554話 ラティルに神聖力が効かないのは、中途半端に覚醒したせいではないかとサーナット卿は指摘しました。
◇治療の方法◇
皆、黙って
サーナット卿を見つめました。
彼がもっと話をするのを
待っている様子でした。
しかし、サーナット卿は
これ以上話すことが
ありませんでした。
突然思い浮かんだ考えを
言っただけであり、
彼も正確な原因を知りませんでした。
それでも、あまりに注目されたので
サーナット卿は自信がないけれど、
カルレインは血を利用すると
回復が早くなる。
もしかして皇帝も、
そのように変わったのではないかと
別の意見を出しました。
一行は、しばらく互いに
顔をチラチラ見ていましたが、
数分後、見かねたクラインが
息詰まる思いで、自分の手のひらを
短刀で切ってしまいました。
あっという間に、
彼の手のひらから血が流れ出ると、
メラディムとカルレインは、
同時に顔を逸らしました。
クラインは拳を握りしめて、
ラティルの唇と傷口に手を置き
絞り出すように、
手に力を入れて握ると、
血がだらだら流れ出て
ラティルの口の中と傷の中に
染み込んで行きました。
血を絞り続けていた
クラインの唇が青ざめると、
見かねた大神官は、
血を流し過ぎると
クラインも危険だと言って、
彼の手を取ると、
神聖力ですぐに傷を治しました。
クラインはハンカチを取り出し、
残りの血を拭き取りながら、
皇帝の様子はどうか。
効き目はあったかと尋ねました。
傷口を注意深く見たサーナット卿は
暗い顔で、
傷はそのままだと答えました。
メラディムは額に手を当てました。
グリフィンはラティルの枕元に立ち、
小さな足で肩を突いて、
ロード、起きてください。
と訴えました。
神聖力も血も通じない状況で
皆が困り果て、
雰囲気がさらに沈んだその時、
突然、タッシールは、
うん?
あれをちょっと見てください。
と言いました。
彼が見ている方向を皆が見ると、
タッシールは傷口がある場所の
服を少し持ち上げ、
最初より、傷がましになっていないかと
叫びました。
大神官も腰を屈めて
注意深く傷を見ると、
本当です!
と叫びました。
メラディムは目を丸くし、
大神官が神聖力を注ぎ込んだのが
効果があったのだろうかと尋ねました。
カルレインは、
もう一度やってみて、早く!
と大神官を急かすと、
彼は傷口の近くに手を当てて、
全力で神聖力を注ぎました。
後になって、
疲れてよろめくほどでした。
メラディムは、
すぐに大神官を支えました。
そして、2人は
皇帝の傷を見ましたが、
ラティルの傷は、
先程と少しも変わっていませんでした。
皆、目を見開いて見つめましたが、
回復する様子も見えませんでした。
クラインは目を見開き、
それでは、自分の血のおかげで
治ったのだろうかと呟きました。
そして、タッシールを見つめると、
自分は血をたくさん抜いたので、
今度、血を抜くのは
タッシールの番だと思い、
彼に短刀まで差し出そうとすると
意外にもゲスターが、
皇子が血を注いだ時も
傷は治らなかったと告げました。
側室たちの視線が、
同時にゲスターに注がれました。
彼の言葉の内容ではなく、
話し方のせいでした。
しかし、皇帝が
大怪我をして倒れている状況で
側室の話し方について
聞くのもおかしいので、
皆、疑問を抱いたまま、
その部分は無視しました。
その時、グリフィンが羽を伸ばしながら
みんな、これを見てください!
ロードの傷が、
私の糞の大きさほど治った!
