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174話 バスティアンはピクニックに行こうと言いましたが・・・
目的地に近づくにつれて、
雲はだんだん濃くなって行きました。
オデットは心配そうな目で
曇った空を見つめました。
バスティアンに押し切られて
出かけて来ましたが、
どう見ても、ピクニックを楽しむのに
良い天気ではありませんでした。
オデットは、
もう帰った方がいいのではないかと
尋ねると、振り返って
歩いて来た道を見つめました。
蒸し暑い風が
野原を揺らしていました。
もう着いたみたいだけれどと
さりげなく返事をしたバスティアンは
小川のそばに立つ柳の木陰に
毛布を広げました。
全く話が通じない男でした。
諦めたオデットは、
仕方なくバスティアンのそばへ
近づきました。
ここをピクニックの場所に選んだのは
オデットでした。
村内にも
景色の良い場所は多いけれど、
人目につかない場所を
探しているうちに、遠くまで
歩いて来てしまいました。
もし雨が降ったら、
非常に困ることになるだろうけれど
バスティアンは、
ただ、のんびりしていました。
余裕があれば、
きちんと準備できたのにと、ぼやくと
オデットは複雑な眼差しで
バスティアンが籠から取り出した
食べ物を見ました。
急いで作った貧相なサンドイッチと
果物が数個。
体裁を整えるために用意した
クッキーとケーキは、
数日前に開いた集まりの残り物でした。
バスティアンは、
これで十分だと言うと
何食わぬ顔で笑いながら
シャンパンを取り出しました。
形式的な社交辞令だと
分かっていましたが、
それでもオデットは
内心ほっとして帽子を脱ぎました。
しかし、その平穏は
長くは続きませんでした。
1つにきつく束ねた髪に、
全く色の合わないブラウスとスカート。
さらにストッキングは
左右が揃っていませんでした。
滅茶苦茶な自分の姿にふと気づくと
必死に飲み込んだ惨めな気持ちが
再び込み上げて来ました。
どうしても
今日でなければならない理由でも
あるのかと、オデットが叱責しても
バスティアンは厚かましい微笑みを
浮かべるだけでした。
何かに追われているかのように
急き立て、
彼女を翻弄していた人物とは
思えない姿でした。
じっと、
その厚かましい男を見つめていた
オデットの眼差しが、
わずかに揺れました。
バスティアンは、
ネクタイを締めていない
綿のシャツの上に、
サスペンダーを着用していました。
ポマードを使わずに整えた髪は
風に吹かれて
優雅に乱れていました。
全てが滅茶苦茶な状況の中でも、
1人だけ完璧な姿を保っている男が
オデットをさらに惨めにしました。
悩んでいたオデットは、
バスティアンが
シャンパンのコルクを抜いている隙に
髪を解きました。
指で素早く髪を梳かし、
半分だけ再び結んで整えました。
ポン!地面を揺るがす爆発音が
響き渡ったのはその時でした。
驚愕の悲鳴が上がると同時に、
頭上に水飛沫が降り注ぎました。
甘い香りを嗅いで初めてオデットは
それが、瓶から噴き出した
シャンパンだと気づきました。
これは一体・・・
シャンパンで滅茶苦茶になった
食べ物と毛布を見ていた
オデットの視線が、
向かい合った男の顔の上で
止まりました。
バスティアンにも
シャンパンが飛び散りましたが、
少なくとも
彼女よりはマシな状態でした。
「ああ、自分が持って来た
シャンパンだったのか」
オデットが持って来た
シャンパンの瓶を見たバスティアンが
思わず笑いをこぼしました。
オデットはしかめっ面で
シャンパングラスを見下ろしました。
割れるのではないかと心配で
布巾に包んで持って来ましたが、
包みを解く前に
役目を終えてしまいました。
バスティアンは、
申し訳ありません、
マリー・ベラー嬢。
かなり揺らして来たので、
しばらく、
栓を抜いてはいけないことを
事前に説明できなかったと、
この状況を、
ただ楽しんでいるように見えました。
どんよりとした雲のかかった空と
ボロボロになった自分の姿を
順に眺めたオデットは、
静かに立ち上がって、
小川へ向かいました。
シャンパンをかぶって
滅茶苦茶になった姿が、
改めて現実を思い出させました。
極度の羞恥心と自責の念が加わると
かえって心が冷たく沈みました。
オデットは小川の水で
顔を洗いました。
酒がぽたぽた滴る髪も
大まかにまとめましたが、
ブラウスを脱がない限り、
どうしようもなさそうでした。
