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173話 水曜日までバスティアンはオデットの家に滞在することになりました。
「これは新しく入った生地で
作ったものだけれど、
どうでしょうか」と説明しながら、
店主が新しい布団を出して来ました。
狭い店は、いつの間にか
様々な色の布団で
いっぱいになっていました。
オデットは真剣な態度で
布団を検討していきました。
生地の名前や色、羽の種類まで。
細かく確認する様子は
まるで鑑定士のようでした。
バスティアンは一歩離れた場所から
状況を見守りました。
全く理解しがたい会話でした。
どうせ、
どれも似たような物なので、
適当に選べばいいと思いましたが
オデットは、
その気がなさそうでした。
どうやら、すでに決定権は、
オデットのものに
なっているようなので、
バスティアンは、ただ指揮官の命令に
従うことにしました。
羽毛布団を2組選んだオデットは、
ようやく顔を上げて
バスティアンを見つめながら
この2つが一番良いと思うけれど、
どうだろうかと、
バスティアンの意見を聞きました。
彼は陳列台の前に近づき、
オデットが指差した布団を
確認しました。
白の無地と小花柄。
悩むまでもないような候補の品でした。
バスティアンは眉を顰めて
小花柄の布団を指差しながら、
本気なのかと尋ねました。
オデットは、
触り心地がとても良い。
触ってみてと答えると
ニッコリ笑って、小花柄の布団を
持ち上げて見せました。
招かれざる客を困らせる秘策を
見つけたようでした。
バスティアンは、
それなら、これにしようと
素直に指揮官が勧めた布団を
選びました。
はっと驚いたオデットが
躊躇っている間に、
笑顔の店主が近づいて来て、
お目が高い。この生地の方が、
ずっと高級感がある。
ただ、これでは
サイズが小さいはずだと言いました。
オデットは、
これで十分だと返事をしましたが、
店主は、
ご主人がこんなに大きいのに、
これでは無理だと、
断固として首を振ると、
少しだけ待って欲しい。
同じ生地で作った大きな布団が
倉庫にあるので持って来ると言って
背を向けました。
頬を赤らめたオデットが
「従兄です!従兄が訪ねて来て、
客用布団を買おうとしている」と
慌てて叫びました。
「そうなんですか?」と
店主は、キョトンとした顔で
2人をジロジロ見つめました。
首を傾げていた店主は、
バスティアンの指にだけ
はめられている結婚指輪を
確認してから、
ようやく疑いを解きました。
店主は、
まるで同じ布団を使っている
仲のように見えたのに、
自分も、もう年を取ったようだ。
感覚が鈍ったと冗談を言いながら
布団を包みました。
バスティアンは、
慌てた様子を隠せない
オデットの代わりに料金を払い、
小花柄の布団を受け取りました。
逃げるように去るオデットの背後で
ひらひらと舞う水色のリボンが
フッと柔らかな笑みを誘いました。
店の前で待っていたオデットが
なぜ、それを選んだのかと
非難めいた質問を投げかけました。
肌触りが良いからだと、
涼しい顔で返事をするバスティアンを
見上げていたオデットの唇の間から
ため息が漏れました。
彼女は、
あなたは触ってみてもいないのにと
抗議すると、バスティアンは
従妹の優れた眼識を信じて
従うことにしたと返事をしました。
オデットは、
いつから自分の意見を
そんなに尊重するようになったのかと
非難するように尋ねると、
バスティアンは、
今日からと言っておこうと
有無を言わせぬ返事をした後、
平然と
先頭に立って歩き始めました。
オデットは呆れたような目で
その後ろ姿を見つめました。
どこにいても一瞬で
目を引く男でした。
そこに花柄の布団まで添えられると
皆の注目が
バスティアンに集中しました。
慌てて追いかけたオデットは、
「もう帰りましょう」と
この窮地から抜け出す
最善の策を示しました。
しかし、残念ながらバスティアンは
まだ用事が残っていると返事をし
応じる気配がありませんでした。
オデットは、
一体、何の用なのかと尋ねましたが
バスティアンは、
「まあ、色々と」と
とんでもない返事を残すと、
