
112話 ローラはバースへ行くことになりました。
翌日の午前、ローラの荷物が
馬車に積み込まれました。
ダンビルパークの家族全員が
邸宅の前まで出て来て
ローラを見送りました。
彼女は泣き過ぎて、
顔がパンパンに腫れている兄弟たちに
順番にキスをし、
楽しく遊んで来るようにと言って
ニコニコ笑っているオリビアを
ギュッと抱き締めました。
そして主人夫妻に
丁重にお辞儀をしてから
馬車に乗り込みました。
馬車が出発すると、
ローラは窓の外に顔を出しました。
フェアファクス家の家族たちが
去って行く馬車に向かって
手を振っていました。
ローラもまた、
彼らが見えなくなるまで
手を振り返しました。
ローラの胸に、
締め付けられるような悲しみが
込み上げて来ました。
彼女は、ダンビルパークの家族が
いつの間にか、
実の家族のように安らげて、
愛おしい存在になっていたことを
実感しました。
しかし、邸宅が見えなくなり、
ダンビルパークを囲む森からも
遠ざかると、ローラは
次第に心が安らぐのを
感じることができました。
大切な人たちと
別れなければなりませんでしたが
彼女は最も大きな恐怖からも
遠ざかっていました。
しばらくダルトン氏と
会わずに済むかと思うと、ローラは
安堵のあまり体を震わせました。
馬車での口づけの後、ローラにとって
ダルトン氏と再び会うことは
死に次ぐ恐怖となってしまいました。
彼が自分にしがみつき、
涙でドレスを濡らしていたその瞬間
ローラの感情を閉じていた壊れた蓋が
蝶番ごと、
完全に外れてしまったのでした。
蓋が消えると、胸の中から
数多くの感情が溢れ出しました。
愛。愛だけが与えることのできる
切実な渇望と欲望。愛おしさと甘美。
まるで、
永遠に眠らなければならない
呪いにかかった姫が
騎士の口づけで目覚めるという
物語のように、
ローラの中に眠っていた
生き生きとした歓喜が目覚め、
彼女の心と体を支配しました。
彼が自分を騙したことも、
プロポーズの承諾を得るために
無謀に振舞ったことも、もう、
どうでもよくなってしまいました。
彼に自分を丸ごと捧げたいと
思いました。
永遠に彼のものになりたいと
思いました。
彼に愛を与え、彼の子供を産み、
命までも全て捧げたいと思いました。
このような感情は
ローラの人生で初めてでした。
もし彼に再び会ったら、
自分は何の抵抗もできないだろう。
プロポーズに「いいえ」と
断ることもできず、
彼が再び無理矢理、指輪をはめても
外すことはできないだろう。
あえて自分の命を絶つと脅さなくても
たった一度、お願いされれば、
彼の思い通りに
ウェディングドレスを着て
牧師の前で彼の妻になると
誓うことになるだろう。
自分は彼を幸せにできないのに。
彼の妻になれば、
自分は幸せになるだろう。
彼の愛を受け、
彼の美しい家を共に育て、
彼と人生を共有する。
奇跡のようなことでした。
しかし、自分を手に入れたところで
彼が損をするのは
目に見えていました。
彼の子供たちも、自分のせいで
後ろ指を指されるだろう。
彼が経験しなければならない
屈辱や不快感を相殺する何かを
自分が持っていたなら、
少しは勇気を出せたかもしれない。
莫大な財産や、
公爵令嬢のような身分といった
現実で通用する何かを。
しかし、自分が持っているのは、
ただのみすぼらしい体だけでした。
結局、彼は、自分との結婚を
後悔することになるだろう。
彼も人間なので、
どんなに自分を愛していても
情熱が冷めて不快感が続くのに、
手に入れた利益が少なければ
結局、後悔するだろう。
結婚前に、
時間を戻したくなるだろう。
愛は夢だけれど、結婚は現実。
ロンドンで何百組ものカップルを
見て来た、ローラの結論でした。
今ほど、
誇れるもののない自分の境遇が
憎かったことはありませんでした。
憂鬱になったローラは首を振り、
背筋を伸ばしました。
そして窓の外を見つめました。
岩と乾いた草の間で羊たちが草を食む
緩やかな丘を、
ちょうど通り過ぎていました。
2時間後には駅に到着する予定でした。
バースへ行けば
忙しく過ごせるだろう。
常に、しっかりと食事をし、
本もたくさん読み、
頻繁に散歩をするつもりでした。
去る者は日日に疎しと、
フェアファクス夫人は言いました。
ローラは、その言葉が
自分にも当てはまることを
願っていました。
ローラは、ため息をつきながら
時間を確認するために
持っていた懐中時計に
目を向けようとしました。
ところが、ちょうど窓から