と叫びました。
ロードの仲間たちが
確認してみたところ、
今度は何もしていないのに、
皇帝の傷が、
ほんの少しだけ治ったようでした。
ロードの仲間たちは互いに顔を見合わせ
理由が何なのか考えているうちに、
カルレインは眉をひそめながら、
ご主人様に神聖力が通じないのと
同じ理屈ではないかと
意見を述べました。
クラインは、
その言葉の意味が理解できず
目を丸くして「え?」と
聞き返すと、
タッシールが横から割り込み、
半分覚醒したことで
神聖力が通じなくなったように
半分覚醒したので、
一般的な方法では
死ななくなったということだと
説明しました。
今度は理解できたクラインは
対抗者の剣でなければ
皇帝は死ななくなったのか。
自分たちは、
皇帝が自ら傷を治すのを
待たなければならないのかと
尋ねました。
カルレインは、
一見すると、
治癒しているかどうかも
分からないくらい
遅い治癒速度を見て、
先代のご主人様は、
これより治癒速度が速かったけれど
今のご主人様は
中途半端な状態なので
治癒速度が遅いようだと
ため息をつきました。
タッシールは、布団を引っ張ると
ラティルに掛けてやりました。
皇帝が自ら傷を治しても、
その速度が遅いのなら、
傷を露わにしているより、
この方が良いと思ったからでした。
サーナット卿はカルレインを見ながら
この治癒速度なら、
皇帝を連れてタリウムへ戻った方が
いいのではないかと
慎重に提案しました。
大神官の瞳が揺れました。
彼は、
そのようにしても大丈夫なのか。
自分たちは、皇帝がすぐに
回復することを知っているけれど
他の人の目には、
間違いなく致命傷だ。
もし、元皇太子が・・・
と言いかけましたが、
こんな話をしても大丈夫なのかと
心配になり、言葉を濁すと、
タッシールは、
大神官の背中を叩きながら
ここだけの話だけれど、
大神官は、レアン皇子が
この隙を突くことを
心配しているのではないかと、
指摘しました。
大神官は頷きました。
彼は選ばれた存在なので、
このような権力争いについては
知りませんでしたが、
つい最近、
レアン皇子が先皇后と手を組んで
権力を狙ったことは知っていました。
もちろん、
単純に権力を狙ったというよりは、
彼らなりの正義感から
実行したわけだけれど、
それは、あちらの事情であり、
皇帝の側室である大神官の目には、
理由はどうであろうと
簒奪に映りました。
皇帝がこのような大怪我をして戻れば
自然に譲位する雰囲気に
なるのではないかと心配しました。
これまで静かに
事態を見守っていたラナムンは
皇帝の怪我がこれほどまでに
深刻だということを、
あえて政敵に知らせる必要はない。
大怪我をしたことは知らせても
致命傷というのは隠せばいい。
それ以外については、
自分もタッシールの意見に賛成する。
皇帝がカリセンを救うために
動いたことも、
「ロード」と戦いに行ったことも
知っている人は皆知っているという
状況の中、
レアン皇子がすぐに乗り出すのは
難しいだろうと
初めて口を出しました。
タッシールは、
自分が言った言葉ではなく、
サーナット卿が言った言葉だと
指摘すべきか悩みましたが、
サーナット卿が、
自分も同感だと言ったので、
口をつぐみました。
しかし、所々に隙のあるあの意見が
自分の意見になるのを
そのまま見過ごすのは嫌だったので、
クラインに、
彼はカリセンへ行って、
皇帝がロードと戦っている途中で
2人とも大怪我をしたと
伝えて欲しいと頼みました。
クラインは、
自分もタリウムへ行って
ラティルが回復する姿を
見たかったけれど、渋々頷きました。
その上、ヒュアツィンテが
どこにいるのかも分からなかったので
顔色が暗くなりました。
兄上はどこにいらっしゃるのか。
そう呟くクラインの腕を
タッシールは軽く叩き、
ヒュアツィンテ皇帝は無事だろう。
そして、先程ゲスターが
話していたように、
アニャドミスも皇帝と同じくらい
ひどい怪我をしたし、
しかも彼女は、
対抗者の剣に刺されたので、
もしかしたら予後は
皇帝より悪いかもしれないと
言いました。
クラインは、
「そうだろうか?」と尋ねると
タッシールは少しも躊躇うことなく
「もちろんだ」と答えると、
クラインは、
ようやく安心して頷きました。
彼は、
タッシールの言葉を信じたいと
思ったその時、
その様子をじっと見守っていた
メラディムは首を傾げながら、
ずっと気になっていたけれど、
その対抗者の剣は今どこにあるのか
尋ねました。
サーナット卿とゲスター、
ラナムン、カルレインの表情が
同時に固まりました。
◇未来で勝つ方法◇
目を覚ましたラティルは
見慣れない部屋の中を
ぼんやりと見ていると、
扉を叩く音が聞こえ、
見慣れない女性が3人、
中へ入って来ました。
下女姿の女性たちは
ラティルのそばに近づくと、
洗顔用の水を用意したり、
クローゼットから服を取り出すなど
何事もなかったかのように
