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177話 バスティアンの部屋から大きな物音がしたので、オデットは駆けつけました。
オデットのノックは、
すでに数分間続いていました。
バスティアンは、
体温で熱くなったドアノブを
力いっぱい握りしめたまま
目を閉じました。
頑固で愚かな女は、体が壊れるほど
ドアを何度も叩きました。
切実に自分の名前を呼ぶ声が
聞こえる度に、バスティアンは
再び悪夢の中に戻りたいと
思いました。
むしろ、このまま狂ってしまうのも
悪くないと思いました。
あなたが開けないなら、
自分が開けると言う
怒りに満ちたオデットの声が
鋭く響き渡りました。
すぐにドアを叩く音が止まり、
立ち去る足音が聞こえて来ました。
あなたには開けられないと呟くと
バスティアンは、
歪んだ笑みを浮かべて
ドアノブから手を離しました。
鼻筋と顎の先に溜まっていた汗の滴が
ぽとりと、足の甲の上に落ちました。
ドアに背を向けたバスティアンは
崩れ落ちるように
その場に座り込みました。
閉ざされたドアに寄りかかると
自嘲混じりのため息が漏れました。
改善していた症状が
徐々に悪化していました。
おそらく、
睡眠薬を減らしたせいでした。
息を切らしたオデットが
怒りに満ちた声で、
鍵を持って来たと叫びました。
バスティアンは、
掛け金をかけたので、
無駄な努力はしないようにと
告げました。
オデットは、
一体なぜ、こんなことをするのかと
尋ねました。
バスティアンは、
どうか部屋へ戻れと、
獣が吠えるように命令を吐き捨てると
冷や汗で濡れた顔を拭いました。
雲が晴れた空に浮かぶ白い月が、
窓の前まで引きずられたベッドと
血のついたロープを照らしました。
オデットと一緒に買った布団は
ひどく、しわくちゃになったまま、
床に投げ捨てられていました。
しばらく静かだったオデットは、
「いいですよ。開けられないなら
壊せばいい」と
とんでもない脅迫をしました。
バスティアンの乾いた唇の間から
思わず笑いがこぼれました。
バスティアンは、
あなたは相当な人だと言いました。
オデットは、
あなたから学んだ通りにすると
返事をしましたが、
決然とした口調とは異なり、
声はかすれていました。
再びドアを叩く手にも、
もう力が入らなくなりました。
オデットは、
少しだけ顔を見せて欲しい。
大丈夫だと確認できれば戻ると
訴えました。
「オデット、お願いだから・・・」
と、最後まで言い切れなかった
切実な願いが、闇に沈んだ虚空へと
散って行きました。
ドアを閉めて鍵をかけ、
背を向けて、目を閉じても
オデットが見えました。
赤く染まった瞼に包まれた
青緑色の瞳。
流れずに溜まっている
透明な涙と震える唇。
泣き方さえ知らないまま生きて来た。
だからこそ、
一層胸に迫る悲しく美しい顔が。
オデット、愛する私のオデット。
バスティアンは、
赤くなった目を開けて
後ろを振り返りました。
オデットは、
依然として泣きじゃくりながら
ドアを叩いていました。
あの女の新たな弱点を
手に入れたのだと、
バスティアンはようやく
悟ったようでした。
完璧にコントロールできる
最も優れた武器。
それはまさに自分自身でした。
バスティアンは、
絶望的な希望の光が宿った目で
血を流す傷を見下ろしました。
哀れなものたちを、
どうしても見捨てられない女でした。
そのようなオデットを縛る方法を
バスティアンは
誰よりも、よく知っていました。
ただ、このドアを開けて、
このように惨めに壊れた姿を
見せるだけで良かったのでした。
あれほど切望していた女を
完全に手に入れることができる
最後のチャンス。
バスティアンは、
獲物を見つけた飢えた獣のように
必死に掛け金を握りしめました。
ただ本能的な欲望だけで
輝いていた瞳に光が戻ったのは、
疲れた老婆のようだった
若い女の眼差しが
ふと浮かんだ瞬間でした。
オデットが
家族を手放せなかった理由が
単に愛だけではないことを
よく理解していました。
あの頃のオデットは、
まるで責任感という檻に
閉じ込められた無期懲役囚のように
生きていました。
それにもかかわらず、
ゴミのような父親と
無鉄砲な異母妹のために
献身した女でした。
だからこそ、
いくらでも希望がありました。
そして、その希望が
バスティアンを止めました。
バスティアンは、
開けられなかった掛け金を
握りしめながら
虚空を見つめました。
ようやく、
自分の年齢を生きている
瑞々しくて愛らしいオデットの記憶が
月明かりの中で蘇りました。
自分だけの人生を
生きられるようになった女は、
自由で平穏に見えました。
眩しいほどに輝き、美しかった。
それを奪う代償として、
自分は彼女に何を与えられるのか。
バスティアンは切羽詰まった思いで
そろばんを弾きました。
しかし、この上なく簡単で単純だった
計算方法は、
もはや有効ではありませんでした。
