635話 側室たちに不吉な子と言われても、ラティルは子供を産むつもりでした。
◇帰って来た!◇
ラティルは仕事中に、
近衛騎士団の副団長が
一人で笑っているのを
発見しました。
ラティルと目が合うと
副団長はすぐに謝りましたが、
机の上の小さな鏡を見ると、
まだ副団長は、後ろで笑っていました。
彼があまりにも頻繁に笑うので、
ラティルは気に障り、
副団長を追い出すと、
部屋に一人で残って食事をしました。
ラティルは袖をめくり、
焼いたトマトに
黄色いクリームを乗せたものを
何口か食べていた時、
副団長が戻って来ました。
ラティルは、
微妙な目で彼を見つめました。
そして、今朝からずっと、
そんな調子の彼にラティルは
我慢できなくなり、
どうしたのかと尋ねました。
副団長は、
今日です。
と答えました。続いて、
戻りました。
と副団長の後ろから現れた
サーナット卿が言いました。
ラティルはフォークを持ったまま
飛び上がり、彼の名を叫びました。
副団長はラティルに
自分の態度について謝った後、
団長に言うなと言われていたけれど
話したくて仕方がなかったと
言い訳をすると、
また、ヘラヘラ笑いました。
サーナット卿は持っていた帽子で、
副団長の肩をポンと叩きました。
副団長は仮病を使って
部屋を飛び出ると、サーナット卿が
ラティルの目の前まで
歩いて来ました。
彼女は、帽子をぼんやりと
見ていましたが、
遅ればせながら、サーナット卿に、
今朝、戻って来たのかと尋ねました。
ラティルは、サーナット卿が
休暇を延長するという話は
聞いていたけれど、
今日、戻って来ることは
知りませんでした。
ラティルは、
サーナット卿の休暇が終わったことを
先に副団長に話したのかと尋ねました。
サーナット卿は、手にしている帽子を
ラティルの頭にかぶせながら、
交代する時に
びっくりさせようと思ったけれど、
口の軽い副団長が、
全部ばらしてしまったと答えて
笑いました。
ラティルは帽子に手を乗せると、
まだ自分が
フォークを持っていることに
後から気がつきました。
ラティルは、
フォークを下ろそうとしましたが、
その前にサーナット卿が
腕を上げているラティルを、
そのまま抱き締め、
会いたかったです。
と告げました。
ラティルは、
腕を下げたいと訴えました。
サーナット卿が身を引くと、
ラティルはフォークを置き、
彼の顔をくまなく見回しました。
半分、吸血鬼のせいか、
長い間、悩んできたはずなのに、
顔は艶々していて、
やつれた様子はありませんでした。
それを見たラティルは、
訳もなく神経質になり、
故郷で楽しかったようですね。
と言うと、帽子を脱いで
再び彼の頭に乗せました。
サーナット卿は、
とても忙しかったです。
と返事をすると、
帽子をきちんとかぶって、
口角を上げました。
その笑顔が憎たらしくて、
ラティルは焼いたトマトを、
彼の口に突っ込むと、
それなら、
もっと、いればよかったのに。
最初から、溜まっている
10ヶ月の休暇を全部使ってから
帰ってくれば良かったのにと
憎まれ口をききました。
サーナット卿は、
素早くトマトを噛んで飲み込み、
机の後ろに行くと、
ラティルの椅子に両手をつきながら、
陛下の後頭部が見たくて、
どれだけ恋しかったことか。
と告げました。ラティルは、
前頭部は見たくなかったんですか?
と皮肉を言いましたが
彼の表情は崩れませんでした·
サーナット卿が、
そんな態度を見せているのに、
ラティル一人で文句を言うことは
できませんでした。
ラティルは皮肉を言うのをやめて
彼を見上げました。
彼がいない間、
どれだけ彼に会いたかったか、
彼がそばにいなくて、
どれだけ物足りなかったか。
そして、子供が、
少し危険かもしれないという話を
したいと思いました。
サーナット卿は
何と言ってくれるだろうかと
考えていると、サーナット卿は、
子供が生まれた後、
自分を側室として受け入れて欲しいと
頼みました。
ラティルは、自分の言葉に対する
サーナット卿の返答を
想像していたので、彼の言葉に、
すぐに反応することが
できませんでした。
耳は、サーナット卿の言葉を
一つ一つ聞いていたけれど
頭まで届いていませんでした。
何だって?