道の向かい側にあるレストランへ
向かいました。
オデットは、
その場にぼんやりと立ち止まり、
一晩で全く別人になったかのような
バスティアンを見つめました。
テラスに席を取った彼は、呆れるほど
図々しい笑みを浮かべながら
「こちらへどうぞ、
マリー・ベラーさん!」と叫んで
手招きをしました。
世界中に聞こえるかのように叫んだ
男のおかげで、オデットもまた
熱い注目の的となりました。
オデットは引きつった口角を上げて
歩き始めました。
あの男はカール・ロビス。
むしろ、そう信じる方が
妥当だろうと思いました。

噴水のある小さな広場を過ぎると、
雑貨を売る露店が並ぶ路地が
現れました。
オデットは、
キャンディー店に入った
子供のような顔で、
見物に出かけました。
雑多なものを物色する眼差しが
かなり熱心でした。
邸宅を埋め尽くさんばかりの
金銀財宝の前でも冷静だった女だとは
信じ難い様子でした。
バスティアンは、
適度な距離を保ちながら
オデットの後を追いました。
繊細に細工された小さな花瓶と
真鍮のティースプーンを買った
オデットは、今、角砂糖用のトングを
選んでいるところでした。
一体どんな違いがあるのかと思ったら
装飾が少しずつ違っていました。
貝殻の形と花の形を前に
しばらく悩んだ末、オデットは
結局、貝殻を選びました。
午後遅くまで市場に滞在しましたが、
バスティアンが覚えているのは
オデットだけでした。
意外にも、
かなり少女的な趣味を持つオデット。
交渉が上手なオデット。
リンゴ1個も心を込めて選ぶオデット。
まもなく永遠に失ってしまう
美しい自分のオデット。
遠過ぎず、近過ぎない距離を保ちながら
続いた市場見物は、
もはや、物を持つ手がなくなったため
終わりました。
最後に立ち寄った店で
オデットが買ってきた物を見た
バスティアンは、思わず
声を出して笑ってしまいました。
害虫完全駆除。
オデットは、
強烈な謳い文句が書かれた殺虫剤の瓶を
女王の笏のように抱えていました。
バラの木に虫が付いたからと
オデットは、
何事もなかったかのように
落ち着いた顔をしていました。
バスティアンは、
それを自分に渡すようにと言って
手を差し出しましたが、
オデットは断固として首を振り、
すでにバスティアンが、
多くの荷物を抱えているからと
拒否しました。
妥協の余地はないと語る
頑固な目つきでした。
バスティアンは強要することなく
引き下がりました。
必要以上の助けを
望まない女だということを、
今になって
分かったような気がしました。
それが単に、
見栄っ張りなプライドのためだけでは
ないことも。
2人は、それぞれの荷物を持って
市場を後にしました。
オデットが住む村へ流れる小川は、
金色に染まった午後の陽の光の中で
輝いていました。
バスティアンとオデットは
川沿いを並んで歩いて行きました。
そよ風に揺れる柳の枝の影が、
それぞれの思いに沈む
2人の顔の上に落ちました。
トリエ伯爵夫人は
薄情な人ではないはずだ。
わざわざ古くて狭い家に住みながら
家庭教師の仕事をする必要は
ないのではないかという意味だと
バスティアンが先に
沈黙の壁を破りました。
オデットは、
自分は今がいいと答えました。
彼女の顔に、
さざ波のような笑みが広がりました。
バスティアンは、
その理由を尋ねました。
オデットは、
世の中に、タダのものはないから。
もちろん、
年金を首輪にして縛り付けていた
皇帝のような冷酷な人ではないことを
承知しているけれど、
それでも過分な借金を負いたくないと
答えました。
バスティアンは、
皇室と絶縁する決心をしたのも
そのためなのかと尋ねました。
オデットは、
おそらく、そう。
実を言えば、
絶縁という言葉さえ滑稽だ。
自分は一瞬たりとも、皇族として
生きたことがないのだから。
不思議なことに、権利はないのに、
義務は強要された。
それでも皇室から与えられる
年金の代償だと思って
受け入れて来たけれど、
これ以上は、もう嫌。
これくらい尽くせば、
母親の王冠を奪った子供という原罪も
すべて償えたような気がすると
答えました。
バスティアンは、
もし正当な権利が与えられたら?
