
132話 ローラのおかげでハイド嬢の人生は変わりました。
ハイド嬢は、こんなに美しい街で
以前なら想像もできなかった額の
お金を稼ぎながら、
充実した日々を過ごしていました。
それだけではありませんでした。
彼女は小説を書いていました。
狭いタウンハウスで
家族に荷物扱いされながら
暮らしていた頃は、
せいぜい日記を書いたり、
文章を書き殴っていた程度でした。
彼女の魂は
牢獄に閉じ込められており、
閉じ込められた魂にとって
自由な創作は不可能な作業でした。
その後、就職して、
一人暮らしを始めた彼女は
頭の中にふと浮かぶ様々な着想を
ゆっくりと書き留めて行きました。
肉付けさえすれば、
十分、立派な物語になりそうな
アイデアでした。
そしてローティス嬢に会った日、
彼女は初めて小説の最初のページを
書き始めました。
バースに来て三ヶ月目、
昨夜、ハイド嬢は小説の最後に
「THE END」と書き加えました。
ローティス嬢に見せれば、
出版社を紹介してくれるだろう。
ペンドルトン嬢に見せれば、
有益なアドバイスももらえるだろう。
しかし、ハイド嬢は、
小説を誰かに見せるのを
躊躇いました。
正直に言うと、穴を掘って
永遠に埋めておきたいと思いました。
小説の中に、
自分の内面が、あまりにも多く
入ってしまったからでした。
ハイド嬢は小説の内容を思い出し、
顔を赤らめました。
彼女は手で顔を扇ぎながら
足早に歩きました。
カフェから100メートルほど
歩いただろうか。
「ジェーン」と
馬車から彼女を呼ぶ声が
聞こえて来ました。
ハイド嬢は、そちらへ
顔を向けました。
貸切馬車に乗ったローティス嬢が
窓越しにハイド嬢を
見つめていました。
ハイド嬢はローティス嬢に
どうしたのかと尋ねました。
ローティス嬢は、
雨が降って地面がぬかるんでいるので
迎えに来たと答えました。
ハイド嬢は満面の笑みを浮かべて
馬車に乗りました。
ハイド嬢はローティス嬢に
ペンドルトン嬢の具合について
尋ねました。
ローティス嬢は、
温めたワインを飲んで
天使のように眠っていると答えると
可哀想な人。
なぜ、コートを失くしてしまったのかと
呟きました。
ハイド嬢は
「そうですね」と相槌を打ちました。
彼女は、ダルトン氏と
話している時とは全く違って、
ニコニコ笑っていました。
ローティス嬢が自分に好意を示す度に
ハイド嬢は、
雲の上を漂っているかのように
幸せになりました。
一方、ローティス嬢は
非常に不機嫌そうに見えました。
彼女はコートのポケットから
シガレットケースを取り出し、
その中のタバコを一本咥えると、
一人でコーヒーを
一杯飲んで来ると言っていたけれど
実は先約があったのかと尋ねました。
ローティス嬢はカフェの前で
ハイド嬢がダルトン氏と出て来るのを
見たようでした。
ハイド嬢は、うなじを掻きました。
ハイド嬢は、
実は知られてはいけないことだけれど
あの人はダルトン氏で、
ペンドルトン嬢を慕っている
例の紳士だと答えました。
ローティス嬢はマッチを擦りながら
なぜ彼があなたを訪ねて来たのかと
聞きました。
ハイド嬢は、
ペンドルトン嬢の近況を
聞きたがったと答えました。
ローティス嬢は、
火の点いたタバコを吸いました。
すぐに彼女の赤い唇から
微かな煙が立ち上りました。
ローティス嬢は
彼がペンドルトン嬢の近況を
聞きたがっているのか。
ふむ、そうなんですねと呟くと
頷きました。
しかし、彼女の表情は
納得したというよりも
不快感が強く見えました。
ハイド嬢はローティス嬢に、
何か良くないことでもあったのかと
尋ねました。
ローティス嬢は首を振りました。
そして、
彼と会ってみてどうだったか。
ペンドルトン嬢への切なる愛は
変わっていないのかと尋ねました。
ハイド嬢は、
ええ、まあ、そんな感じだった。
自分を差し置いて、アシュトン氏と
結婚するのではないかと
毎日心配しているようだと
答えました。
ローティス嬢は、
ダルトン氏が腹立ちまぎれに
あなたに
プロポーズするかもしれないから
気をつけろと警告しました。
ハイド嬢は驚いて飛び上がりました。
彼女は
何て、とんでもないことを言うのかと
抗議しました。
ローティス嬢は、
男性は女性に振られた後、
プライドを取り戻すために
近くにいる女性に、いきなり
プロポーズする傾向があると
言いました。
ハイド嬢は、
世界で一番馬鹿げた話だと
返事をしました。
ローティス嬢は、
その理由を尋ねました。
ハイド嬢は、
ペンドルトン嬢のように
