607話 トゥーラとヘウンはラティルにアイニを助けて欲しいと訴えました。
ラティルは、
ヘウンにまで頼まれたので、
ひとまず優しい声で、
それは気の毒なことだ。
と言いました。
平然と話しているように
聞こえましたが、心の中では当惑し、
この人は一体何なの?
と何度も呟きました。
ラティルは様々な理由から、
ヘウンとトゥーラの頼みを
聞き入れるのが困難でした。
アイニを助けなければならない
理由は一つだけだけれど、
助けてはならない理由は
色々ありました。
それにラティルが乗り出して
声を上げれば、カリセンの内政に
干渉しているように見えました。
ラティル自身も、
過去の偽皇帝事件の時、
ヒュアツィンテに助けられながらも
この点で、色々と気を使わなければ
なりませんでした。
皇帝である自分が
彼を連れて来たということを
見せるために、
わざと、彼のすぐそばから
登場することさえしました。
しかし、今ラティルに
助けを求めているのは
皇帝でも皇后でもなく、
「前皇后」でした。
むしろアイニが公式的に
この件を裁判所に持ち込み、
ラティルに陳述を頼むならば、
自分の考えはこうだと
一言、言ってあげられるけれど、
そうでなければラティルが
私的に乗り出すことは
難しいと思いました。
けれども、むやみに断ったら
アイニが一緒に死のうと
言ってくるのではないかと
気になりました。
ラティルがすぐに返事をしないので、
トゥーラは心配そうに
ラティルを呼びました。
ようやく、決断を下したラティルは、
ちょっと考えてみる。
と返事をしました。
トゥーラは「考えてみるって?」
と聞き返すと、ラティルは、
まだアイニ皇后から
直接、頼まれていないし、
自分が手を出すことをアイニ皇后が
望んでいるのかも分からない。
それなのに、自分がしゃしゃり出て
余計に事が大きくなったり
誤解されたりしたらどうするのかと
もっともらしい言い訳をした後、
倉庫を出て部屋に戻りました。
翌日、ラティルは、
長く国務から離れるのは難しいという
言い訳をして、
予定より少し早く離宮を離れました。
◇アナッチャに会う目的◇
首都の宮殿に戻ったラティルは、
すぐにアナッチャを訪ねました。
彼女はラティルが現れると、
なぜ来たのかと、
警戒しながら尋ねました。
アナッチャは、
トゥーラがヘウンを連れて
ラティルを訪ねたことについて
知らない様子でした。
それでも、ラティルは念のため、
トゥーラは?
と尋ねました。
アナッチャは、ラティルが
知る必要はないと答えたので、
ラティルは、やはり知らないようだと
呟きました。
アナッチャは眉をひそめながら、
どういうことかと聞き返しました。
ラティルは、
トゥーラが離宮にやって来たと
答えました。
アナッチャは、ラティルが
戯言を言っていると思い
信じませんでしたが、ラティルは、
カバンの中に、
ヘウンまで入れてやって来た。
二人は、いつもそうやって
過ごしているのかと尋ねました。
アナッチャは、
ヘウンがトゥーラと一緒に
いなくなったことは知っているようで
急に静かになると、
なぜ、その二人が
ラティルを訪ねたのかと聞きました。
ラティルは、彼らに
アイニ皇后を助けて欲しいと言われたと
答えました。
アナッチャは、
なぜ、突然、そんなことを
言い出したのかと尋ねました。
ラティルは、
アナッチャがアイニの父親を
中途半端に食屍鬼にしたせいで、
自分もダガ公爵の奇行を見たけれど
今になって、それを告発した人が
いたそうだ。
アイニが、アナッチャを