視線をそらそうとした瞬間、
丘の向こうから細身の黒馬が引く
四輪馬車が目に入りました。
ローラは手で口を覆いました。
遠い距離でしたが、
ローラは馬車に描かれた
ホワイトフィールドの
家門の紋章を見ました。
ローラは不安で胸が高鳴る中、
遠ざかる馬車を見つめていました。
窓の向こうに、
窓枠に肘をついて顎を乗せている
彼が見えました。
馬車はダンビルパークへ
向かっているようでした。
訪問の理由は明らか。
再び、プロポーズするためだと
思いました。
ローラが乗った馬車を
彼に見られなかったのは
非情に幸いでした。
彼がいなくなると、
ローラは安堵のため息をつきました。
心が安らぎを感じました。
いいえ、そうなったと
信じ込みました。
心臓がドキドキし、
唇には、彼との口づけの感覚が
再び蘇っているのに、
ローラはそう信じたかったのでした。
駅に到着して、
バース行きの列車に乗る間も
それが続きました。
食堂車でラム肉を二皿も食べ、
雑念を忘れるために
他の乗客と無理に話をしながらも、
顔が妙に赤くなりました。
彼女は、まるで自分の前に
ダルトン氏がいるかのように
感じました。
彼女の腰を抱きしめ、顔を引き寄せて
口づけをしているように見えました。
彼を忘れようと努力しましたが、
何の効果もありませんでした。
すでにローラの心は、丸ごと
彼のものになってしまいました。

馬車がダンビルパーク邸の前に
停まりました。
椅子に座っていたダルトン氏は
ネクタイを整えました。
濃い緑色のスーツを着て
きれいに髭を剃った彼の顔は、
ここ数日の疲れが微塵もなく、
キラキラと輝いていました。
愛する女性から、
初めての口づけを授かり、
その心まで確かめた男性に
相応しい顔色でした。
きれいに梳かした髪を
改めて整えながら、
最近、何度も繰り返していた言葉を
心の中で呟いてみました。
ローラは自分を愛している。
快感が全身を駆け抜けました。
心臓が熱くなり、ひどく空腹の後に
温かい食事をしたかのように、
お腹が満たされました。
御者が扉を開けて
足置きを下ろしてくれました。
彼は鼻歌を歌いながら、
そばに置いてあった
非常に大きな花束と
朝顔の模様が浮き彫りされた
バラの木の箱を手に取りました。
前日、客が皆帰った後、
彼は温室に咲いている花を摘んで
この大きな花束を作りました。
愛の力のおかげか、花を扱う技術を
特に習ったことはないのに、
花束は、
とても調和のとれた美しさを
誇っていました。
木箱の中には、
ホワイトフィールドの
全ての部屋を開ける鍵の束が
入っていました。
執事のラムズウィックと
自分だけが持っているもので、
ダルトン氏自身のものを
ローラに渡すために持って来ました。
もちろん、
突き返されたダイヤモンドの指輪も
忘れることなく、彼の服の胸ポケットに
大切に収められていました。
イアンは、
愛する女性に捧げる贈り物を
両手に持ち、馬車から降りました。
そして微笑みを浮かべながら、
早足で邸宅の中へ歩いて行きました。
彼は、まず姉を探すために
リビングに入りました。
しかし、そこには、
外でしばらく遊んでいるはずの
ダニエルとジョージが、
顔をパンパンに腫らして、
ソファーにぐったりと
横たわっていました。
何をしているのかと尋ねると、
甥たちは、突然の叔父の登場に、
ぱっと起き上がり、
背筋を伸ばして座りました。
イアンは、子どもたちが
泣きそうになっていることに
気づきました。
イアンは、
母親がおやつをくれないのかと
尋ねました。
彼らは首を振りました。
イアンが「それでは?」と尋ねると
ジョージが突然、
エーンと泣き始めました。
ダニエルは唇を強く噛みしめ、
かろうじて涙を堪えていましたが、
目から涙が、
ぽたぽたとこぼれ落ちました。
普通なら、
ここまで泣くような子たちでは
ありませんでした。
イアンは、
もしかすると甥たちが、ひどい病気に
罹っているのではないかと
不安になりました。
イアンはダニエルに
どうしたのかと尋ねました。
怖い叔父さんが、顔を顰めて尋ねると
ダニエルは、泣き声を堪えるために
固く閉じていた口を開いて、
「・・うっ・・ひくっ・・先生が・・」
と答えました。
「先生?」と聞き返した彼の顔が
すぐに歪みました。
イアンは、
はっきり言え。先生がどうしたのかと
尋ねました。
ダニエルは泣きじゃくって
言葉が続きませんでした。
彼は、すぐにダニエルのもとへ駆け寄り
肩を掴んで揺さぶりながら、
「言え!どうしたんだ?
彼女は具合が悪いのか?