完璧な女性を愛した人が、
どうして自分を愛せるのか。
自分は彼女の足元にも及ばないと
答えました。
ローティス嬢は、
それなら、もし彼がプロポーズしたら
受け入れるかもしれないという
ことなのかと尋ねました。
ハイド嬢は目を大きく見開いて
なぜ、そういう話になるのかと
聞きました。
ローティス嬢は、
今、彼のことを嫌いだと
言わなかったからと答えました。
ハイド嬢は、
自分が好きか嫌いかは重要ではないし
どうせ彼は
自分にプロポーズしないのに、
自分の意向の何が重要なのかと
尋ねました。
ローティス嬢はしかめっ面をし
黙ってタバコを吸いました。
ハイド嬢は呆れました。
時々、ローティス嬢は
このように理解しがたい行動を
取ることがありました。
前回もそうでした。
ロンドンにいた頃、
自分にプロポーズした
紳士がいることを知り、
その男性がどんな人なのか、
なぜ断ったのか、
今、彼をどう思っているのかと
根掘り葉掘り聞かれました。
そして何が気に入らなかったのか、
半日間、
自分と口を利きませんでした。
彼女は理解できない人。
ハイド嬢は彼女を尊敬していましたが
この予測不可能な性格のために
安心できませんでした。
ハイド嬢は、
彼女の左側に寄り添って座りました。
そして優しく左肩と腕を
揉んであげました。
彼女は杖をついているせいで
いつも左腕と肩が
少し凝っているからでした。
最初、ローティス嬢はハイド嬢を
押し退けようとしました。
しかし、ハイド嬢は気にせず、
ずっと腕を揉んであげました。
やがて、ローティス嬢の表情が
徐々に和らぎました。
ハイド嬢が腕を組んで
愛嬌を振りまくように
彼女の肩に頬を擦り寄せると、
彼女は、
すっかり気分が良くなったように
笑いました。
彼女は、
可愛い甥にするように
ハイド嬢の頬を軽くつねりました。
ハイド嬢は彼女の手つきが
好きであると同時に
少し寂しい気持ちも感じました。
この人は、
まるで可愛い子犬のように
自分のことが好き。
この人にとって、自分は
尻尾をよく振る
可愛いペットの犬のような
存在なのだろう。
ハイド嬢はローティス嬢から、
それ以上の意味を見出すことは
できませんでした。
彼女はなおさらローティス嬢に
自分の原稿を見せる勇気が
ありませんでした。
はたして、
飼っている犬が書いた小説を
真剣に受け入れてくれるだろうか。
いや、むしろ馬鹿にされるだろう。
ハイド嬢は、
それを想像するだけで落胆しました。
ローティス嬢以外で
原稿を見せられる人は
一人だけなのに。
ハイド嬢はローティス嬢が放つ
心地よいタバコの香りを嗅ぎながら
じっくり考え込みましたが、
すぐに、自分の原稿を
ペンドルトン嬢に見せようと
固く決意しました。

風邪で寝込んでから二日目。
ローラは徐々にベッドから
起き上がれるようになりました。
パニーズホテルでの愚かなミスで
コートも着ずに歩いて帰って来た日
ローラは風邪を引いて
寝込んでしまいました。
ローティス嬢は、
急いで医師と看護師を手配し、
ハイド嬢は、風邪に良いと言われる
鶏肉と生姜のスープと
ハーブティーを用意して
ローラの口に注ぎ込みました。
看護師が常駐しているにもかかわらず
彼女たちは頻繁に部屋を訪ねて来ては
ローラに本を読んであげたり、
暖炉に薪をくべたり
おやつを買って来てくれて
治療を手伝いました。
ローラの体温を測った
看護師のローバー夫人は頷くと、
もう、ほとんど治った。
悪寒もなく、頭痛も消えた。
熱は少しあるけれど、
あと数日休めば自然に下がると思うと
告げました。
ローラは熱い暖炉のせいで
頬を真っ赤にしながら
お礼を言いました。
ローバー夫人は、
自分が何かしたわけではない。
友人たちが大騒ぎしたせいで、
風邪の方も、
ここは自分の居場所ではないと言って
逃げたのだと告げると、
フフッと笑いながらコートを着ました。
外は、すでに日が沈みかけており、
退勤する時間になっていました。
ローバー夫人は、
用意しておいた薬を必ず飲むように。
絶対に寒い場所に外出したり、
無理に体を
動かしたりしてはいけない。
早めに休むように。
あなたのように寒さに弱い体質の人は
少し良くなったからといって
ケアを怠ると病気が長引く。
肺炎や熱病のような
重い病気になることもあると
警告しました。
ローラは、
肝に銘じると答えました。
ローバー夫人は部屋を出ました。
ローラは、ベッドの背もたれに
もたれかかりました。
そしてハイド嬢が
鉱泉水ホールの向かいの
ベーカリーで買って来てくれた