別宮に匿っていたことも
問題になったと答えました。
アナッチャは、
それで、なぜトゥーラが
ラティルを訪ねたのかと尋ねました。
彼女は、
自分には分からない。
しかし、トゥーラとヘウンは、
自分がアイニを助けることを
望んでいた。
けれども、それは
アナッチャに頼まれたことでは
なさそうだと、
彼女に探りを入れました。
その言葉に、彼女は
不愉快そうな表情をしました。
その反応を見たラティルは
安堵しました。
そもそも、ラティルがここに来たのは
アナッチャにトゥーラの行動ついて
告げ口するためでした。
アナッチャは、
ラティルと仲間ではありませんが、
アイニとも仲間ではありませんでした。
しかも、アナッチャは、
食餌鬼となったトゥーラを、
表立って出すことが
できなくなった今、
息子が安らかに暮らすことを
願っているので、今さら、
厄介なカリセンの問題に
足を突っ込むことを
願うはずがありませんでした
ラティルは、
ヘウンはともかく、
なぜ、トゥーラが
積極的に乗り出すのかが
気になった。
ヘウンのためだと言っているけれど、
自分にはトゥーラの方が
積極的に見えた。
それで、トゥーラに
きちんと話を聞こうと思ったけれど、
後で、また聞きに来ると言って、
アナッチャに背を向けました。
これで、トゥーラが帰ってくれば
アナッチャが勝手に小言を言って
アイニのことは気にするなと
言うだろう。
他のことは知らないけれど、
トゥーラは母親の言うことは
よく聞くので、アイニの問題は
アナッチャが解決してくれるだろうと
思いました。
◇母親の心配◇
ラティルが期待した通り、アナッチャは
コーヒーを5杯飲みながら
心を落ち着かせ、
トゥーラが帰って来るや否や
彼がラティルに
会いに行ったことについて、
小言を言いました。
トゥーラは、ラティルがここに来て
告げ口をしたのかと聞くと、
アナッチャは、
ラティルがトゥーラに会いに来たけれど
留守だったので、
それについて、自分に話して行ったと
答えました。
そして、アナッチャは顔をしかめながら
ヘウンの入ったカバンを片付けるよう、
目で合図をしました。
トゥーラがヘウンを
別の部屋へ置いて来ると、
アナッチャはトゥーラを引き寄せ、
トゥーラとアイニが
二人きりで旅行している間に
彼女と少し仲が良くなったのは
知っていると、
低い声で言いました。
トゥーラは、
そんなに仲良くなっていないと
反論しましたが、アナッチャは
そんなに仲良くなっていなければ
ラトラシルにアイニを助けてくれと
頼まなかったのではないかと
言い返しました。
トゥーラは、
ヘウンのためだと弁解しましたが
アナッチャは、
ヘウンのためなら、
ヘウンが自分で言ったはず。
頭だけになっても話せるからと
言い返しましたが、トゥーラは
まだ、何か言いたそうでした。
遠回しに言っても無駄だと思った
アナッチャは、
トゥーラは自分に
気楽に暮らして欲しいと言ったけれど
自分たちがここで暮らすことで、
ラトラシルと親しくなったと思うか。
そうではないということを、
トゥーラも知っているはずだと思う。
自分はラトラシルに命の借りがあり、
トゥーラが絶対に
皇位に上がることができないという
現実を受け入れたから
今は静かに暮らしている。
しかし、自分たちと
ラトラシルの関係は、
いつでも壊れる可能性があると
率直に話しました。
トゥーラは、
なぜそんなことを言うのかと
尋ねました。
アナッチャは、
トゥーラが自分たちを
危険にさらしているからだと
答えました。
