
117話 ローラは自分自身のことを振り返っています。
ローティス嬢と自分は似ていました。
結婚もせず、女性として例外的に
高い教育を受けていました。
しかし、これまでの人生は
全く異なっていました。
もしローラが18歳で
20万ポンドを相続したとしても、
彼女は決して船に乗って
アフリカへ行くことなど
考えなかっただろう。
航海。冒険。挑戦。
自分の本性は、そのようなものとは
かけ離れていました。
ローラは自由を求めていましたが、
それは、
尊重されながら生きていける環境を
見つけたいという欲求の別の表現に
過ぎませんでした。
家庭教師をしながら
確かにそれに気づきました。
自分が望んでいたのは、
静かな場所で
価値のある仕事をすることでした。
持っている能力を正しい場所に使い
そのお返しとして
適切な尊敬と愛情を得ること。
もし自分が
20万ポンドを相続していたら、
静かな田舎の村に
学校を建てていただろう。
そこで子どもたちと運動をし、
本を読み、歌を歌いながら
過ごしていただろう。
そして、その人生に
少しの不満もなかっただろう。
メアリー・ローティス嬢が炎なら、
自分は水、しかも静かな谷を流れる
細い小川でした。
そしてローラは、
そのような自分が悪くないと
感じていました。
年を取ることは良いことだ。
自分を受け入れ安くなるから。
それだけ、心も安らぐ。
ローラは、一筋の小川のように
悠々と、バースの人混みの中を
流れて行きました。
そして、すぐに、この複雑な街で
彼女の魂に平和と安定をもたらす
場所を見つけ出しました。
書店でした。
ローラは、
すぐにそこに入りました。
入った瞬間、鼻の中に紙の匂いが
フーッと漂ってきました。
彼女は本棚の間を
ゆっくりと歩きました。
すぐに気分が良くなりました。
それと同時に
ローティス嬢が持っていた情熱に
劣らない学問への熱意が
湧き上がりました。
彼女は、外国語の原書が置かれた
コーナーへ行き、
プラトン全集の中から
1冊のギリシャ語原書を選びました。
そしてドイツ語原書コーナーで
哲学者ニーチェの本を
1冊取り出しました。
本を抱えたローラの心臓は
ドキドキしました。
早く泊まっているホテルの部屋に戻り
素敵なローズウッドの机に座って、
一文一文を隅々まで
味わいたいと思いました。
彼女は低く鼻歌を口ずさみながら
レジに向かいました。
ところが、
プラトン全集に積もった埃を見た店員が
きれいな本に交換すると言って、
倉庫へ行ってしまいました。
ローラは、
はたして、この書店の主人が、
歓楽の街バースで
プラトンの原書を積み上げて
商売をする無謀な商人なのかと
気になりながら店員を待ちました。
店員は困惑の色を隠せない様子で
戻って来ました。
在庫がないということでした。
やはり、そうでした。
バースまで来て、一体、誰が
プラトンを読むのだろうか。
ローラは、自分が
この書店の厄介な在庫の一つを
処理することになったと思いながら
一度拭いてから包装してくださいと
店員に頼みました。
店員は手際よく本を拭き始めました。
ローラは時間を潰すために、
通りに面した
全面ガラス張りの窓際へ
歩いて行きました。
そこには新聞や雑誌、
バースのレストランを紹介する
ガイドブックが積まれていました。
彼女は雑誌を数冊手に取り、
さっと、めくってみましたが、
すぐに興味を失って置きました。
彼女は街の風景に視線を移しました。
ベビーカーを押しながら歩く
華やかな装いの貴族の奥様。
杖をついてよろよろと歩く老紳士と、
その恋人と思われる、
着飾って華やかな若い女性。
高いお金を払って整えたような
洗練された髪型で
威張りながら歩く紳士。
中途半端に貴族たちの流行を真似た
装いをして、笑いながら歩く
新興ジェントリ出身の女性たち。
ローラは通行人たちの華やかな様子を
退屈そうな目で見つめていました。
しかし、その瞬間、
無関心だったローラの眼差しが
変わりました。
1人の男性が、書店の前を
通り過ぎていました。
急がず、
ゆったりとした足取りだったので、
彼の横顔がよく見えました。
帽子の下に垂れた赤い縮れた髪。
淡褐色の肌と、すらりとしていても、
身のこなしに品のある体つき。
「ああ・・・!」
ローラはカウンターの方へ
さっと体を向けました。
もしかしたら、あの人も
自分に気づくかもしれないと
思ったからでした。
「お客様、何か問題でも・・・?」
と、店員がローラを見つめながら
心配そうな声で尋ねました。
