517話 一方、ラティルと別れたサーナット卿は・・・
◇変化◇
サーナット卿が怪物の首に向かって
最後の一撃を放つと、
そこから飛び散った血で、
再び全身が濡れました。
地面に着地したサーナット卿は
ハンカチを取り出して、
顔に付いた血だけを
かろうじて拭きました。
しかし、ハンカチが湿っただけで、
何の役にも立ちませんでした。
避難していた人たちは、
頭からつま先まで血まみれの
サーナット卿を見ると驚き、
彼も怪物だと誤解して遠ざかりました。
苦々しく笑ったサーナット卿は、
ハンカチをたたんで胸の中に入れた後、
近くの鐘塔に上がると、
近衛騎士団長のサーナットだと
自己紹介をしました。
兵士も、
血まみれのサーナット卿が
すっと横に現れると
悲鳴を上げましたが、
彼が無愛想な声で自己紹介すると、
ようやく「はい」と返事をしました。
彼は、サーナット卿が
怪我をしたみたいだと心配しましたが
サーナット卿は、
怪物の血だと答えました。
兵士がハンカチを差し出したので、
サーナット卿は、
それで湿った顔と首筋、
髪の毛を拭いた後、
兵士にハンカチを返しながら肩を叩き、
危急な状況の中、屈することなく、
その場を守ってくれたことを
労いました。
サーナット卿は、
普通の人間であるにもかかわらず、
その場を守っていた兵士を
本当に素晴らしいと考えていました。
兵士は、血でびしょびしょになった
ハンカチをつまみながら、
自分がここにいてこそ、
人々が避難することができるからだと
謙遜しました。
サーナット卿は兵士に、
怪物の状況について尋ねました。
兵士は、
ほとんど鎮圧されたようだ。
歩いている人魚みたいな者たちが、
人々を助けているように見えたと
答えました。
サーナット卿は、
人通りが少なくなった街を見回し、
安堵しました。
負傷した人たちは、
大神官からお守りや聖水を
もらってきた兵士たちが
路地の間から連れて来て保護し、
走って避難できる人たちは、
ほとんど避難所へ行ったようで、
街を歩く人は少なく、
怪物たちも見えませんでした。
サーナット卿は、
それでも今回は、怪物の数が少なく、
素早く鎮圧できたことを
良かったと思いましたが、
鎮圧する前の数分だけでも
負傷者が続出しました。
彼の邸宅だけでも、
二人が即死しました。
それさえも、サーナット卿が、
邸宅で使用人を
ほとんど雇用していなかったために
可能だっただけであり、
多数を雇用していれば、
被害もさらに大きかったはずでした。
サーナット卿は、
これは始まりに過ぎないと思いました。
もし、今回は、敵が試験的に
怪物を少しだけ送ったとしたら、
後には、もっと多くの怪物が
押し寄せてくるのではないかと、
心配になり、
サーナット卿の顔色は暗くなりました。
そうするうちに、サーナット卿は、
ある二軒の二階建ての家の間で
うごめく何かを発見し、
眉をひそめました。
それは遠くから一部だけ見ても
人の形ではありませんでした。
サーナット卿が
一気に鐘塔から飛び降りると、
兵士が後ろから悲鳴を上げましたが
サーナット卿は振り向くことなく、
先程、見たその場所へ
すぐに走って行きました。
そこでは、二匹の怪物が
合体していました。
あれは、一体何なのか。
残った痕跡を見ると、
血人魚たちが退治した
怪物のようでした。
彼らは、怪物が死んだと思って、
死体を放置して行ったようだけれど
二匹の怪物は、まだ生きていて、
合体を試みているようでした。
しかも、二匹が合わさると、
ただでさえ巨大な怪物の大きさが
1.5倍ほど大きくなっていました。
サーナット卿は手を振って
血を振り払うと、再び剣を握りました。
実は、彼は、家に現れた怪物を
退治している時に負傷しました。
どうせ、
大神官の治療を受けられないので、
ラティルに言わなかっただけでした。
その怪我のせいで、
まだ全身がずきずきしましたが、
休むことはできませんでした。
被害が大きくなれば、
皇帝が悲しむと思ったサーナット卿は
剣を持ち上げました。
怪物が完全に合体する前に
切らなければならない。
あの大きさの怪物が走り回ったら
被害はさらに大きくなると思いました。
その瞬間、怪物に駆けつけようとした
サーナット卿は、
身体を押さえつけていた圧迫感が
突然消え、
手足に強い力を感じました。
驚いたサーナット卿は、
片足を踏み出したまま
立ち止まりました。
一体、これは何だろうか?
それだけではなく、
そうでなくても、吸血鬼は、
人間に比べて
視野がはるかに広いけれども、
さらに目が明るくなり
二匹の怪物が合わさっている継ぎ目まで
見分けられるほどでした。
それに、怪物の身体の中にある
血管まで感じられました。
視覚的に見えるわけではないけれど、
血流と怪物の弱点が感じられました。
不思議だけれど、
悪いことではないので、
サーナット卿はすぐに
怪物の急所に向かって進みました。
しかし、怪物を斬った瞬間、
ふと思い浮かんだことで、
サーナット卿の目が
大きくなりました。
まさか、陛下・・・?