仕事をこなしていました。
ラティルはランスター伯爵から、
ドミスでないことが
ばれないよう、話をするなと
言われたことを思い出し、
口をギュッと閉じたまま
何も言いませんでした。
以前のドミスの話し方なら、
夢の中で何度も見て来たので
真似できるけれども、
覚醒した後のドミスが
どんな風に話すのかは、
まだ、少し曖昧でした。
彼女の夢を見たけれど、
その話し方まで、
記憶に強く残っているわけでは
ありませんでした。
幸い、下女たちは、
あえて声をかけることなく
静かにラティルの着替えを手伝うと
出て行きました。
ラティルは1人になってから、
落ち着いて今の自分の姿を
鏡に映してみました。
まるで、
アニャドミスを見ているようなので
ラティルは口角を下げました。
アニャドミスを知った時期よりも、
ドミスを知った時期の方が
早かったけれど、
ドミスの身体の中にいる時は
ドミスの顔を見ることが
少なかったからなのか、
アニャドミスが使っている顔を見ると
訳もなく忌まわしさを覚えました。
そういえば、アニャドミスは
一体、どうなったのか。
最後に、
あのような攻撃をしたのを見ると、
死んではいないようだけれど、
もしかしたら、死ぬ前に
最後の攻撃をしたのだろうか。
対抗者の剣が胸骨に刺さったのに
どうして生きているのか。
対抗者の魂を持っているので、
対抗者の剣でも、完全に息の根を
止められなかったのか。
そうしているうちにラティルは
自然と現実のことを悩み始め、
後になると、今のこの状況を
どのように利用すれば
役に立つか考えてみました。
しかし、当然ながら、
今すぐ現実に戻る方法もないのに
大した考えを出すことは
できませんでした。
カルレインやギルゴールに
会ってみることも考えましたが
2人とも自分のことを
ドミスだと思っているので、
彼らと向き合っても、
どう接したらいいか
分かりませんでした。
彼らがドミスの身体の中に
他の人がいることを知って
敵対することになれば、
気分が悪くなるだろうし、
彼らが、それに気づかず
ドミスに接するように
大事にしてくれても、
気が引けると思いました。
特にこの身体で、
カルレインの愛情を受けたら、
現実のカルレインと
あれこれ比較し続けるようになって
良くないと思いました。
カルレインとギルゴールを
避けなければならないのだろうか。
しかし、同じ城に滞在しているのに
避けることができるだろうか。
それとも、元の身体に戻るまで
1年くらい1人でいたいと言って
どこかを放浪すればいいのか。
ラティルはカーペットに座り込んで、
とめどなく考えを巡らせていましたが
ふと「1年」という言葉に驚いて
飛び起きました。
そういえば、 ドミスが1年ほど
カルレインとギルゴールを置いて
1人で歩き回っていた時期があると
彼らが言っていた。
そしてその1年の間に、
ドミスはクリーミーに出会い、
地下牢を作った・・・
ラティルは両手で顔を触りました。
もしかしてその1年が。
今の1年なのか。
それでは、未来が歪まないように
するためには、
今、出かけてクリーミーに会い、
地下牢も作らなければならないのか。
でも、なぜ、あえて
そうしなければならないのか。
1年間歩き回るのは、
その2人を避けるためだとしても
なぜ、地下牢を作って
クリーミーを見つけたのか。
それよりも、自分は1年間も
ここにいなければならないのか。
ラティルは全身を捻りながら
苦しんでいると、
再び扉を叩く音が聞こえて来ました。
ラティルが返事をすると、
今度、入って来たのは
ランスター伯爵でした。
なぜか、彼は、
口元に妙な笑みを浮かべていました。
まだ1年の衝撃から
抜け出せずにいたラティルは
彼をぼんやりと見ていました。
ところが近づいて来た
ランスター伯爵は、軽快な声で
役に立つアイデアを1つ作って来たと
意外な言葉を口にしました。
ラティルは、
どんなアイデアなのかと尋ねました。
ランスター伯爵は、
花嫁が現在を変えずに
未来で勝つ方法だ。
でも、これを完成させるには
地下牢が1つとガーゴイルが必要だと
答えました。
ゲスターは、側室たちの前で、
おとなしいふり、
気弱なふりをするのを止めたようですが
お芝居ができないくらい、
ラティルのことが心配で
たまらないということなのかと
思いました。
ラティルは、
中途半端に覚醒したままでも、
そのおかげで性格が変わることなく
ロードとしての力が使えるなら
それはそれでいいように思います。
ドミスの空白の1年間に
ラティルが関わっていたことが
明らかになりました。
ゲスターの中に入っている
ランスター伯爵が
地下牢のことを知っていたので
ゲスターはクラインの居場所を
簡単に見つけることができたのだと
思います。
それにしても、
ラティルがドミスの身体に
入り込んでいた間、
本物のドミスのは意識は
どうなっていたのか気になりますが
深く追求するのは止めておきます。