ローラは首を振りました。
彼女は体を回して、ゆっくりと
ドアの方へ歩いて行きました。
彼に会いたくない気持ちが、突然
彼の正体を確かめたい気持ちに
変わりました。
おそらく、どちらも
恐怖から生じた感情のようでした。
彼女は店のドアを開けて、
男性が向かった方向を見ました。
しかし彼は、
人混みの中に消えてしまいました。
ローラは、よろめき、
そのまま膝から崩れ落ちました。
店員が店の外に出て
ローラを支えました。
顔が真っ白になっているローラを
店員が心配してくれましたが
ローラは何も聞こえませんでした。
彼女は男性が消えた方向を
じっと見つめながら、心の中で、
「ジョン、なぜあなたが
ここにいるの?」と尋ねました。

書店の窓ガラス越しに
ジョン・アシュトンを見た直後、
ローラは大混乱に陥りました。
12年ぶりでした。
かつて愛し、思いやり、
未来を託した人。
月明かりが流れる密やかなテラスで、
何時間もお互いの手を撫で合い、
口づけを交わした人。
その人が、
自分と同じ都市に滞在している。
ローラは、
ぞっとして鳥肌が立ちました。
バースは
大きな都市ではありませんでした。
彼に出会う可能性は十分ありました。
そうなったら・・・
想像するだけで恐ろしくなりました。
ローラはその日の夜、
すぐに荷物をまとめて、
ホテルを離れている2人の女性を
待ちました。
別れの挨拶もせずに去るわけには
いかなかったからでした。
しかし、女性たちは真夜中まで戻らず
ローラは、
ソファーでうとうとしているうちに
そのまま、
ぐっすり眠ってしまいました。
目を開けると朝でした。
彼女の体の上に
厚手の毛布がかけられていました。
ソファーの前のテーブルに
メモが置かれていました。
筆跡からして、
ハイド嬢が書いたものでした。
夜遊びが長引いて、夜明けに
ようやく帰って来ました。
私たちのことを、
とても心配されましたか?
ごめんなさい。
今後、遅くなる時は、
あらかじめ、お知らせします。
朝食は、ペンドルトン嬢のための
ルームサービスを
予約しておきました。
私たちは、正午まで
寝なければならないようです。
お食事、楽しんでください。
すぐに部屋に
ルームサービスが届きました。
スクランブルエッグと
表面をカリッと焼いた鶏肉、
熱々のスコーン、紅茶、
フルーツサラダでした。
ローラは、
食べ物をぼんやり見つめた後、
一緒に届いた紅茶だけを注いで
飲みました。
温かいお茶が体に入ると、
ローラは少し正気に戻りました。
一晩が過ぎ、
お茶の助けを受けて頭がすっきりすると
ローラは
普段の冷静さを取り戻しました。
すると自然に、
このような考えが浮かびました。
はたして、あの人は
ジョン・アシュトンだったのだろうか。
彼女は、
彼の肖像画も写真も持っておらず
記憶の中に、大まかな印象だけが
残っているだけでした。
12年間、毎日、彼の肖像を見つめて
恋しがっていたなら、
一目でわかるだろう。
しかし、自分は彼のことを
ごくたまに思い出しただけ。
時々、気になり、
時々、恨みを抱きながら。
そんな自分が、一目で彼を
見分けられたというのか。
ローラは首を振りました。
そんなはずはない。
彼と印象が似ている紳士を見て
勘違いした可能性が
はるかに高いと思いました。
ローラの気分はずっと良くなり、
すると使用人が置いていった
他の食べ物が目に入りました。
彼女は落ち着いて食事を始めました。
食事が終わりました。
食べ物でお腹を満たすと
元気が出ました。
すると昨日の混乱した気持ちが
馬鹿げているように感じられました。
たとえ彼が
ジョン・アシュトンであっても、
自分がバースを離れる理由はない。
裏切ったのは、あの人。
もし彼と出会えたら、
むしろチャンスだ。
なぜ自分を裏切ったのか
尋ねることができるだろうから。
ローラは、
このように良いホテルで
久しぶりに会った大切な友人と
自分に好意的な学校の先輩と
一緒に過ごす機会を、
たまたま偶然出会った昔の恋人
(しかも本当に本人かも分からない)
のために諦めるのは
愚かだという結論に至りました。
彼女は2人の女性が目を覚ます前に
荷物を再び解きました。
ローティス嬢は正午を過ぎて
2時頃に起きました。
ローラは、リビングのソファーで
お茶を飲みながら、昨日買った
「ツァラトゥストラはかく語りき」の
ドイツ語の原書を読んでいました。
ローティスさんは
ローラに軽く目で挨拶をすると
呼び鈴を鳴らしました。
使用人が来ると、彼女は