後になって、
その言葉の意味を悟ったラティルは
気まずくなって後ろに下がりました。
背中が机にぶつかり、
インク瓶がひっくり返りました。
サーナット卿は、
すぐにインク瓶を立てましたが、
インクは、
ラティルがずっと見ていた書類を
黒く染めてしまったので、
ラティルは紙を持ち上げて
空中に放り投げました。
しかし、
インクがあちこち飛び散るだけで、
何の役にも立ちませんでした。
そんなに驚いたのですか?
サーナット卿は、
ラティルから紙を受け取りながら
尋ねました。
ラティルはハンカチを取り出し、
手についたインクを拭き取りながら、
休暇から戻って来た途端、いきなり、
側室になるなんて言い出せば、
驚かないわけがないと
抗議しました。
サーナット卿は、ラティルも
見当がついているに違いないと
思ったと、返事をしました。
ラティルは呆れながら、
なぜ、私が?
と抗議しましたが、サーナット卿は
そうですか?
というような表情をしました。
ラティルは、
すでに黒く染まってしまった
ハンカチを、
こぼれたインクの間に置いて、
無事だった紙を持ち上げました。
まだ心臓がドキドキしていました。
ラティルは書類の束を片手に取ると
こんなことを言っておいて
まさか冗談だったと
言ったりしないですよね。
こんなことで、
からかって欲しくないです。
とサーナット卿を見つめながら
警告しました。
サーナット卿は、
からかうような顔をしていましたが、
真剣な声で、たくさん考えたと
答えました。
ラティルは、
側室になるかどうかについて
考えたのかと尋ねると、
サーナット卿は、
皇帝と自分の関係について考えたと
答えました。
ラティルは、
その答えが側室なのかと
尋ねると、サーナット卿は
皇配ならもっといいと答えました。
サーナット卿の片方の口角が
上がりました。
ラティルは、
彼が冗談を言っているのか本気なのか
区別がつきませんでした。
ラティルはサーナット卿の口元を
そっと押し下げました。
口角を下ろすと、彼の瞳が、
とても真剣だということが
分かりました。
ゆっくりと、
サーナット卿の口から手を離すと、
彼の口と顎に、
黒いインクが付きました。
ラティルは知らんぷりして、
視線を逸らしました。
すると、サーナット卿は
後ろから手を伸ばして
ラティルを抱きしめました。
サーナット卿・・・?
陛下と一緒にいる時、
他の人が来たという理由だけで
逃げたくありません。
!