怪我をしたのか?」と問い詰めました。
ダニエルは、
行ってしまった。自分たちを置いて
行ってしまったと答えると、
我慢できなくなって、
ジョージよりも大きな声で
ワーワー泣き出しました。
彼は、
持っていた花束と木箱も放り投げて
リビングを飛び出しました。
階段を四段飛ばしで駆け上がって
二階に辿り着いた彼は、
すぐに姉の部屋へ駆け込みました。
姉はロッキングチェアに座って
暖炉の火に当たっていました。
彼女は、
突然、飛び込んで来た弟を見ても、
いつ来るのかと思っていたと
ただ冷たく接するだけでした。
イアンは、
ローラが去ったって
本当なのかと尋ねました。
フェアファクス夫人は
「はい」と答えました。
彼は慌てて姉を見ると、
なぜ止めなかったのか。いや、
そもそも彼女が去ろうとした時に
自分に知らせるべきだったと
責めました。
フェアファクス夫人は
知らせたところで、どうするのか。
本物のピストルを持って来て
こめかみに当てて、
本格的に命を断とうとする
狂言でもするつもりなのか。
そんな真似をして、
女性が去らずにいてくれるとでも
思っているのか。
この情けない奴と罵倒しました。
イアンは、
いいえ。彼女が去ったはずがない。
彼女は自分を・・・
愛しているのに・・・と、
姉の言葉を否定しました。
フェアファクス夫人は
それは、またどういうことかと
尋ねました。
イアンは、
彼女は自分を愛している。
ホワイトフィールドから
ダンビルパークへ向かう馬車の中で
気持ちを確かめた。
自分のキスを受け入れてくれたと
答えました。
フェアファックス夫人は
疑わしそうに弟を見つめながら
あなたが脅して
仕方なく応じたのではないかと
反論しました。
イアンは、
彼女が自分の頭を撫でてくれた。
自分の泣いている姿を見て、
自分も苦しいと言ってくれたと
主張しました。
フェアファクス夫人は
ああ、それは少し信じられるかな?
と答えました。
イアンは、
正気を失う一歩手前でした。
お互いの気持ちを確認しておいて
去ってしまうなんて。
これから、
一緒に幸せに暮らす日々だけが
残っているのに、なぜなのか?
彼はロッキングチェアの方へ
つかつか歩いて行くと、
キツネの毛のショールに包まれた
姉の肩を掴んで、
ローラはどこへ行ったのかと
尋ねました。
フェアファクス夫人は
知ってどうするのかと
尋ねました。
イアンは、連れ戻すと答えました。
フェアファクス夫人は眉を顰めながら
無理やり連れて来るつもりなのかと
尋ねました。
イアンは、
頼み込んで、懇願してでも
説得しなければならないと
答えました。
フェアファクス夫人は
それで、うまくいかなければ
また自ら命を絶つと脅すのかと
尋ねました。
イアンは、
そんなことは二度としないと
答えましたが、フェアファクス夫人は
やらないと言っても教えられないと
告げました。
イアンは、その理由を尋ねました。
フェアファクス夫人は
イアンの胸倉を掴むと、
あなたが、世界で一番良い女性に
何度も傷を与えているからだ。
この愚か者と答えました。
彼女はイアンの胸倉を揺すりました。
きちんと整えていたネクタイが
グチャグチャになり、
シャツのボタンが取れてしまいました。
フェアファクス夫人は、
あなたの無謀な求愛のせいで
シェルダン先生は涙を何杯も流し、
胸を焦がしながら逃げ出した。
自分は、
あなたに結婚しろと言ったけれど
可哀想な女性を苦しめろと
言った覚えはないと責めました。
イアンは姉の手を押し退けると、
なぜ、彼女が苦しんでいるのかと
尋ねました。
フェアファクス夫人は、
家庭教師である彼女が、
あなたの心を掴んだから。
彼女があなたを好きなら、
自分の気持ちに対しても、
かなりの罪悪感を抱いてるはずだと
答えました。

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すぐに彼と一緒に
ウェディングベルを鳴らしたいくらい
イアンのことが好きなのに、
彼と結婚することよりも
自分と結婚することで、
イアンと彼との間に生まれる子供たちが
自分の出自のことで
悪く言われるのを避けたい気持ちの方が
優先してしまうのは、
伯父に虐待されたことや
陰口を叩かれたことが、
かなりのトラウマになっているのだと
思います。
この気持ちを覆すには、
雷に打たれるくらいの
衝撃的な出来事でも起こらないと、
無理なのかもしれません。
せっかく、おめかしして来たのに
姉のせいで、無惨な姿になったイアン。
可哀想だけれど、
その姿を想像すると笑ってしまいます。
(すみません)
口づけ一つで、家の鍵まで持参して
プロポーズをしに来るなんて、
考えが甘い!
姉の厳しいけれど愛ある説教を
しっかり心に留めて、
今後、ローラにどう接するか、
よく考えて欲しいです。