謝罪さえも苦痛だと言っていましたが
このような姿で
すがりついて懇願すれば、オデットは、
結局、許してくれるだろう。
そうすれば、
やがて愛を告白する資格を
得ることができるだろう。
しかし、
バスティアンをこの地へ導いた希望は
今や絶望となりました。
たとえ、
そのような奇跡が起こったとしても
結局、彼は戦場へと
旅立つことになるのだから。
オデットが
待っていてくれさえすれば、
どんな手を使ってでも
無事に戻ってくる自信がありました。
必ずそうすると、バスティアンは
何度も誓うことができました。
それは自分の一生を賭けられる
真実の約束でした。
しかし、バスティアンは
戦場を知っていました。
そこでの生死は、
単に1人の人間の意志で
決まるものではないということも。
さらに、これまでにない規模の大戦が
予告された戦場の最前線でした。
何事においても、
軽々しく確信するのは困難でした。
「大丈夫ですか、バスティアン?」
再び聞こえて来た
オデットの声が呼び起こした記憶が
最後の未練を断ち切りました。
再び傷つけられたら、
もう耐えられなくなるだろうと
オデットは言いました。
その気持ちを、バスティアンは
今や完全に
理解できるような気がしました。
冷淡そうに見えても、冷酷にはなれず
孤独な分だけ情の深い女でした。
だからこそ
逃げなければならなかったのだろう。
哀れになった自分を見れば、
このように心が揺らいでしまうことを、
そして再び苦しみの檻の中に
閉じ込められることになると
分かっていたから。
バスティアンは静かに目を閉じると、
あなたへの過ちが悪夢となって訪れて
それが自分を苦しめると、
冷静に嘘をつきました。
荒い息が鎮まった声は、
深まっていく夜明けのように
ひんやりとして落ち着いた音色を
帯びていました。
自分があなたに与えられるのは
結局傷だけ。
激しい計算の末に見つけた答えを、
バスティアンは淡々と直視しました。
すると、あの哀れな女のために
何をどうすればよいのか、
初めて分かったような気がしました。
ドアを開けて。自分を見て話してと
細かく震える声が
閉ざされたドアの向こうから
聞こえて来ました。
しかし、バスティアンはそれを拒否し
あなたを見ると、
また悪夢を見てしまいそうだと
言いました。
それから、バスティアンは、
床についていた手を上げ、
歪んだ顔を覆いました。
そして、じっと目を閉じながら、
謝って、許してもらって、
最初からやり直せれば
乗り越えられると思ったけれど、
それでも、過去を
消すことはできないだろう。
あなたの言う通りだった。
同情心と罪悪感を拭い去った
自分の本心が何なのか、
今は分かる気がする。
自分たちは互いの腐った傷。
だからこそ
切り取らなければならないのだろうと
冷静に嘘をつきました。
そして、
だから、終わりにしよう。約束を守る。
もう自分の気持ちも
ほとんど整理がついたからと
言いました。
すると、ようやくドアノブを放した
オデットが、躊躇いながら
後ずさりする音が聞こえて来ました。
バスティアンは、
その気配に耳を傾けながら
ゆっくりと目を開けました。
感情を消した瞳が
夜の闇に染まって行きました。
最後の武器さえも捨てたバスティアンは
よろめきながら立ち上がり、
悪夢の残骸と向き合いました。
バスティアンは、
この地獄に、あなたを
再び閉じ込めることはしないと
決意を固めて袖を下ろしました。
傷を隠し、混乱を収拾している間に
夜明けの静寂が深まりました。
バスティアンは、
自分も、
こんな風に生きたくなくなったと
告げると、静かな顔で
閉ざされた扉と向かい合いました。
オデットは黙っていました。
「だからもう行け」と、
淡々と命令を伝えたバスティアンは
未練さえも捨てて背を向けました。
ロープを解いて
トランクの奥深くに隠し、
ベッドを元の位置に戻しました。
布団まで整えたバスティアンは
最後に睡眠薬を飲んでから
ベッドに入りました。
薬が効いて来て眠りにつく頃、
静かにドアの前を去る
オデットの足音が聞こえて来ました。
バスティアンは甘美な絶望の中で
意識を失いました。

夜が明ける頃に
ようやく眠りについたオデットは
普段より遅い時間に
目を覚ましました。
ベッドまで差し込む眩しい日差しが
視界いっぱいに広がっていました。
遅ればせながら、
今日がレッスンの日だと気づいた
オデットは、
慌てて起き上がりました。
全力で走っても、
時間通りに到着するのが
難しい時間でした。
さらに、
足首まで怪我をしていたので、
遅刻は確定したも同然でした。
かろうじて逆立つ感情を抑えた
オデットは、
急いで出勤の準備を始めました。
家の中が、
しんと静まりかえっていることに
気づいたのは、
身支度を終えた後でした。
もしかすると、
もう去ってしまったのではないか。
日差しに満ちた空間を
ぼんやりと見つめていたオデットは
衝動的に踵を返しました。