陛下が私のせいで
余計なことを言われるのも嫌です。
あの侍女が
陛下に言ったような言葉です。
ラティルは躊躇いながらも
サーナット卿の手の上に
自分の手を置きました。
そして、なぜ赤ちゃんが
生まれた後に側室になるのかと
尋ねました。
サーナット卿は、
今、自分が側室になったら、
ラティルが、
好色中の好色と言われるからだと
答えました。
ラティルは彼の指を爪で押しました。
ラティルは、サーナット卿が公式に
自分の男になってくれるのが
嬉しい一方で、
残念な気持ちになりました。
彼が側室になったら、
いつも付き添ってくれる人は
誰になるのか。
ラティルについて
すべてを知っている
サーナット卿だからこそ、
ラティルは、彼に背中を預けて
歩き回ることができました。
果たして、他の人でも、
サーナット卿ほど頼れるだろうかと
ラティルは考えました。
◇アトラクシー公爵の衝撃◇
朝、アトラクシー公爵は
いつものように平和な1日を
完璧に迎えました。
彼の美しい息子は
彼に高貴な孫を授け、
息子は、いつか皇配となり、
タリウムで最も高貴な男と
なると思いました。
次男と三男は、
ラナムンほど美男子ではないけれど
怠惰な長男とは違い頭が良く、
性格もかなり良いので、
家は2人のうちの
どちらかが継ぐことになり、
これから、アトラクシー家は
大きく羽ばたくだけでした。
アトラクシー公爵は鼻歌を歌いながら
貴婦人たちからもらったミトンは
どこにあるのかと
公爵夫人に尋ねました。
公爵夫人は、
また皇帝の所へ持っていくのかと
尋ねると、アトラクシー公爵は、
印象をよくしておかないといけないと
答えました。
公爵夫人は舌打ちし、
生まれてから渡した方が
いいのではないかと勧めましたが
下女に籠を持ってくるように
指示しました。
しばらくして下女は
茶色の籠を持って入って来ました。
籠の中には、
公爵夫人が友人から集めたミトンが
たくさん入っていました。
公爵は口笛を吹きながら
籠を受け取りました。
そして、臨月になると
プレゼントをする人が増えるので、
自分たちが赤ちゃんの
祖父母であることを、
今から、印象づけておくと
話しました。
公爵夫人は首を横に振りましたが、
夫の楽しそうな姿が
かなり可愛いと思いました。
彼女は、外では威厳のある夫が
家に帰って来ると、
あんなに溌剌とする点が
特に愛らしいと思いました。
ロルド宰相の妻である
クレムシュティン公爵夫人は
夫は家に帰ってきても
謹厳で重苦しいと言っていました。
夫人はその話を聞きながら
彼女の夫は、外でも家でも
面白くないんだと思いました。
そう思うと、
改めて自分の夫が可愛く思えました。
公爵夫人は、夫の乱れた服装を整え、
背中を軽く叩くと、
失言しないよう、気をつけて
行って来るようにと言いました。
公爵は妻の頬に
キスをしながら笑いました。
公爵の完璧な朝は、息子と皇帝が
一緒に散歩しているのを見ると、
さらに素晴らしいものと
なりましたが、
ラナムン。
私のそばに三歩以上来るな!
と叫ぶラティルの声を聞いて、
一気に色褪せました。
息子と皇帝は、カラスのように
可愛いカップルだと思って、
ニヤニヤ笑っていた公爵は
氷のように凍りつきました。
息子が、もう少し近づこうとしても
皇帝は、
断固として線を引きました。
ラナムンは、
二歩はだめでしょうか?
と自尊心を抑えて哀願しても
皇帝は容赦せず、
三歩以上来ないで!
と叫びました。
ラナムン! 我が息子!
アトラクシー公爵は
涙を流しました。
◇アトラクシー公爵の悲しみ
あのじいさんは、
なぜ、しきりに私を睨むの?
国務会議の途中、ラティルは
アトラクシー公爵を見ながら
考えました。
最初の1、2回は
誤解だと思っていましたが、
すでに5、6回、
自分を恨めしそうな目で見つめる
アトラクシー公爵と
目が合っていました。
サーナット卿は、
ラティルに水を差し出しながら
殴ったのですか?
と、小さな声で尋ねました。
なぜ、私が公爵を殴るんですか?
ラティルはコップをつかむと、
呆れて笑いました。
そして前を見ると、
アトラクシー公爵は、
ハンカチで目元を拭いていました。
いや、何で泣くの?
