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185話 バスティアンはオデットの家を去りました。
二人は一緒に川沿いを歩きました。
トランクを持ったバスティアンが
先頭に立ち、
オデットはその後に続きました。
たかだか一歩の隔たり。
その気になれば、
いくらでも縮めることができましたが
オデットは届きそうで届かない距離を
守りました。
ジェンダス家の別荘を訪問して
アルマを教える日でした。
レッスンの時間まで、
まだ十分、余裕がありましたが
オデットは早めに家を出ました。
バスティアンを見送るために
下した決定でした。
オデットは途方に暮れたような眼差しで
だんだん近づいて来る
分かれ道を見つめました。
バスティアンを迎えに来る車は
新道へと続く村の入り口で
待機しているとのことでした。
このままずっと小川に沿って行けば
辿り着く所でした。
しかし、
ジェンダス家の別荘に行くためには、
次の角を曲がって、
丘を越えなければなりませんでした。
車が待っている所まで同行しても
時間は十分ありましたが
オデットは、いたずらに
意地を張らないことにしました。
去って行くバスティアンの足取りが
重くなるのは嫌だから。
オデットは、この瞬間を悲しみとして
残したくありませんでした。
平穏な日常のひと時のように
別れたいと思いました。
たとえ始まりは滅茶苦茶で、
一緒に過ごした時間のほとんどが
傷と悔恨に塗れていたとしても
最後の瞬間だけは、
6月の日差しのように美しかったと
この結婚を回想できるように。
分かれ道が近づくにつれ、
オデットの歩みは
遅くなって行きました。
そうして、
次第に大きくなって行った隔たりは、
しばらくして再び狭まりました。
バスティアンが歩みを
遅くしてくれたおかげでした。
けれども、最後まで
後ろを振り向きませんでした。
その無情で優しい男の背中を見つめる
オデットの顔の上に
微かに笑みが浮かびました。
とても良かったと、
美化することはできない時間でしたが
それでも確かに輝く瞬間がありました。
オデットは、その光でバスティアンを
記憶できるようになりました。
もはや、
そんな自分を恥じて傷つくことなく
一点の曇りもない心で。
いつのまにか別れ道は、
あと10歩も残っていないほど
近くなっていました。
オデットは、
力を込めて閉じた目を開けて
涙を消しました。
息を整え、
風で乱れたドレスの裾も整えました。
髪を下ろした方が良かったと
後悔したのは、
分かれ道に到着した後でした。
念入りに結い上げた髪を
撫でていたオデットは、
諦めたように手を下ろしました。
そして、
バスティアンの後を追っていた足を
止めました。
身だしなみを整えている間に
バスティアンが振り返りました。
家を出てから初めて
互いに顔を合わせるようになった
瞬間でした。
バスティアンは斜め下に視線を落として
オデットを見ました。
風に揺れる柳の影が、ゆらゆらと
向かい合った二人の頭上に
落ちていました。
自分は、もうこちらへ
行かなければならないと、
オデットは優しい笑みを浮かべたまま
自分の行く方向を指差しました。
バスティアンは目を細めて
丘の向こうに続く道を一瞥しました。
彼は、
ジェンダス伯爵の所へ向かう
道のようですねと確認しました。
オデットは、
はい。
アルマのレッスンがある日だからと
落ち着いて答えて、両手を組みました。
バスティアンは、
しばらくトランクを木陰に置き、
将校帽を脱いで
オデットの前に近づきました。
「ごめんなさい、バスティアン」
オデットは勇気を振り絞って
長い間心の奥底に秘めていた
言葉をかけました。
オデットは、
あんな風にあなたを裏切ったのは
弁解の余地のない過ちだった。
自分が利己的で愚かだったと
謝りました。
バスティアンは、
その件については、
すでに十分に謝罪していなかったかと
返事をすると、頭を傾けて
オデットと視線を合わせました。
彼女は、それを否定しました。
そして、
当時の自分は、
何に対して謝罪すべきなのか、
正しく理解していなかった。
ただ、窮地を脱することに
必死だったのだと思う。
それ以降は、謝罪も許しも
もはや無意味だと正当化をして、
逃げ続けて来たと、
必死に隠し続けてきた自らの恥部を、
謙虚にさらけ出しました。