まだ治っていない足を
強く踏みつけたせいで、
鋭い痛みが広がりましたが、
それを気にする余裕は
ありませんでした。
ドアが勢いよく開く音と
古い床が響く音、
そして再びドアが勢いよく開く音が
次々と続きました。
客用寝室の入口に立ち止まった
オデットは、
自嘲と安堵が入り混じったため息を
長くつきました。
バスティアンの荷物は、
まだそのまま残っていました。
少なくとも別れの挨拶もなく
勝手に消えてしまったわけでは
なさそうでした。
自分がいつも、そのように、
あの男のもとを去ったという事実に
ふと気づいたオデットは、
虚しい笑みを浮かべて
背を向けました。
ここまで。
バスティアンが引いた線を実感した
夜の記憶が、
きしむ階段の音と共に
1つずつ浮かび上がりました。
昨夜ずっと、
ぼんやりした気分だった理由を
オデットは今や理解したようでした。
あなたは、
自分の雇い主に過ぎないという
残酷な言葉を躊躇わずに
吐いていた時代にも、
あのように明確な線を
引いたことのない男でした。
だから、手を伸ばしても、
決して届かない人なのかもしれないと
いうことを、
知らなかったのだと思いました。
「バスティアン!」
早く出発しなければならないと
分かっていながらも、
オデットは消えた客の名前を呼びながら
家の中をうろうろしました。
運動はすでにかなり前に
終わらせていた男でした。
一体どこへ行ったのか分からず、
もどかしくなったその時
澄んだベルの音が聞こえてきました。
早く、出て来てください。
マリー・ベラー嬢!
少しの悪戯っぽさが混じった
柔らかな低音の声が、
チリンチリンと鳴るベルの音と共に
流れて来ました。
急いで玄関に飛び出したオデットは、
思わず呆れたため息を漏らしました。
自転車に乗ったバスティアンが
平然とした笑みを浮かべて
手を振っていました。
今すぐ出発しないと
遅刻します、従妹殿。
バスティアンは
何気なく自転車の後部座席を
指差しました。
オデットは眉を顰めて
ポーチの下に降りました。
オデットは、
どこで手に入れたのかと尋ねました。
バスティアンは、
親切な隣人から借りたと答えました。
オデットは、
どういうつもりなのかと尋ねました。
バスティアンは、
まだ足首が完全に治っていないからと
答えると、
優しい兄のような眼差しで
包帯を巻いたオデットの
右足を指しました。
バスティアンは、
遠足に行こうと頑なに主張したのは
自分だったから、その結果も
責任を取らなければならないと
思ったからと話しました。
オデットは、
終わりにしようと言ったのは
あなただと、主張しました。
バスティアンは
「はい」と答えました。
オデットは、
「それなら、一体なぜ・・・」と
聞き返しました。
バスティアンは、
まだ2日残っているではないかと
答えました。
オデットは、
あなたは、相変わらず変わっていない。
いまだに、本当に我儘で
自己中心的だと非難しました。
バスティアンは、
改めて驚くことでもないのではないかと
非常に厚かましい顔で返事をすると
再びベルを鳴らしました。
オデットは、
あなたの犯した過ちが
悪夢として残るのが嫌で、
施す親切なのかと尋ねました。
バスティアンは、
「おそらく」と答えました。
オデットは、
なぜ自分が、こんな一方的な施しを
受け入れなければならないのかと
抗議しました。
バスティアンは、
「頭を下げるべき時は下げなさい、
オデット嬢」と告げると、
快晴の空を漂う積雲を見つめていた
バスティアンの視線が
再びオデットの方へ向かいました。
そして、
それが本当の自尊心だと告げました。
オデットの心を踏みにじった過去と
同じ言葉でしたが、
なぜか、あの時のような屈辱感は
ありませんでした。
おそらく、この男に
慣れてしまったせいだろうと
思いました。
道を通る人々の視線が集まり始めると、
オデットは、
仕方なく自転車に乗りました。
その瞬間、
バスティアンがペダルを踏みました。
オデットは悲鳴を上げながら
彼の腰を掴みました。
自転車は徐々に速度を上げ、
夏の風景の中を走り始めました。
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バスティアンは、
オデットの優しさを利用すれば
彼女を取り戻せることが
分かっていたけれど、
自由に生き始めた彼女の人生を
再び壊してしまうことで、
再び彼女が老婆のようになることを
望まなかったし、
これから戦場へ向かい
生きて帰れるかも分からない自分に
彼女を縛り付けてはならないと思い
ようやく、オデットと
離婚する決意をしたのではないかと
思います。
残り2日間は、
オデットと一緒にいられる
最後の2日間。
バスティアンはオデットの夫として、
できる限りの愛と誠意を
尽くそうと思っているのでは
ないでしょうか。
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