![]()
179話 オデットはバスティアンにキスをしました。
そっと唇を重ねて、ため息をつき、
再びそっと唇を合わせて来る。
オデットのキスは、
穏やかな水の流れのように続きました。
バスティアンはそっと目を閉じて
オデットの肩を掴みました。
研ぎ澄まされた神経が、全て、
オデットに向かっていました。
肺の奥深くに染み渡る甘い体の香りと
唇の間から流れ込む温かい息。
触れ合った胸から伝わる
激しい心臓の鼓動まで。
幻想と片付けるには
あまりにも鮮明な感覚でした。
指先一つだけで振り払える女に
為す術もなく囚われているうちに
ぎこちない口づけが
次第に熱を帯びて行きました。
バスティアンは、
深く吸い込んだ息を飲み込みながら
顔を背けました。
そっとバスティアンの名前を囁いた
オデットが頬を包み込みました。
微弱な力に過ぎませんでしたが、
バスティアンは抵抗できませんでした。
諦めて目を開けると、
オデットの澄んだ顔が見えました。
赤く熱くなった頬と熱に浮かれた瞳が
暗闇の中でも鮮明に輝いていました。
しばらく、じっとバスティアンを
見つめていたオデットが
再び唇を下げました。
これも一瞬の衝動から生じたミスとは
考えにくいように思えました。
バスティアンは結局、
急流のように押し寄せて来た欲望に
屈しました。
熱い力を込めて、
力いっぱいオデットを抱きしめ、
飲み込むように口を合わせました。
不器用ながらも
応えようと努力するオデットが、
かろうじて守っていた最後の線さえも
消してしまいました。
激しく口を合わせ続けていく間に
視線の高さが変わりました。
オデットの上にのしかかると
バスティアンは、
貪るように唇を飲み込み、
胸をつかみました。
荒くなった息と、か細いうめき声が
夏の夜の静けさを
侵食して行きました。
額から鼻筋へ。
頬と顎を通り過ぎて再び唇へ。
バスティアンは、
視線が届く全ての場所に
夢中で唇を押し付け、
ネグリジェの上から握り締めた胸を
思いのままにしました。
オデットは、
どうしていいかわからずにいましたが
逃げませんでした。
もがきながら、
しがみついて来る仕草が
哀れでありながらも愛おしかったです。
バスティアンは、一層荒々しい勢いで
オデットのネグリジェをめくり、
やがて現れた胸を
貪るように口にしました。
かろうじて再び理性を取り戻したのは
半裸のオデットの上に乗った後でした。
下着を下ろそうとしていた
手を止めたバスティアンは、
必死で息を整えながら
背筋を伸ばして座りました。
月明かりを背にした彼の影が、
乱れたオデットの上に落ちていました。
激しい愛の痕跡に満ちた胸と
赤く濡れた唇を通り過ぎた
バスティアンの視線は、
焦点の定まらない青緑色の瞳の上で
止まりました。
オデットは、ぼんやりとした目を
パチパチさせながら
彼を見つめていました。
何が起こったのか、まだ
はっきり認識していないようで、
澄んだ表情をしました。
バスティアンは顔を洗うように、
両手で顔を擦ると、身を翻し、
マットの端に腰掛けました。
罵声が混じった苦笑いが
こぼれました。
その間にオデットが起き上がって
座りました。
じっと見つめる視線が感じられましたが
バスティアンは振り返りませんでした。
おそらく昨夜の余波だろう。
悪夢に悩まされる姿が可哀想だから。
それだけで
心が弱くなってしまうオデットが、
滑稽だけれど哀れでした。
知らないふりをして
施しを受けたいと思った自分も
同じでした。
いつも、これほどまでに容易く
弱点を握らせて、
自分の底知れぬ浅ましさを
直視させる女でした。
バスティアンは、
狂おしいほどの欲望と同じくらい
深まった嫌悪感の中で
視線を下ろしました。
振り向くと、
まだ、その場所に留まっている
オデットが見えました。
きちんと整えられていない
ネグリジェの下から見える白い肩と脚が
月明かりの中で
微かに輝いていました。
あなたは哀れみに目が眩み、
自分は、
そんなあなたに目が眩んだ。
バスティアンは、
この浅ましくてたまらない愛を
自嘲しながら立ち上がりました。
静物のように静かに佇む
オデットを布団で包み、
ギュッと抱き上げて
ベッドの上に置きました。
「・・・バスティアン」
細かく震える手が、
去ろうとしている彼の袖の端を
掴みました。
バスティアンは、
夜のように深く暗くなった目を伏せて
オデットを見つめました。
もしかすると、この女には
聖女として恩恵を施したという慰めが
必要なのかもしれない。
足枷のようだった父親を黙々と養い
利己的な異母妹のために
盲目的な献身をしたように。
母を失った野良犬を拾って世話をし、
望まなかった子供も