◇覚醒?◇
アニャドミスは、
まさかと思いました。
瞳が赤くなっていく皇帝を見て、
唾を飲み込みました。
まだ、あの女の大切な人は
誰も死んでいないのに、
なぜ覚醒症状が起きるのか。
大切な人がそばで死んで、
その人の血を
飲まなければならないのではないかと
当惑しました。
アニャドミスは、
ドミスの記憶を徹底的に探りました。
確かに、
ドミスはアニャが亡くなった後、
彼女の血を飲んで、
彼女を吸血鬼にして覚醒しました。
それなのに、なぜ、あの皇帝は
周りに誰もいない状況で
覚醒しようとするのかと
アニャドミスの頭の中は混乱しました。
アニャドミスは、
単純に皇帝が怒って
瞳が赤くなったのではないかと
考えてみましたが、
人間の身体が、そのようになるはずが
ありませんでした。
それに目だけ変化しているのではなく、
だんだん、ぞっとするような
雰囲気になるのも嫌でした。
あれは一体何なのか。
アニャドミスは、
自分が計算した範囲を超える状況に
しばらく混乱しました。
しかし、彼女に、驚いている時間は
ありませんでした。
あの皇帝の覚醒を
防がなければなりませんでした。
アニャドミスは
皇帝の心を変えるために、
わざと傲慢なふりをして、
本当に攻撃するつもりだったら、
怪物たちを、
たったあれだけの数だけ、
解放しただろうか。
理性を失わずにしっかりしろ。
皇帝ではないかと、
微笑みながら、挑発しました。
しかし、ラティルは少しも動揺せずに
剣を取り出し、すぐに突進しました。
やばい!
黒魔術師のクロウは、
準備していた黒魔術を、
アニャドミスとラティルの間に
投げましたが、
ラティルの近くに行った黒魔術は、
砂のように散らばってしまいました。
あり得ない!
今度はクロウが目を見開きました。
クロウは虚しい手つきで
再び黒魔術をかけてみましたが、
今回も黒い煙は
砂のように散らばってしまいました。
その間、すでにラティルは、
アニャドミスの前に到着し、
剣を振り回していました。
アニャドミスは仕方なく
自分の剣を取り出して
攻撃を防ぎました。
巨大な剣2本がぶつかる音が
地下室に響くと、
クロウは目をぎゅっと閉じました。
目を開けると、
二人の剣は、莫大な力が
両方向から降り注ぐのに耐えられず、
両方とも折れて飛んでしまいました。
その片方が自分の方へ飛んでくると、
クロウは、壺の後ろに頭を隠しました。
クロウは震えながら、
壺の陰から、目だけを出しました。
ラティルは壊れた剣を手放さず、
アニャドミスをすぐに蹴りました。
彼女は、その足をつかんで
折ろうとしましたが、
皇帝はアニャドミスに
足を握られると、彼女を支えにして、
自分の身体を丸ごと持ち上げると、
アニャドミスの首を蹴ろうとしました。
しかし、足が首に届く前に
アニャドミスは
ラティルの足を放し、
クロウが身体を隠している
黒い壺をラティルの方へ蹴りました。
クロウは、
私の壺!
と叫びました。
ラティルはその壺を、
再びアニャドミスの方へ返すと、
持ち続けていた折れた剣を
壺に向かって投げ、打ち砕きました。
私の壺が!
クロウの悲鳴を、
誰も聞きませんでした。
壺が割れると、
真っ黒な煙が噴き出し、
アニャドミスの全身にまとわりつき、
蜂の群れのように彼女を刺しました。
アニャドミスは、
煙を手当たり次第につかんで投げると、
一体、クロウは
壺に何を入れているのかと
怒鳴りました。
しかし、黒い煙が
しつこくまとわりついて
離れようとしないので、
結局、アニャドミスは、
煙をすべて離すことを諦め、
まずラティルの方へ力を放ちました。
アニャドミスが
煙にまかれた隙を狙って
駆け寄ってきたラティルは、
その力に当たって
壁の方へ飛ばされました。
壁にぶつかり、
ドンという音がしましたが、
ラティルは痛くもないのか、
すぐに壁を蹴ると、突進しました。
アニャドミスは、
あり得ない。
本当に覚醒したのだろうか。
このように覚醒するという話は
聞いたことがないと思いました。
アニャドミスは、
500年ぶりに手に入れた自由をかけて
現ロードと死闘を繰り広げる気は
ありませんでした。
そのような戦いは、
自分が勝利する確率が高くなった時に
すべきでした。
しかし、予想とは裏腹に、
相手の実力は、
彼女が手加減しながら
戦えるようなものでは
ありませんでした。
結局、アニャドミスは
ラティルの命を奪っても
構わないという気持ちで、
力を相次いで彼女に注ぎ込みました。
壁がへこんで、
そこからラティルは抜け出せず、
壁の中に押し込まれました 。
アニャドミスは、
壁の中からラティルが出てこないと
安堵して腕を下ろしました。
しかし、安心するや否や、
ラティルが先程より速くなった速度で
飛び出して来ました。
驚いたアニャドミスは
家が崩れても構わないという気持ちで
より大きな力を、
相次いでラティルに注ぎ込みました。
今、命を奪わなければ、
あれがどのように変わるか
分からないという刹那の恐怖が
彼女の背筋をひっかいて
通り過ぎました。
しかし、アニャドミスが力を
皇帝に放つ直前、
お母さんですか?