今まで、卑怯にも
逃げまくっていました。
それでも構わないのだと。
バスティアンが犯した過ちの陰に
隠れれば、
可哀想な犠牲者になれるかもしれないと
無意識のうちに
分かっていた気もしました。
オデットは、
赤くなった目を上げて
バスティアンを見つめながら、
彼を傷つけ、苦しめたことを謝り、
あの時の未熟だった自分を
許してくれるかと尋ねました。
オデットは、もう一度
目を瞑ればいいことを知っていました。
そうすれば、すべての責任を
バスティアンに押し付けて
終わらせることができました。
しかし、オデットは、
心の借金を残して背を向ければ、
一生後悔することになるということを
知っていました。
「目を閉じないで」
自らを守る方法を教えてくれた
男の助言を
オデットはもう一度噛み締めました。
そして、より真っ直ぐで澄んだ目で
標的を見据えました。
オデットをじっと見つめていた
バスティアンは、
それでは、オデット嬢も自分を
許してくれるかと聞き返しました。
事務的な口調とは裏腹に、
眼差しは穏やかでした。
二人は沈黙の中で
互いを見つめ合いました。
その間に、
水浴びをしに来た子供たちが
小川に飛び込みました。
楽しそうに水しぶきを上げる音が
朝の静寂を破りました。
これ以上遅れるのが難しくなった頃
オデットは
「はい、そうします」と頷きました。
9時15分前。
すでに軍用車が
到着しているはずの時間を確認した
バスティアンは、
一層深まった眼差しの中に
オデットを閉じ込めました。
オデットは、
それでは、互いに許し合って
仲直りすることにすると告げると
笑顔で手を差し出しました。
遅ればせながら
その意味に気づいたバスティアンは
無防備な笑みを浮かべながら
握手に応じました。
力強く握り合った両手の上に
柳の葉の間を通り抜けた日差しが
降り注ぎました。
「バスティアン」とオデットが囁く声が
子供たちの笑い声と共に
流れて来ました。
この女性が呼んでくれる名前を
二度と聞けなくなることに
ふと気づいたバスティアンの瞳に
微かな動揺が走りました。
オデットは、
あなたは自分を台無しにしていないと
言って笑いました。
赤ちゃんとマルグレーテに起きた不幸も
あなたのせいではないと言って
身に沁みるほど美しく笑いました。
それからオデットは、
あなたを恨んだのは
自分の本心ではなかった。
だからバスティアン、
もう悪夢から覚めてもいいと
言いました。
目が少し赤くなりましたが、
オデットは概して落ち着いていて
毅然としていました。
バスティアンは、
喉元まで込み上げて来た熱い感情の塊を
飲み込みながら頷きました。
オデットは安堵の表情で
バスティアンの手を離しました。
砂のように
指の間からこぼれ落ちて行く女を
バスティアンは、どうしても
捕まえることができませんでした。
もう限界でした。
この女の僅かな仕草一つで
ガラガラと崩れてしまいそうでした。
もしかしたら、
それを望んでいるような気もしました。
愛している。 あなたを愛していると
声を張り上げて叫びながらでも
すがりつきたくなった瞬間、
オデットが、
自分は過去の日々を忘れて
しっかり生きて行く。
だから、あなたもそうであって欲しい。
さようなら、バスティアンと
別れを告げました。
そして、オデットは
皇女が台無しにしたワルツを
締めくくった舞踏会の夜のように、
超然として優雅に、
彼を虜にした誇り高い女王のように
一歩後退して、頭を下げました。
丁重なお願い、あるいは傲慢な命令。
いずれにせよ
拒否する道はありませんでした。
本来の顔色を取り戻したバスティアンは
喜んで頭を下げて礼を返しました。
しばらくの間、
バスティアンを見つめていた
視線を外し、オデットは
沈黙の中、踵を返しました。
そして日差しの溢れる道を
歩き出しました。
背中に視線を感じましたが、
振り返りませんでした。
首をピンと伸ばして、
ひたすら前に進みました。
バスティアンへの唯一の贈り物でした。
夫が去った水曜日。
空が眩しかった。
あまりにも美しくて
心が悲しくなる日でした。

オデットは空高く舞い上がる
鳥のように去って行きました。
新たなスタートに向かって。
一抹の未練もなく。
バスティアンは、
去って行くオデットから視線を外して
背を向けました。
じっと目を閉じたまま呼吸を整え