と尋ねました。
オデットは、
虚しい仮定には何の力もない。
自分は母のようには生きないと
答えることで。
明確に線を引きました。
バスティアンは沈黙することで
その意志を尊重しました。
遠くにオデットの家が見え始めた時
彼女は、
身分と血統というものは、
本当に滑稽ですよね?と
思いがけない質問が聞こえて来ました。
バスティアンは目を細めて
オデットを見つめました。
彼女は、
実はあなたは自分より
ずっと貴族的な人だ。
誰よりも貴族的な教育を受け、
誰よりも貴族的な生活を営み、
それゆえ誰よりも
貴族的な資質を持つあなたが
卑しいと軽蔑され、
日雇い労働で生計を立て、
メイドのように生きて来た自分を
高貴だと持ち上げる。
たかが体内を流れる血一つのためにと
長い間、心の奥に秘めていた本心を
淡々と伝えました。
バスティアンは、
皇帝の孫娘ともあろう人が
革命家のようなことを言っていると
揶揄しました。
オデットは、
ただ先代の血統が、自分たちの現在を
決めるわけではないと
言っているだけだと返事をしました。
殺虫剤の瓶を抱えたオデットは、
顔を上げて
近づいた家を見つめました。
そして、
だから自分は今になって
ようやく自分に相応しい場所を
見つけたのかもしれないと
トリエ伯爵夫人とジェンダス伯爵には
とても言えなかった言葉を
バスティアンの前で、
自然に漏らしました。
おそらく彼なら、このような気持ちを
理解できるだろうという
信頼からだったようでした。
オデットはバスティアンに、
あなたは騙された。
皇帝が英雄に賜った高貴な淑女など
最初から存在しなかったのだと
謙虚に真実を告白しました。
そして、
今、あなたの目の前にいる
普通の女。これが自分だと、
最後の虚栄のベールを脱ぐと
心が一層軽くなりました。
夕暮れの影のように
長く伸びた悲しみは、
水の流れに乗せて送り出しました。
家に着いたオデットは
急いで台所へ向かいました。
市場で買った食料品を整理し、
殺虫剤は裏庭に置きました。
後ろからバスティアンの気配を
感じましたが、オデットは
振り返りませんでした。
彼女は、
夕食を準備するので、
あなたは客間を片づけるようにと
告げました。
エプロンを着けたオデットは
急いで手を洗い、
肉の下ごしらえを始めました。
かすかに赤くなった頬と首筋を
じっと見つめていたバスティアンは
特に何も言わずに
2階へ向かいました。
オデットの寝室に足を向けたのは
衝動的な選択でした。
荷物を下ろしたバスティアンは
静かな足取りで
化粧台の前に近づきました。
整然と並べられた化粧水と
クリームの瓶のそばに置かれた
金の櫛が、
夕日の光の中で輝いていました。
H。
オデットの足枷であり
誇りであったその頭文字を、
バスティアンは
しばらく静かに見つめました。

オデットは、
普段より早い時間に目が覚めました。
招かれざる客がもたらした余波でした。
再び眠ろうとする努力を諦めた
オデットは、
むしろ一日を早く始める道を
選びました。
身支度を終えて部屋を出るまで、
廊下の向かい側は
静寂に包まれていました。
バスティアンは
寝坊しているようでした。
彼は、礼儀正しい客のように
振る舞っていました。
素直に客用の部屋を使い、
オデットが定めた線を守りました。
これなら、数日間一緒に過ごしても
無理はなさそうでした。
オデットは、
そっと1階へ降りました。
まだ朝食を取るには早いようなので
花壇と家庭菜園の手入れから
始めることにしました。
朝の静けさを乱す力強い足音が
聞こえ始めたのは、
オデットがバラの木に
殺虫剤を撒き始めた瞬間でした。
何気なく塀の向こうに目を向けた
オデットは、
思わず失笑してしまいました。
運動着姿のバスティアンが
静かな田舎道の向こうから
走って来ていました。
オデットと目が合った彼は
躊躇うことなく塀を飛び越えて
裏庭に入りました。
オデットは、
一体、いつ起きたのかと尋ねると、
びしょ濡れの上着と、
あまりにも短いズボンの間を
彷徨っていた目を
ついにバスティアンの顔に向けました。
普段と同じ時間にと、
荒い息が混ざった返事をした
バスティアンは、
家庭菜園のそばにあるポンプで
水を汲んで顔を洗いました。
オデットが
再び殺虫剤を手に取ると同時に、
バスティアンが近づいて来て、
今日はピクニックへ行こうと
誘いました。
オデットは目を細めて
曇った空を見上げました。
彼女は、「こんな天気なのに?」
と尋ねましたが、
バスティアンは「準備する」と
勝手に約束を決めると、
振り返ることなく家の中に入りました。
オデットは深いため息をつきながら
園芸道具を片付けました。
礼儀正しい客という評価は、
やはり訂正したほうが良さそうでした。
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害虫駆除=バスティアン駆除
思わず連想してしまいました(笑)
殺虫剤を撒いている、
まさに、その時に
バスティアンが戻って来て、
彼に殺虫剤がかかるのではと
ひやひやしました。
招かれざる客のバスティアンは
好き勝手に振舞っているのですが
今までとは違って、2人の間に
緊張感が漂っていないような
気がします。
片手に布団を抱え、
もう一方の手には別の荷物を持った
バスティアンと
やはり両手に荷物を持ったオデットが
ゆっくりと田舎道を歩く姿は
雇用主と雇用者ではなく、
普通の夫婦のようで
胸がキュンとしました。
バスティアンは、
オデットの好みに今さら気づくなんて
遅過ぎますが、
彼は、過去と決別するまでは、
オデットを含めた、あらゆるものを
素直な目で見ようとすることが
できなかったのではないかと思います。
オデットは、
皇室からの年金に縛られていると同時に
皇女の娘という誇りにも
縛られていたのだと思います。
そのおかげで、
あらゆる困難に耐えることが
できたのでしょうけれど、
バスティアンの前でも、
皇女の娘としての誇りという盾を
下ろすことができないままだった。
けれども、
皇室と縁を切ると決めたことで、
ようやく、その盾を下ろすことができ
バスティアンに、自分の本心を
伝えることができたのではないかと
思います。
2人が良い関係を築きつつあるのに
戦争が2人を引き裂くのが辛いです。
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