
129話 ローラはジョン・アシュトンの娘セシリアと仲良くなりました。
ローラはセシリアに、
今日はどんな本を読んだのかと
尋ねました。
彼女の腰にしがみついていた
セシリアはローラを見上げると、
緋色の研究。
チェルシーおばさんが
貸してくれたと答えました。
ローラは、
ああ、あの有名な
シャーロック・ホームズシリーズ。
自分は一冊も読んだことがないけれど
面白いですか?と尋ねました。
子供はニッコリ笑うと
とても面白いので、
おばさんも読んでみてと勧めました。
ローラは、
自分は推理小説が苦手だ。
恐ろしい事件を
娯楽として消費するのは
少し残酷に感じられるから。
でも、
セシリアが面白いと思う話なら
聞くことができる。
読んだ内容を話してくれないかと
頼みました。
セシリアは、満面の笑みを浮かべて
ローラの手を握ると
ソファーへ連れて行きました。
ローラは着ていたコートを
使用人に預けて、
セシリアにぴったり寄り添って
座りました。
セシリアは、
冷笑的な私立探偵
シャーロック・ホームズと
紳士的な元軍医ドクター・ワトソンとの
出会いと冒険についての物語を
語り始めました。
ローラは、その話を熱心に聞き、
時には笑い、質問もしました。
自分の話に耳を傾けてくれる
ローラを見つめるセシリアの瞳には
喜びが輝いていました。
話が、ちょうど佳境に入って
盛り上がっている最中、
寝室のドアが開き、
チェルシー夫人が出て来ました。
アシュトン氏の髭剃りを手伝ったのか、
手にはバケツとタオル、
刃を折りたたんだカミソリが
握られていました。
ローラに「来ていたのですね?」と
告げたチェルシー夫人は、
喜びのあまり
満面の笑みを浮かべました。
ローラはチェルシー夫人に
挨拶をすると、
アシュトン氏が、
どれくらい回復したか尋ねました。
チェルシー夫人は、
喜んで欲しい。
今日往診に来たペリー氏が、
もういくらでも外出して大丈夫だと
言ってくれたと答えました。
ローラは
「本当ですか?」と聞き返しました。
チェルシー夫人は
「はい」と答えると
早く入ってみるように。
ペンドルトン嬢を待っていると
告げました。
ローラはセシリアの方を向くと
残りは、また今度話してと
頼みました。
セシリアは
残念そうな顔をしましたが、
従順に頷きました。
ローラはソファーから立ち上がり
寝室へと足を運びました。
寝室の窓は
カーテンが大きく開かれていて
強い春の日差しが
差し込んでいました。
彼はティーテーブルの椅子に座って
ローラを待っていました。
整えられた髪と
髭を剃ったばかりの
すっきりとした顎。
傷一つ残っていない顔と
逞しい体を包む濃い緑色のガウン。
この男性は
本当に病人だったのかと思うほど、
きちんとした姿でした。
「ローラ、いらっしゃい」
彼は明るく微笑みました。
紫色の瞳が宿る知的な目元が
半月形に曲がり、
魅惑的な赤い唇は
柔らかな弧を描いていました。
両頬には、
いつも見ても素敵なえくぼが
深く刻み込まれていました。
ローラは膝を少し曲げてお辞儀をし
彼の向かい側に近づいて座りました。
ローラは、
ペリー氏が、
もう外に出ても大丈夫だと
言ったそうだけれど、
ほぼ完治したということですよねと
尋ねました。
アシュトン氏は
「そうです」と答えると、
クリケットやボクシングのような
激しい運動を除けば、
何でもできるからと答えました。
ローラは微笑みながら
本当に良かったと
心から話しました。
彼の回復は嬉しい知らせでした。
これで彼に対する心の重荷を
下ろすことができたわけでした。
彼は微笑むローラを
眩しそうな眼差しで
見つめました。
ローラが微笑む時、
彼はいつも同じ表情でした。
まるで数百の角度から光を放つ
貴重なサファイアを
見ているかのような顔でした。
アシュトン氏は、
あなたがいなければ、
こんなに早く
回復できなかっただろう。
あなたに是非お返しをしたいと
言いました。
ローラは、
自分は、ただ時々立ち寄って
顔を見せていただけだと
返事をしました。
アシュトン氏は、
そうではない。
あなたは
セシリアの友達になってくれた。
もし、あなたがいなければ、
子供は悲しみに耐え切れず
病気で倒れていただろう。
そうなっていたら、自分は心配で
治療に集中できなかっただろう。
あなたには、
大金を積んでも
返しきれないほどの恩を負った。
だから、
恩返しをさせて欲しいと言いました。
ローラは改めて
彼が良い父親であると感じました。
彼女は首を振ると、