その言葉にトゥーラが驚くと、
アナッチャは、
ダガ公爵が今のような体になったのは
自分たちにも関係がある。
アイニ皇后が匿っていた
黒魔術師は自分なので、
今回のアイニ皇后の問題について、
絶対に黙っていなければならないのに
なぜ、トゥーラが
関わろうとするのかと尋ねました。
彼は不機嫌になって
口をつぐみました。
いつものように、
素直に答えない彼の姿を見て、
アナッチャは不吉な予感がしました。
そして、以前、トゥーラとアイニが
この辺りで仲良く話していたのを
偶然目撃したことを思い出しました。
アナッチャは、
バカみたいな考えをしてはいけないと
思いましたが、心配でした。
◇歩くアロマ◇
あれくらい言えば大丈夫だろう。
本宮に戻って来たラティルは、
アナッチャがトゥーラを
何とかしてくれると思い、
残りの一日を安らかに過ごしました。
そして、夕方にクラインを訪ねて
彼の体調について聞くと、
自分の寝室に戻って寝ました。
そして、その翌日、
普段と同じ日課を続けたラティルは、
国務会議を終えた後に、
ハーレムに行って食事をするか、
それとも、さっさと本宮で
食事をするか悩んでいた時、
ロルド宰相が、
ラティルに近づいて来ました。
最近、ロルド宰相が
ラティルに近づくのは、
全てカリセンの情報を
知らせるためなので、
ラティルは少し不安になって
彼を見つめながら、
どうしたのかと尋ねました。
ロルド宰相が近づくと、
ラティルの不安は現実となりました。
彼は、アイニ前皇后が
密書を送って来たと告げました。
この状況で、
アイニが手紙を送って来る理由は
一つしかないと思いながら、
ラティルは、ロルド宰相から
受け取った手紙を開きました。
チラッと見ただけで、
アイニが助けを求めていることが
すぐに分かりました。
手紙を開いた途端、
ラティルの顔が強張ったので、
ロルド宰相は、慌ててラティルに
大丈夫かと尋ねました。
ラティルは、
正直、少し戸惑っていると答えました。
ロルド宰相は、
前皇后は何と言っているのかと
尋ねました。
ラティルは、
助けて欲しいと言っていると
答えました。
アイニの手紙に
頭が痛くなったラティルは
横髪をかき上げ、眉をひそめました。
トゥーラを
静かにできたと思ったら
今度はアイニに直接頼まれてしまい
困惑しました。
(中略)
父が、そのような誤解を
受けるようになった理由については
陛下もよくご存知でしょう。
最初の原因は、
父自身の行動に起因していますが、
二つ目の原因は、
陛下が父を連れ出したことに
起因しています。
陛下に迷惑をかけたくないので、
一人で状況を打開する方法を
考えてみましたが、
これらのことは、
陛下とも深く関わっているので、
私だけで解決するのは
容易ではありません。
陛下に負担をかけるお願いであることは
承知しておりますが、
私の事情も易しくないことを、
考慮していただきますよう
お願いします。
手紙を慎重に読んだラティルは
さらに眉をひそめました。
アイニは、
単に助けを求めているのではなく、
あえてダガ公爵と関係のある
2人の黒魔術師を、
ラティルが連れていることを示唆し
彼女がこの件に乗り出すべきだと
話していました。
窮地に陥ったアイニが、
自分まで
窮地に陥れようとしていると思い、
ラティルは困りました。
そんな彼女を、ロルド宰相は
訝し気な顔で見つめました。
ラティルは表情を整えながら
手紙をざっと折り、
上着の内側のポケットに入れましたが
しきりに額をしかめました。
自分にどうしろと言うのか?