大切に抱きしめたように、今は自分を。
「夜も更けました。従妹殿」と告げると
バスティアンは冷静に
オデットの手を離しました。
一度くらい、
クソ野郎になったからといって
変わることはないことを
知っていました。
しかし、少なくとも最後まで
卑劣さと
底知れぬ浅ましさを見せたまま
別れたくはありませんでした。
それはオデットとは関係のない決断、
彼が守りたい最後の砦でした。
「お休みなさい、マリー・ベラー嬢」
バスティアンは、
再び現実を思い出させながら
背を向けました。
激しくドアを開け閉めする音と
コツコツと廊下を歩く足音が
夜の静寂を揺るがしました。
客用の寝室に行ったバスティアンは
苛立ちの混じった手つきで
窓枠に置かれたタバコの箱とライターを
手に取りました。
ひんやりとした壁にもたれて
タバコを吸うと、
歪んだ笑みがこぼれました。
下はまだ破裂しそうなほど
ズキズキしていました。
必死に煙を吸い込んでも無駄でした。
惑わす魔女のように献身していた
聖女の記憶は
なかなか薄れませんでした。
結局、
どうすることもできない欲望に
屈服しました。
バスティアンは、
歪んだ顔を撫でていた手を
下ろしました。
凄まじい自己嫌悪を感じましたが、
苦痛に近い欲望は、
すでに理性の制御を失っていました。
バスティアンは
飲み込めなかった煙を吐きながら
俯きました。
燃え尽きそうなタバコを握っている
手の甲の血管が浮き上がり、
喉が蠢き始めました。
荒い息遣いと古びた床の軋む音が、
水の中のような静けさを乱しました。
バスティアンは、
頭上に差し込む月光を見つめながら
幻滅の果てを追いかけました。
今や1日後に迫った別れが
むしろ幸いになった頃、
抑えられていたうめき声が
漏れ出しました。
やがて訪れた静寂には、
みすぼらしい欲望の匂いが
生臭く漂っていました。
パジャマの上着を脱いで
惨めな姿を大まかに整えた
バスティアンは、
再びタバコをくわえたまま
目を閉じました。
煙をきちんと
飲み込めるようになるまでには、
もう少し時間が必要でした。

オデットは、
薄く青みがかかっている
夜明けの光の中で目を覚ましました。
一晩中、寝返りを打ち続け、
ほんの束の間、
目を閉じただけでしたが、
疲れは感じませんでした。
静かに天井を見つめている間に、
バスティアンが起き上がる気配が
聞こえて来ました。
オデットは再び目を閉じて
息を整えました。
ベッドを整えたバスティアンは
静かに寝室を後にしました。
洗顔を終えた彼が
運動に出かける気配が聞こえると、
ようやく
一安心することができました。
オデットはゆっくりと起き上がり
ベッドの下に降りました。
バスティアンがきちんと畳んだ
小花柄の布団を見て、
再び頬が赤くなりました。
とんでもないことをしてしまった。
それ以外の、どんな言葉でも
昨夜の出来事を説明できそうに
ありませんでした。
その布団に包まれたオデットを残して
去ったバスティアンは、
夜が更けてから戻って来ました。
そして、何事もなかったかのように
自分の場所に横になって
眠りにつきました。
何事もなかったかのように振る舞う
平然とした態度が、改めて
明確な答えを突きつけていました。
憎しみから踏みにじり、
哀れに思って世話をした女。
過去の時間の中でも、
自分の意味は、結局のところ
そうだったのだ。
しばらくは、あまりにも惨めで
耐え難かったけれど、
結局オデットは
淡々と現実を受け入れました。
すると、バスティアンのことが
理解できました。
異母弟と継母が犯した罪に
罪悪感を抱き、憎んでいた女を
哀れむようになったのだろう。
サンドリン・ド・ラビエルとの婚約を
無効にした決定にも十分納得しました。
ボロボロになって
崖っぷちに立つ女の背中を押せるほど
冷酷で残酷ではない男だから。
責務を果たすことで
贖罪しようとしたけれど、
結局、破局に至ってしまった。
その罪悪感が痛みを伴う足枷となって
バスティアンを縛り付けていることを
オデットは
ようやく理解したように思えました。
だからこそ、再び自分を
訪ねて来たのだということも。
新たな始まりが、
その鎖を解く鍵になると
信じていたから。
かつてのオデットも
そうであったように。
しかし、結局は、
互いが互いを縛る足枷。
今やバスティアンも
その事実を知ったので、
ロスバインで共に過ごした時間は
無駄ではなかったと言えるけれど
それゆえ、
無謀で愚かだった自分の行動が
さらに恥ずかしくなりました。
しかし、そのおかげで
バスティアンの本心を
理解できるようになったので
後悔はありませんでした。
それだけで十分でした。
乱れた心を整理している間に、
せっかちな夏の太陽が