マカロンの箱の中から
レモンマカロンを取り出して
食べました。
この二日間、
ローラは手厚い看護を受けました。
それは、とても新鮮な経験でした。
彼女は、
いつも誰かを助ける人でした。
寮時代には、
勉強に苦労している友人たちを助け
アビゲイル夫人と暮らしている間は
祖母の健康を気遣い、
社交界では友人たちの結婚を支援し
チャリティーイベントで困っている
近隣の人々を助けました。
誰かを助けることで、彼女は
自分の価値を証明しようとしました。
自分に刻まれた生まれつきの烙印を
「良い人」という修飾語で
隠そうとしたのでした。
だから誰かに助けられる度に
彼女は感謝しつつも、心のどこかで
居心地の悪さを感じていました。
しかし、助けを受けることは
悪いことではありませんでした。
嬉しくて感謝すべきことでした。
過去、他人からの助けを
借金のように感じていた心は、
ローティス嬢とハイド嬢に
介護されているうちに
溶けて消えました。
そして、その場所に
友達への強い愛情が根付いていました。
こんな友達がいるのは幸運なこと。
ローラは、もう一つ、
ラズベリーマカロンを取り出して
食べながら、そう考えました。
その時、ドアをノックする音と
「眠っていますか?」という声が
聞こえて来ました。
ローラは、マカロンの屑が
付いているかもしれないと思って、
急いで口元を拭いてから
「いいえ。お入りください」と
返事をしました。
端正なシルエットの
白いレースのドレスを着たまま
ハイド嬢が部屋に入って来ました。
ハイド嬢はバースに来てから
服装がとても素敵になりました。
バースの洗練された雰囲気の中で、
自分自身を飾る方法を
学んだようでした。
もともと背が高くて細身の人でしたが
その上に美しいドレスを羽織ると
まるで、
カタログのモデルのようでした。
彼女は、
恥ずかしさと緊張が入り混じった
ぎこちない表情で
ローラに近づきました。
胸には 赤ちゃんを抱くように大切に
紙の束を抱えていました。
ローラは不思議そうな顔で
紙の束を見つめました。
ハイド嬢は、
ローラが休む前に、
本を読んであげたいと提案しました。
ローラは、
ハイド嬢の朗読は
いつでも大歓迎だと答えると、
彼女が手にしている物について
尋ねました。
ハイド嬢は顔を赤らめながら、
自分の原稿だと答え、
ローティス嬢ではなくペンドルトン嬢に
先に読ませてあげたいと言いました。
ローラは一瞬驚きましたが、
すぐに満面の笑みを浮かべながら、
ついに読ませてくれるのですね。
もしかして完全に書き終えたのかと
尋ねました。
ハイド嬢は「はい」と答えました。
ローラは期待に胸を膨らませながら
ベッドのそばのスツールに座ることを
勧めました。
ハイド嬢はスツールに座りました。
その表情は、
絞首台に立つ罪人のようでした。
ローラはハイド嬢に、
何をそんなに緊張しているのか。
自分は全面的に
ハイド嬢の味方をする読者だと
主張しました。
しかし、ハイド嬢はため息をつくと
本について造詣の深い
ペンドルトン嬢は、
おそらく、自分の書いた話が
12歳の子供が書いた馬鹿げた話に
聞こえるだろうと呟きました。
ローラは、
そんなことはない。
いえ、仮にそうだったとしても、
どうでもいいではないか。
ハイド嬢は、この小説を
楽しく書きましたよね?
文章を書きながら幸せになれるなら
次の本はもっと良くなるだろうし
その次の本は、さらに良くなり
いずれは完璧な小説を
書けるようになるだろう。
だから、心配せずに読んで欲しいと
促しました。
ハイド嬢は応援の声に
少し緊張がほぐれたようでしたが
依然として恥ずかしそうな表情で
最初のページを開きました。
彼女の朗読が始まりました。
中編小説の分量で、朗読するのに
約2時間かかりました。
ペンドルトン嬢は
ベッドに背中を預けながら、
ハイド嬢の話に耳を傾けました。
時間が経つにつれて
ハイド嬢の声が、かすれて行きました。
しかし、ローラは、
それに気づくことができませんでした。
小説のストーリーが
想像を絶するものだったからでした。

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ロンドンの社交界は、
固定観念を持つ人たちばかりで
ローラも同じ考えに
凝り固まっていたけれど、
そこから離れたことで、ローラは
色々な価値観を持つ人たちと
出会うことができ、彼女自身、
良い方向に変化していることが
嬉しいです。
そろそろ、結婚観も変化する頃かな?
と期待しています。