そんなことをされると、
また別の心の重荷を負うことになる。
あなたの頼みを断ったら
自分の心が重くなるのが
明らかだったので、
訪問を続けて来た。
今、あなたは完治し、自分の心は
以前のように安らかになった。
だから、
受ける資格のない対価を払って
再び自分の心を
重くしないで欲しいと頼みました。
彼は苦笑いを浮かべると、
自分は何であなたを
引き止めればいいのかと尋ねました。
ローラは瞬きをしました。
アシュトン氏は、
ローラの義務が終わったので、
二度と訪れないことは分かっている。
セシリアは寂しく思うだろう。
彼女は、あなたのような存在を
持ったことがない。
きっと空虚さを感じるだろうと
言いました。
ローラは、
あなたを取り戻したので、
もうセシリアは大丈夫だと
返事をしました。
彼は寂しげな目で
ローラを見つめると、
それでは・・・自分は
これからどうすればいいのかと
尋ねました。
ローラの脳裏に、
来るべきものが来たという考えが
よぎりました。
彼はローラが訪問する度に
言動に注意を払いました。
昔話を切り出すこともなく、
過度に彼女を褒めたり
好意を示したりもしませんでした。
しかし、ローラは感じていました。
病人でありながら、
いつも髪をきれいに梳かし、
髭を剃り、良い香りのする
基礎化粧品を塗って
自分を待っている姿。
自分が現れる度に明るくなる
彼の表情。
セシリアと仲良く過ごす姿を
見守りながら、
希望に胸を膨らませる眼差し。
彼は12年前に切れた絆を
再び繋ぎたがっていました。
彼にとって自分は何なのか。
裏切られてもなお、
彼のことを片時も忘れず
彼だけを待っている愚か者だと
思っているのだろうか。
ローラの表情が
落ち着きを取り戻しました。
ローラは、
あなたは若くて有能で
素敵な男性だ。
きっとあなたを愛してくれて、
セシリアにとって
良い母親になってくれるような
女性に出会えるだろうと
言いました。
彼は「ローラ」と呼びました。
ローラは、
あなたが完治して本当に良かった。
バースを離れる前に
一度手紙をくれるように。
見送りに行くのでと告げると
ローラは席を立ちました。
その時、彼の手が
ローラの腕を痛くない程度に
掴みました。
アシュトン氏は、
「行くの?」と尋ねました。
ローラは、
セシリアに別れの挨拶をする。
子供には分かりやすく説明すると
答えました。
アシュトン氏は、
もう6時だから、
後で一緒に外へ出て
夕食を食べないかと誘いました。
ローラは、
申し訳ないけれど
友達と夕食の約束があると
礼儀正しく断り、
彼の腕を押し退けようとしました。
しかし、彼は
ローラを手放しませんでした。
アシュトン氏は、
これが最後なら、
自分に少し時間を与えて欲しい。
5分。たった5分だけ、あなたに
話さなければならないことが
あるからと訴えました。
ローラは、
何の話かと尋ねました。
アシュトン氏は、
12年前、
あなたを迎えに行かなかった
理由だと答えました。
ローラは、
アシュトン氏をじっと見つめました。
彼はまるで
懇願するかのような眼差しで
彼女を見上げていました。
12年前、
一緒に逃げようと誘った時の
あの顔とまったく同じでした。
ローラは、もしかしたら彼は
自分を心から
愛していたのかもしれないと
思いました。
それなら、なおさら変でした。
彼は、なぜ現れなかったのか。
なぜ何の説明もなく、12年間も
自分を放っておいたのだろうか。
今日が、この人との最後なら、
その理由を聞きたいと思ったローラは
ゆっくりと再び椅子に座りました。
そして、両手を膝の上に静かに重ねて
話すよう促しました。

ジョン・アシュトンは、
12年前の出来事を
鮮明に覚えていました。
トランクに荷物を詰めながら感じた
希望と期待。
ローラを迎えに行くために呼んだ
貸切馬車を待ちながら感じたときめき。
そして、貸切馬車の代わりに
到着した四輪馬車から一斉に降りた
グランチャード夫人の手下たちに
誘拐された時に感じた戸惑い。
その夜、ジョンは夜明けまで
人里離れた別荘に
閉じ込められていたと話しました。
地獄のような時間でした。
今頃ローラは、
ハイドパークにいるだろう。
いつ来るかは分からないけれど
自分が現れるのを待っているだろう。
どれほど不安を感じているだろうか。
どれほど絶望的だろうか。
どれほど失望しているだろうか。
ローラの元へ
すぐに駆けつけられない状況で、
彼は、むしろ死にたい気持ちさえ
抱いたと話しました。