本当に馬鹿みたい。
オデットは、幻滅に満ちた目で
水面に映った自分の姿を
見つめました。
すでに別れた男と
一体何をしているのか。
あまりにも滑稽で情けない姿でした。
どんな気持ちで彼の元を去ったのか。
オデットは、
過去3年の歳月を振り返りながら
体を起こしました。
今からでも、
あの男を帰すのが正しいという
結論に至ったのと同時に、
青いハンカチが、
突然、視界に飛び込んで来ました。
それを握っている大きな手と
長い腕を通り過ぎたオデットの視線は
すぐに自分を映す青い瞳に
届きました。
大丈夫。自分のものを使うと
オデットは丁重に断りながら、
スカートのポケットに手を入れました。
しかし、本来そこにあるべき
ハンカチが見つかりませんでした。
底なしに惨めになった瞬間に
バスティアンが近づいて来ました。
オデットと向かい合った彼は、
特に言葉を発することなく
濡れた顔を拭いてあげました。
その優しい手つきが、
かろうじて取り戻した理性を
再び曇らせました。
途方に暮れたオデットは
慌ててバスティアンを
押し退けました。
意外にも素直に退いてくれたので
安堵したのも束の間。
ゆっくりと下に降りた
バスティアンの視線が止まった場所に
気づくと、
顔が熱く燃え上がりました。
びしょ濡れになったブラウスが
体に密着し、
胸の輪郭を露わにしていました。
慌てて身を縮めましたが、
屈辱的な姿を隠すには
及びませんでした。
もう耐えられなくなったオデットは
1人でも帰るつもりで歩き出しました。
その時、バスティアンが
ジャケットを脱ぎました。
肩を包む柔らかな感触を感じて、
ようやくオデットは、
その行動の意味を理解しました。
恥ずかしい所を隠してくれた
バスティアンは
呆然とするオデットをかすめて
小川へ向かいました。
オデットは、
ジャケットをしっかり閉め
平然と顔を洗うバスティアンを
見守っていました。
結局、また元通り。
頭の中は白い紙のように
真っ白になりました。

バスティアンが、
サンドイッチを一切れ手に取ると、
食べないでと言う、オデットの
慌てた声が聞こえてきました。
バスティアンは首を回して、
厳しい舎監のような表情をしている
オデットをチラッと見ました。
彼女は、
そろそろ家に帰って
きちんとした食事をしようと、
落ち着いていながらも断固とした口調で
彼を懐柔しようとしました。
クスッと笑ったバスティアンは、
何事もなかったかのように
サンドイッチを
大きく一口かじりました。
シャンパンが染み込んで
湿っている点を除けば、
特に問題はありませんでした。
すぐに自分の分のサンドイッチを
平らげると、バスティアンは、
オデットの分まで
全部食べてしまいました。
硬くなったクッキーや
パサパサしたケーキも
残しませんでした。
物思いに沈んだような眼差しで
彼を見つめていたオデットは、
一体、なぜこんなことをするのかと
嘆息混じりに尋ねました。
バスティアンは、
半分に切ったリンゴを差し出すことで
代わりに答えました。
不満そうに、ため息をつきながらも、
オデットは、
素直に手を差し出しました。
2人は柳の下に並んで座り、
遠くの空を見上げながら
リンゴを分け合って食べました。
特に会話はしませんでした。
お腹いっぱい食べたバスティアンは
腕を枕に横になって柳の葉を数え
オデットは木の幹に寄りかかって
持ってきた本を開きました。
曇り空も、
それほど悪くは感じられない、
穏やかな安息の時間でした。
「オデット」
バスティアンは
眠そうな目を静かに閉じて、
その名前を囁きました。
「はい」
オデットはページをめくりながら
落ち着いた返事をしました。
「歌ってくれないか?」
そっと目を開けると、
眉を顰めたオデットの姿が
目に飛び込んで来ました。
オデットは、
たかがシャンパンに浸った
パンの数切れで酔うほど
バスティアンは、
お酒に弱くはなかったと思うと
返事をしました。
バスティアンは、
1曲だけ聞かせて欲しいと頼みました。
オデットは、自分たちの間で、
そんなことがあり得ると
思っているのかと尋ねました。
バスティアンは、
どうせあり得ないことばかりの
関係ではなかったかと
厚かましく問い返しました。
そのバスティアンを見つめていた
オデットは、思わず失笑しました。
今日のバスティアンは、まるで
わがままな子供のようでした。
この男から見られるとは思わなかった
一面でした。
オデットは、ふと虚しくなり
確かにそうですねと答えて