トーストとコーヒーを持ってくるよう
指示しました。
ローラは、ローティス嬢が
朝食の時に、
いつもコーヒーを飲んでいると
指摘すると、彼女は軽く笑って
元コーヒー農家だからと答えました。
すぐにルームサービスが届きました。
ロティス嬢は新聞を読みながら、
何も塗っていないトーストの半分を食べ
コーヒーを飲みました。
そしてローラに了解を得て、
葉巻を吸い始めました。
ローラはその間ずっと
本を読み続けていました。
ローティス嬢に、
ドイツ語の実力が素晴らしいですねと
言われて、ローラは顔を上げました。
ローティス嬢は
指の間に葉巻を挟みながら、
ローラが読んでいる本の表紙を
見ていました。
猫のような眼差しの中に収まっている
黒い瞳が、まるで黒曜石のように
黒く輝いていました。
ローラは、
言語の勉強が好きな方だし、
学校で一生懸命学んだことを忘れると
もったいないと思うからと答えました。
ローティス嬢は、
自分はほとんど忘れてしまった。
ドイツ語だけでなく、
フランス語やピアノ、
ワルツのステップも。
グラント女学校の高い学費が
無駄になってしまったわけだと話すと
葉巻を吸い込みました。
彼女の唇の間から煙が漏れました。
ローラはその様子を
ぼんやりと見つめました。
黒髪を下ろして
喫煙するローティス嬢は魅力的でした。
ローラは、
でもグラント校長先生は自分よりも
ローティス嬢の方を
もっと誇りに思うだろう。
イギリスで名を馳せる
ベストセラー作家になったからと
話しました。
ローティス嬢は少し口元を上げて、
そうです。グラント校長は
女性たちが世の中に出て行くことを
望んでいたと返事をしました。
ローラは、グラント校長が、
常に野心とビジョンを抱くよう
励ましてくれた。
尊敬すべき人だったと言いました。
ローティス嬢は、
肩に長く垂れた髪を後ろにかき上げると
家庭教師の仕事には満足しているかと
話題を変えました。
ローラは、
はい。運良く素晴らしい職場を得たと
答えました。
ローティス嬢は、
素晴らしい職場だなんて、
もしかして、無視や冷遇に
慣れてしまっているのかと
尋ねました。
ローラは、それを否定し
本当に良い職場だ。
給料も待遇も教育指導者と
同じレベルだと答えました。
ローティス嬢は初めて動揺しました。
彼女は、
本当に運が良かった。
イギリスの家庭のどこにも
女性の家庭教師を
そのように扱う所はないと
言いました。
ローラは曖昧に笑いました。
彼女が得た
その「素晴らしい職場」とは
自分を慕っている男性が
無理やり作り出した
非現実的な条件でした。
ローラは、
そうです。世界のどこにも
このような良い条件はないだろう。
今働いている家で、
自分を必要としなくなったら、
自分は他の家庭教師たちのように
50ポンドで人生を
抵当にいれなければならないと
返事をしました。
ローティス嬢は、
現実を知っていて良かった。
最初の職場を運良く見つけたことで
家庭教師の仕事に対して
楽観視しているのかと思ったと
告げると、葉巻の先に付いた灰を
灰皿でトントンと払い落しました。
ローティス嬢は、
家庭教師として職業市場に出た女性は、
自分が学んだ学問を
安値で売らなければならない。
自分は家庭教師をするくらいなら
強盗になるだろうと言いました。
ローラは
少し困った気持ちになりました。
ローティス嬢の言葉は
現実的ではあるけれど
家庭教師を職業にしている人の前で
言うには無礼な話でした。
しかし、ローティス嬢が、
わざと自分の気分を
害そうとしているようには
見えませんでした。
ローラは彼女の真意が気になりました。
ローティス嬢はローラに、
もし、今の所で、
これ以上働けなくなっても、
引き続き家庭教師を続けるかと
尋ねました。
ローラは、
はい。雇用主が、
今と同じ待遇を受けられる場所を
紹介してくれるそうだと答えました。
ローティス嬢は、
その言葉を本当に信頼しているのかと
尋ねました。

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ローラは出自のことで
あれこれ言われ続けましたが、
貴族のお嬢さん育ちであることは
変わりありません。
だから、ある程度、
現実を知ってはいるものの、
まだ、女性が1人で
生きて行くことについて
考えが甘いところがあるように
思います。
すでに人生の幾多の荒波を
乗り越えて来たローティス嬢は
そんなローラに真摯な気持ちで
現実を見させてくれていると
思います。