結局、会議が終わった後、
ラティルは、アトラクシー公爵に
少し話をしようと誘いました。
そして、
他の大臣たちが全員出て行くと
ラティルは公爵に近くに来るよう
目配せしました。
彼が近くに来ると、ラティルは、
アトラクシー公爵が
自分のことで、
何か怒っているのかと尋ねました。
ラティルは、
自分自身が病気になるや否や、
レアンを担ぎ上げようとした
大臣たちを全員、
抑え込むつもりでした。
しかし、適当な事件が起きていない上
突然の妊娠で、
その計画は頓挫してしまいました。
そのため、ラティルは、
まだ大臣たちと、
適度な距離を保っていました。
アトラクシー公爵は、
ラティルが抑え込もうとした
大臣の中に含まれていないし、
数日前、彼は浮かれて
赤ちゃんの靴下を持ってきたのに、
あのように、
一人で憤慨していることが
全く理解できませんでした。
アトラクシー公爵は
「いいえ」と無愛想に答えながら
サーナット卿を睨みつけました。
ぼんやり立っていたサーナット卿は
戸惑い、自分を指差しながら、
自分のことを怒っているのかと
尋ねました。
アトラクシー公爵は視線を落とすと、
サーナット卿を、
しばらく出してもらえないかと
躊躇いながら、慎重に尋ねました。
ラティルは、
アトラクシー公爵が
何か不満を抱えている思い、
サーナット卿に、
席を外すよう目配せしました。
サーナット卿が出て行くと、
ラティルはアトラクシー公爵に
どうしたのか。
なぜ、会議の途中で泣いていたのかと
尋ねました。
アトラクシー公爵は、
泣いていないと答えました。
しかし、ラティルは彼が
ハンカチで目元を拭いていたと
指摘し、涙を拭くふりをすると、
アトラクシー公爵は、
泣いていたのではなく、
目に何かが入ったので拭いたと
反論しました。
ラティルは、なぜ、自分を
ずっと恨めしそうな目で
見つめていたのか。
自分の後ろにいた
コバエでも見ていたのかと尋ねて
笑い出しました。
アトラクシー公爵は、
躊躇うことなく頷き、
それは本当だと答えました。
ラティルは「なぜ?」と聞くや否や、
アトラクシー公爵の目元が赤くなり、
彼は再びハンカチを取り出しました。
やっぱり、
泣いていたんじゃないですか!
ラティルは驚いて
ぱっと後ろに下がりました。
ラティルは、
ラナムンが泣く姿は好きでしたが、
彼の父親が泣く姿は
見たくありませんでした。
ラティルはアトラクシー公爵に
なぜ、泣くのかと尋ねました。
アトラクシー公爵はラティルに謝ると
実は、今日見てしまったと
打ち明けました。
ラティルは「見た?」と聞き返すと
アトラクシー公爵は、
ラティルがラナムンを
いじめる姿を見たと答えました。
そして、また彼は悲しくなって、
涙を流し始めました。
いや、いつ自分がラナムンを
いじめたのか。
わざわざ迎えに行って
散歩まで一緒にしたのに?
ラティルはうろたえて、
言葉を失っている間、
父親が、ここへ来ていることを
聞きつけたラナムンが、
横の扉から入って来ると、
衝撃を受けた目で、
ラティルと父親を交互に見つめました。
彼女は急いで手を振り、
私が泣かしたんじゃない!
と主張しました。
サーナット卿が
側室になろうと決めたのは、
ラティルが自分のことで、
色々と言われる以外にも、
彼自身が日陰の身でいるのが
嫌になったのではないかと思います。
以前は、側室になるよりも、
騎士のままでいた方が
ラティルと一緒にいられる時間が
長いからと言っていましたが、
ラティルが他の側室たちと
親密になるにつれ、
彼女と長い時間、一緒にいるよりも、
短くても、濃密な時間を持ちたいと
思うようになったのではないかと
思います。
ラナムンは不愛想で、
口数が少ないけれど、
決して頭は悪くないのに、
彼のことを賢くないと言う
アトラクシー公爵は、
ちょっとひどいと思いました。
けれども不愛想なラナムンは、
アトラクシー公爵の前で、
自分の賢さや能力を知らせる機会が
なかったので、
アトラクシー公爵がそう思っても
仕方がないのかもしれません。
そんな性格の悪い息子でも、
彼がラティルに
いじめられていると思った途端、
涙をこぼすアトラクシー公爵は、
息子を心から愛する、
優しい父親だと思います。