と、地下室の階段から
泣き叫ぶ子供の声がしました。
アニャドミスに
駆けつけていたラティルが
初めて立ち止まりました。
お父さん?そこにいますか?
クロウはその隙を逃さずに
床に落ちた煙を階段の方に撒きました。
煙は彼が作った
凶悪な怪物の形に変わり、
階段を駆け上がりました。
お母さん!
子供の悲鳴が聞こえました。
取り憑かれたように
アニャドミスを攻撃していた
ラティルの目が揺れ、
すぐに、そちらの方向へ
走り出しました。
アニャドミスはその隙に
クロウの首筋をつかんで
地下通路に入りました。
早く行きましょう、早く!
と急かすアニャドミスに、クロウは、
先ほどの人間の子供を人質に取った方が
いいのではないかと提案しましたが、
アニャドミスは、
自分の国民に手を出されたことで、
覚醒しようとしているのに、
目の前で子供を拉致するなんて、
どうかしているのではないかと
非難すると、クロウは、
自分たちが通り過ぎた地下通路を
隠しながら、
アニャドミスの後を付いて行きました。
彼は、あの皇帝は覚醒しないと
言っていたのにと、
不機嫌そうに呟きました。
アニャドミスは、
覚醒したのか、したつもりだったのか、
できなかったのか分からない。
先ほどは、
覚醒したのかと思ったけれど、
今思えば、明らかに覚醒していない。
自分が覚醒した時、力が爆発して
辺り一面が自分の力に覆われた。
けれども、あの皇帝は
以前に比べて急に強くなったけれど、
自分のようではなかったと
言いました。
しかし、クロウは、
皇帝はロードと対等に戦っていた。
ロードが負けるのではないかと、
どれほど、はらはらしたか
分からないと反論しました。
アニャドミスは、皇帝が
対抗者の剣を使っていたことも、
ギルゴールがあの皇帝を
お弟子さんと呼ぶのも変だし、
ロードに従う人々が皆、
あの皇帝のそばにいるのは、
一体、どうしてなのかと
怪しみました。
いつも自信満々で、
下を見下ろすように、
状況をすぐに把握していた
アニャドミスが、
初めて混乱する姿を見せると、
クロウは、
覚醒を防ぐために、捕まえた人質に
手もつけなかったけれど、
タリウムに少し手を出しだけで、
あのようなことになるなんて、
どうしたらいいのか。
あのまま、覚醒してしまったら、
パワーが違いすぎると
元気のない声で呟きました。
アニャドミスは、
怪しいから嫌だけれど、
議長を探さなければならない。
あの皇帝の正体が何なのか
突き止めなければならないと
言いました。
果たしてラティルは
覚醒したのでしょうか?
大事な人を失うと覚醒するというのは
間違っていないと思います。
ただ、その対象が誰であるかは、
それぞれ違うと思います。
ドミスは、
どんな時でも自分を大切にしてくれた
大事な親友を失ったことで覚醒したので
アニャドミスは、
ラティルもそうだろうと思い、
彼女を覚醒させないために、
タッシールやクラインを拉致したけれど
皇帝であるラティルは、
誰か一人に対する愛よりも、
国や国民に対する愛の方が強いように
思います。
だから、国民に危機が迫ると、
危険を顧みず、
自ら出て行って戦うのだと思います。
ラティルは愛する国民を守るために
避難所を作ったり、
大神官に大量のお守りや
聖水を作らせるなど、
人々に苦労をかけて来ました。
そして、怪物に襲われて
怪我をした人たちを
目の当たりにしました。
それなのに、アニャドミスが
取り引きをするために、
怪物を送り込んだと言い、
おそらく、それは
彼女の言い分を飲まなければ
さらに怪物を送り込むという
内容だと推測したラティルは、
アニャドミスに、
かつてない程の怒りを
覚え、覚醒したのではないかと
思いました。
でも、アニャドミスが言うように、
もしかしたら、完全には
覚醒していないのかもしれません。
アニャドミスが、
自分が覚醒した時と言った時、
覚醒したのはドミスで、
対抗者のアニャ自身は
覚醒していないのではないかと
思いましたが、
ドミスの身体の中に入り込んで、
彼女の記憶を持つドミスは、
魂は対抗者のアニャでも、
彼女自身は、すでにロードに
なりきっていることなのかと
思いました。