朝が過ぎて正午になりました。
彼が閉じ込められている部屋に
誰かが訪れました。
ジョン・アシュトンの両親でした。
支援者のグランチャード夫人が、
評判の悪い女性と結婚しようとする
後見人を正しい道へ導こうと彼を誘拐し
その後、両親を呼んだのでした。
二人は泣き叫びながら懇願しました。
ローラと結婚したら死ぬとまで
脅迫までしました。
彼は耐えようとしましたが、
生涯に渡る過酷な肉体労働で
病に蝕まれた父親と、
九人もの子供を食べさせて
育てるために
疲れ果ててしまった母を
見捨てることはできませんでした。
彼は結局、
グランチャード夫人が紹介してくれた
裕福な女性と結婚する道を
選びました。
結婚後、自分は妻を
愛することができなかった。
彼女には申し訳ないけれど、
自分の心の中にはいつも
あなたがいたから。
彼女はあなたの存在を知っていた。
ロンドンで広まっていた噂を
聞いたのだろう。
自分たち夫婦の間は
いつも戦争のようだった。
彼女は自分の中にある
あなたの記憶を消そうと
絶えず努力した。
夜明けから起きて身支度を整え、
何でも自分に合わせようとした。
そうかと思えば、
突然怒って物を投げつけた。
自分を偽善者、浮気者と呼んだ。
彼の顔には
罪悪感の影が差していました。
自分が、うとうとしながら
あなたの名前を呼んだと。
赤金色の髪を持つ女性を見て
自分が呆然とするのだと。
自分は気づいていなかったけれど
妻はいつも自分を見ていたので、
すぐに気づいた。
彼女が早くに亡くなったのは
全て自分のせい。
彼女は自分を憎み、あなたを憎み、
そして最終的には
自分自身を憎むようになった。
自分が魅力的でないから、
昔の恋を忘れられないのだと。
彼女は自分を愛していた。
だから、自分が完全に
自分のものになれないという事実に
耐えられなかった。
彼女は心の病で体まで壊してしまい、
肺結核にかかると、病気に勝てず
天国へ行ってしまったと話すと
彼の目に微かに涙が浮かびました。
12年間あなたに自分の事情を
説明できなかったのには、
様々な理由がある。
あなたに申し訳なく思っていたし
もし義父に知られたら
自分を許さないだろうという思いで
怖くもあった。
しかし何よりも
妻に申し訳なく思っていたから。
手紙であっても、
あなたと再び繋がることは
浮気と同じだからと話す彼の頬に
一滴の涙が流れました。
ローラは静かに話を傾聴しました。
外見は冷静を装っていましたが、
ローラの心は様々な思いで
複雑になっていました。
自分を弄ぶつもりはなかったという
事実を知り、彼を気の毒に思いました。
彼は家族のために
愛を諦めなければならなかったし
12年間、愛していない女性と
不幸な結婚生活を
送らなければならなかった。
さらに、愛する娘は体が弱く、
いつも、子供のことを心配しながら
暮らしている。
しかし同情は、他の感情、
例えば切なさや保護本能、
愛情のようなものには
移り変わりませんでした。
頭では彼を気の毒に思っていましたが
心の中では、彼に
同情することができませんでした。
彼は優柔不断でした。
家族を裏切ることができないなら
その決断に忠実であるべきでした。
もう手に入れられない女性を
心から追い出し、
自分の妻となった女性を
愛さなければなりませんでした。
そうしていれば、アシュトン夫人は
亡くならなかっただろうし、
セシリアは
母親を失わずに済んだはずでした。
ローラは、
顔も知らないアシュトン夫人に
大きく同情しました。
中身のない夫と暮らしながら
どれほど落胆したことか。
さらに、彼は葬儀が終わるとすぐに
喪服も脱がずに
昔の恋人を訪ねて来ました。

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ジョン・アシュトンは
奥さんについては
事実を話しているけれど、
彼が奥さんに本当に申し訳ないと
思っていたかどうかは甚だ疑問です。
その気持ちが少しでもあるなら、
奥さんの葬儀が終わってすぐに
喪服姿のまま、ローラを
訪ねてきたりはしないと思います。
ジョン・アシュトンは
イアンが顧問弁護士を依頼したほど
優秀な弁護士なので
人を惹きつける話術に
かなり長けていると思います。
ローラの気を引くために、
僅かな事実を脚色して
伝えているように思います。
ローラが彼に惑わされずに
奥さんに同情するほど
賢明な人で良かった。
これで、ローラは
ジョン・アシュトンとの過去のことを
完全に吹っ切れるのではないかと
思います。