トランクを持ち上げました。
残り時間はあと10分。
腕時計を確認したバスティアンは
急いで足を早めました。
もう全て終わったと思っていました。
自分の意志とは関係なく、
だんだん遅くなって行った歩みが
結局止まってしまうまでは。
バスティアンは、
小川に架かる橋の上で
立ち止まりました。
これといった表情のなかった顔が
徐々に歪んで息が苦しくなりました。
胸が痛くて
息がよくできませんでした。
肉が引き裂かれて
骨が砕けるようでした。
この苦痛は偽りだと、
繰り返し繰り返し考えてみても
同じでした。
バスティアンは、
再び、全力で歩き始めました。
しかし、数歩も歩けず、
再び立ち止まってしまいました。
よく磨かれた靴のつま先に反射した光が
血走った目を刺しました。
バスティアンは、迷子のような顔で
遠い空を見つめました。
固く閉ざされていた唇が
痙攣するように震えました。
帽子とトランクを
力いっぱい握り締めた両手も
同じでした。
バスティアンは結局、
後ろを振り返りました。
いつの間にかオデットは
丘の中腹を
通り過ぎようとしていました。
もう少しで
彼女が見えなくなるはずでした。
バスティアンは足を止めて、
去って行くオデットを見つめました。
風に揺れる白いドレスの裾が
まるで羽のようでした。
目に眩いほど美しかったです。
自分が与えた翼だと思うと、
涙のような笑いがこぼれました。
オデットは振り返ることなく
丘の向こうに姿を消しました。
しかし、バスティアンは、
その後もしばらく
その場に留まっていました。
苦しみが悲しみとなり、
その悲しみがついに喜びとなるまで。
自分が台無しにして、
自分が守った私のオデット。
かすかな笑みを浮かべたバスティアンは
その一つの意味だけを胸に、
再び歩き始めました。
9時10分。約束の時間は
とっくに過ぎていました。
手に持っていた将校帽をかぶった
バスティアンは
大股で橋を渡りました。
間もなく向こうから近づいている
二人の男と遭遇しました。
彼を探しに来た
海軍省の将校たちでした。
彼らは安堵の表情で敬礼しました。
短い謝罪の言葉を伝えた
バスティアンは、先頭に立って、
それほど遠くない所に止まっている
軍用車に向かいました。
クラウヴィッツ少佐を乗せた車は
スピードを上げて
ロスバイン郊外の村を離れました。
そして2日後の金曜日、
特別訓練のために、
プラター川で待機中だった
ベルク海軍の主力艦隊が
トロサ諸島に向けて出航しました。
指揮官は北海の英雄、
バスティアン·クラウヴィッツでした。
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バスティアンがなぜ
オデットを好きになったのか。
お金のために古物商の娘と結婚し、
お金を手に入れると、
貴族の血を引く子供が欲しくなり
テオドラと共に
バスティアンの母親の命を奪った
父親を持つバスティアン。
娘の命を奪われ、かつての婿に
復讐しようする祖父を持ち、
その祖父の執念を受け継いだ
バスティアン。
そんなドロドロの環境の中、
バスティアンは
世間や周りの人々に対して
ひねくれた考えを持っていたのだと
思います。
だから、貧しくても高潔で、
嘲笑されても品位を保ち、
お金持ちのバスティアンと結婚しても
彼からお金や物を要求することがなく
弱いものに情けをかける
優しいオデットに
惹かれたのではないかと思います。
本当は自分もオデットから
情けをかけて欲しかったのに、
彼女のために、
その気持ちを捨てたバスティアン。
彼女に契約の終わりを宣言して
割り切ったつもりだったけれど
それでも、彼女の姿を見たくて
振り返ってしまったバスティアン。
もしもオデットが振り返ったら
バスティアンは彼女に駆け寄って
抱き締めたかもしれません。
でも、オデットは、そうさせないために
振り返らなかったのですよね。
そして、オデットも、
この数日間、バスティアンと
本当の夫婦らしい生活を送ったことで
ようやく自分の心の恥部と
向き合うことができました。
それなのに離婚だなんて。
Solche様のお話は
ハッピーエンドで終わるので、
このお話もそうなのでしょうけれど
2人の別れが切な過ぎます。
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