頷きました。
初めから今に至るまで。
悉く、あり得ないことばかりの
関係でした。
さらに湿った風が
野原をかすめて通り過ぎました。
本を閉じたオデットは
遠い空に視線を移しました。
バスティアンは、
ハミングで歌う声に耳を傾けました。
オデットが歌っていました。
彼のために。 美しい夢のように。
野原と小川を越えて
バスティアンのもとへ。
オデットの視線も
旋律と共に流れて来ました。
歌は2人の視線が結び目のように
絡み合った頃に終わりました。
バスティアンはしばらくの間、
じっとオデットを見つめていました。
ふと波の上にいるような
気分になりました。
人生が、静穏で安らかなものになる
瞬間に決まって訪れる、
まさに、その眩暈でした。
馴染みがなく、不快で、それゆえ、
何かが間違っているかのように
感じられた、この不安の正体を、
バスティアンは今になって
理解したように思えました。
長い間、船に乗っていると、
かえって揺れのない陸地の方で
眩暈を感じるものでした。
波や船体の振動に
体が慣れてしまったために起こる
陸上での船酔いでした。
そんな人生でした。
嵐の吹き荒れる海を踏み越えて
生きてきました。
その荒波の中で生き残るために
足掻き続け、ついに成し遂げました。
だから、
固い大地を踏みしめて生きて行く
生の感覚を知りませんでした。
あなたは、自分が足を踏み入れた
最初の陸地でした。
異常だと思い込んで否定し、
もっともらしい名分で
合理化してきた感情が、
実は極めて平凡な愛でした。
美しい女性に惹かれ、
その女性が気になり、
だから一緒にいたいと思いました。
つまり、自分はただ、あなたと
こんな日々を過ごしたかったのだと
思いました。
飲み込めば飲むほど大きくなる心を
どうすることもできず
途方に暮れていたその瞬間に、
ぽつんと冷たい水滴が
頬を濡らしました。
バスティアンはしかめっ面をして
空を見上げました。
いつの間にか黒く染まった雲が
野原を覆っていました。
バスティアンは、
夕立の前触れであることに気づいて
体を起こしたのと同時に、
ザーッと激しい雨が降り始めました。

最悪に最悪が重なった不幸な日でした。
激しい風にひっくり返り、
結局、壊れてしまった傘を見た
オデットの顔の上に、
もはや隠せなくなった怒りが
浮かびました。
なぜこんな日に限って!
と叫びたい気持ちでしたが、
今はその余裕すらありませんでした。
ボロボロになった傘は結局、
風雨に乗って
飛んで行ってしまいました。
無駄な未練を捨てたオデットは
雨に打たれながら走りました。
バスティアンは一定の間隔を保ちながら
後を追っていました。
「あっ!」
オデットが、
突然どさっと座り込んだのは
野原の果てが見え始めた頃でした。
バスティアンは反射的に駆け寄って
オデットを支えました。
まともに立てないのを見ると、
どうやら足首を捻挫したようでした。
強風を伴う豪雨の勢いは
ますます激しくなっていました。
一刻の猶予も許されないと
結論を下したバスティアンは
籠から取り出した毛布で
震えているオデットを包みました。
全てあなたのせいだ。
あなたが無駄に強情を張るからと
カッとなったオデットの叫び声が
雷鳴と共に響き渡りました。
バスティアンは
しばらく喧嘩は後回しにしようと
返事をして、腕に籠を掛けると
バスティアンはオデットを抱き抱えて
走り始めました。
驚いたオデットの悲鳴は
激しい雨と雷の音に
かき消されました。
野原を通り過ぎると、
収穫が終わった麦畑が現れました。
この雨の中を家まで帰るのは
無理だと思ったその時、
ちょうど水車小屋が現れました。
ドアが開いていることを確認した
バスティアンは、躊躇うことなく
そこへ向かいました。
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この機会を逃したら、
二度とオデットと
ピクニックへ行くことは
叶わないだろうと思って、
バスティアンは、天気が悪くても
オデットが、どれだけ反対しても
強情を張ったのだと思います。
まさか、ここまで不運が重なるとは
想像もしていなかったでしょうし。
オデットにとっては
最悪の出来事ばかりでしたが、
バスティアンは、その1つ1つが
どれも新鮮で大切な思い出で、
それを胸に戦場へ行くのかと思うと
切なくなりました。
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