空高く昇りました。
これ以上、
時間を無駄にしたくなかったオデットは
ようやく一日を始めました。
バスティアンと向き合うことを
考えると、目の前が
真っ暗になりそうでしたが、
それでも毅然と身なりを整えると
下の階へ降りました。
明日には、
永遠に別れることになる男。
オデットは、一時の感情に流されて
後悔するようなことを
したくありませんでした。
だから、むしろもっと
厚かましくなるつもりでした。
すでに品位と体面を保つ道は
遠のいてしまったので、
むやみにぎこちなく振舞えば、
さらに滑稽な姿になるはずでした。
それでは最後の一日を
どのように過ごすべきだろうか。
悩みながら朝食の準備をしている間に
バスティアンが戻って来ました。
今日も裏庭のフェンスを越えて
入って来た彼は、ポンプで水を汲み、
汗で濡れた顔を洗いました。
オデットは、
台所の窓の前で足を止めたまま
その様子を見守っていました。
暑い天気に不似合いな、
襟の高いブラウスが
突然恥ずかしくなった瞬間、
バスティアンが顔を上げました。
避ける暇もなく目が合い、
視線が絡み合いました。
オデットは思わず息を潜めました。
一人残されて、湿った下着を着替えた
屈辱的な夜の記憶が、
陽光のように輝く男性の顔をかすめて
通り過ぎました。
今になって過去の意味を知ることは
無意味でした。
たとえ同情心や罪悪感以上の感情が
存在しても、何も変わらないことを
オデットはよく理解していました。
しかし、この気持ちは、
一体どこへ流れて行くのだろうか?
何度も自問しても
答えを見つけるのは困難でした。
突然、全てが霧の中に隠れたように
曖昧になりました。
ふと、それが耐え難く
もどかしくなった瞬間に、
バスティアンが足を踏み出しました。
慌てたオデットは
急いで踵を返しました。
何をすれば良いかわからず
慌てている間に、
天国の音楽のような呼び鈴が
響き渡りました。
どれだけ嬉しかったことか。
オデットは、
まだ治っていない足首のことも忘れて
玄関へ走って行きました。
ドアを開けると、
困った顔をした村の教師の妻が
見えました。
彼女は、
早朝にもかかわらず
突然来たことを謝りました。
オデットは大丈夫だと答えると、
用件を尋ねました。
教師の妻は、
学校委員会の行事に参加するために
ロスバイン市内に
行かなければならないけれど、
どうしても子供たちを連れて行くのは
難しい場所だ。
助けてくれることになっていた
シーラー夫人が、生憎、
インフルエンザに罹ってしまった。
無礼は承知しているけれど
遅くとも3時前には
戻って来られると思うので、
もし、よろしければ、子供たちを、
しばらく預かってもらえないかと
頼みました。
彼女は何度も腕時計を確認しながら
オデットの様子を窺いました。
一刻を争う様子でした。
教師の妻は、
もし従兄が不快に思うなら
断ってもらっても・・・と
言いましたが、
躊躇うオデットの背後から
「いいえ」と答える低くて柔らかい声が
聞こえて来ました。
驚いて振り向くと、
いつの間にか玄関から出て来た
バスティアンが見えました。
バスティアンは、
自転車を貸してくれた恩に
報いる機会があれば、
自分にとって、
大きな喜びとなるだろうと
言いました。
教師の妻は、
まるで世界を手に入れたかのように
明るい笑顔を浮かべながら
ロビスさんは本当に親切で寛大だと
喜びました。
オデットは、
自分の考えも従兄と同じ。
いつも世話になってばかりなので
自分もお手伝いできて嬉しいと
優しい笑顔を浮かべながら、
決まった答えを伝えました。
バスティアンが気にしなければ、
むしろ良いことでした。
息が詰まるような
ぎこちない雰囲気の中で
お互いを耐えるよりは、
こちらの方が良いだろうから。
活気を取り戻した教師の妻は、
2時間後に子供たちを連れて来るという
約束を残して去って行きました。
見送りを終えたオデットは
台所に戻り、
食事の準備を再開しました。
付き纏うバスティアンの視線には
慎重に背を向けました。
朝食を
しっかりと食べなければならない。
まずは、
それだけを考えることにしました。
![]()
![]()
オデットとバスティアンは
互いに相手のことを愛しているのに、
2人共、相手の気持ちを
誤解してしまっているのが
悲しいです。
バスティアンはオデットに
一度も「愛している」と
伝えたことがなかったし、
オデットも、バスティアンに対して、
ずっと塩対応しておきながら
いきなりキスをするものだから
誤解を招くのでしょうけれど。
2人共、親から
まともな愛情を受けていなかったので
愛情の表現方法を
知らないのかもしれません。
![]()