く眠れるようになれば、
夢遊症の症状が
消えるかもしれませんでした。
夢の残像が、ぼんやりと薄れると、
バスティアンは、まず浴室へ行き、
顔を洗いました。
氷のような水を何度も、
パジャマがびしょ濡れになるほど
浴びました。
そして再び寝室に戻った
バスティアンの顔は、
騒動が起きた真夜中とは
明らかに違っていました。
水を一杯注いで飲んだバスティアンは
濡れたパジャマを脱ぎ、
ガウンを羽織りました。
その後のことは、
体が覚えている順序通りに
実行されました。
引き出しから取り出した救急箱で
手首の傷を治療し、
包帯を巻きました。
救急箱を片づけた後、
ロープを解いたベッドを
元の位置に戻しました。
幼い頃にも、
上手に、こなしていたことなので、
今さら苦労する理由など
ありませんでした。
再び眠ろうとするには
微妙な時間だと確認したバスティアンは
香りの強い葉巻を一本吸いながら
テラスへ出ました。
暗闇が退きつつある海の向こうに、
父の世界が見え始めました。
母親に犯したことを
そのまま返された父の最期が
バスティアンはとても気に入りました。
継母の自滅も同様でした。
受け取ったものを、
そっくりそのまま返そうとしました。
心から愛した存在に裏切られ
苦痛に満ちた地獄を味わい、
そして自らの手で、
全てを崩壊させる破滅に至ること。
それを切に望み、最終的に、
その通りになりました。
それでもなお、物足りなさを感じるのは
まだ最後の課せられた務めを
完遂できていないためのようでした。
長く伸びた灰を払い落とした
バスティアンは、そのまま部屋に戻り
普段より早く一日を始めました。
それが目に入ったのは、ガウンを脱いで
浴室へ向かっていた頃でした。
何気なく目を向けたコンソールの上に、
まだ開いていない
テオドラ・クラウヴィッツの手紙を
見ました。
しばらく考え込んだバスティアンは
踵を返して、
その場所へ近づきました。
夜明けの海を越えてきた日差しが
闇に隠れていた傷跡を
浮かび上がらせました。
バスティアンは、
指の間に挟んでいた葉巻を
再び口に咥えたまま、
しっかり密封された封筒を開けました。
そして、ようやく明るくなり始めた
朝の光の中で手紙を開きました。
あなたは自分が勝ったと
思っているでしょう?
しかし、バスティアン、
本当にそうでしょうか?
テオドラの遺書は、
流麗な筆跡で綴られた
嘲笑的な質問から始まりました。
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マリアは
クラウヴィッツ家の栄枯盛衰を
客観的に眺めて来た人。
ジェフとテオドラが、
バスティアンの母親の命を
奪った事実まで、
知っているかどうかは分かりませんが
テオドラがジェフを愛し、
彼を自分のものにするという
欲さえ出さなければ
クラウヴィッツ家は
バスティアンという優秀な跡継ぎを得て
今頃、栄華を極めていたと思います。
マリアの考えている愚かな愛とは
一つの家門を破滅させるまでに至った
テオドラの愛のことを、
指しているのではないかという
気がしました。
そして、
バスティアンがオデットのことを
本気で愛しているのではないかと
気づいているマリアは、
今までのバスティアンを見て来て、
彼の愛も愚かだと思ってはいるけれど
オデットを失う前のバスティアンと
今のバスティアンを比べてみて、
彼には、その愚かな愛が
必要だったのではないかと
考えるようになったのではないかと
思いました。
それにしても、遺書は残さず
バスティアンには手紙を送る
テオドラ。
彼への恨みというか、
ソフィアへの恨みは
相当根深いものがありそうです。
でも、テオドラさえ
おとなしくジェフを諦めていれば
今頃、どこかの貴族の奥方に収まり
平穏な日々を送っていたと思います。
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