自分が乗り出して、
アイニを庇ったところで、
この件が片付くわけではない。
アイニは、父親が食餌鬼でなくなって、
死ぬことを願っているのかと
考えました。
顔色が暗くなったラティルを見て、
ロルド宰相は心配しました。
ラティルは、
頭が少し痛い。
ずっと仕事が多かったし、
離宮まで行って来て大変なところへ
アイニ前皇后まで
困ったことを申し出て来たからと
話しました。
ロルド宰相は、
大丈夫かと尋ねました。
ラティルは、
自分の息子が黒魔術師であることを
全く知らないロルド宰相の顔を
じっと見つめながら、
頭が痛い。
ゲスターに会わなければいけないと
訴えました。
この言葉に、ロルド宰相は
嬉しくなりましたが、この渦中に
大っぴらに喜ぶわけにもいかず、
口元を大きくモグモグ動かしながら、
ゲスターは性質が穏やかな上に、
人を和ませてくれるので
歩くアロマのようなものだ。
早く彼の所へ行ってみてと
言いました。
ラティルは、
ゲスターの部屋の扉を開けると、
中に入りながら、彼のことを
「歩くアロマ」と呼びました。
何かを熱心に編んでいたゲスターは
手を止めると、目を丸くして
ラティルを見つめながら、
今、自分を何と呼んだのかと
尋ねました。
ラティルは、ロルド宰相が
ゲスターをそのように表現していたと
答えると、ゲスターの顔は
真っ赤になりました。
そのゲスターを見ながら、
ラティルは、数日前、
口では恥ずかしいと言いながら、
体は一歩も引き下がらなかった
彼を思い出し、心が乱れ、
頬が熱くなりましたが、
今はそのようなことを
思い出している場合では
ありませんでした。
ラティルは、ゲスターの侍従を
部屋の外に出した後、
ソファーに彼を連れて行って
座らせながら、まだ、ダガ公爵を
操ることができるかと尋ねました。
ゲスターは前公爵のことかと
聞き返すと、ラティルは
アイニの父親だと答えました。
ゲスターは、
やろうと思えばできる。
しかし、アイニ前皇后と
ダガ前公爵を仲違いさせてからは
あえて関わっていない。
いちいち命令するのも
一仕事だからと答えた後、
どうしたのかと尋ねました。
ラティルは、ゲスターが
直接、手紙を読んでみた方が良いと思い
アイニからの手紙をゲスターに渡し、
彼女が、こんな密書を送って
助けを求めて来たと話しました
ゲスターは手紙を読む時に
手の位置を少し上に上げたので、
彼の顔が便箋に隠れてしまいました
ラティルは、
そんなことをして、
腕が痛くないかと尋ねましたが、
ゲスターは便箋を下ろさずに、
ラティルに、
どうするつもりなのかと尋ねました。
ラティルは、
アイニが何を望んでいるのか
分からない。
ダガ前公爵は別に問題ないと
言ったところで、
彼に対する検証が終わるわけではないし
自分の下にいない聖騎士と神官の数は
一体、どのくらいいるのだろうかと
答えました。
ゲスターは
「そうですね」と返事をしました。
ラティルは、
アイニは自分が父親の命を奪うことを
望んでいるのだろうかと呟きました。
ゲスターは便箋を少し下げて
ラティルの目を見ました。
目が合うと、彼は目尻を少し下げて
まさか、そんなことはないだろうと
否定しました。
ラティルは、
それでは、アイニが
自分たちに食い下がろうとしても
無駄になるように、
前公爵とゲスターの間の繋がりを
断ち切ることはできるかと尋ねました。
母親の言うことなら
何でも聞くと思い、ラティルは
アナッチャに
トゥーラをおとなしくさせようと
思ったけれど、もしもトゥーラが
アイニのことを好きになっていたら
母親の言うことよりも、
アイニを助ける方を
優先させるかもしれません。
ダガ前公爵が食餌鬼になったのは
権力欲しさに、密かにクラインを
亡き者にしようとした時に、
反撃した彼に喉を噛み切られて
死にかけていたところを
父親を死なせたくなかったアイニが
彼を食餌鬼にするという
アナッチャの申し出を
受け入れたせい。
確かに、ラティルはダガ公爵を
操れるようにしたけれど、
そのおかげで、
以前より、彼が
おとなしくなったのなら
逆にアイニはラティルに
感謝すべきではないでしょうか。
全ての元凶は、
ダガ前公爵とアイニなのに、
ラティルにも責任があると言う
アイニは身勝手だと思います。