707話 ラティルはサーナット卿の礼服が燃やされたという言葉を耳にしました。
◇ソーセージの千切り◇
あの礼服、すごく高いって
言っていなかったっけ?
家を買うのと同じくらいの値段だって。
執事がそれを燃やしたのを見て、
一日中泣いていたよね。
泣く気持ちも分かる。
自分だって、目の前で見たら泣くよ。
とにかく、貴族たちは
金遣いが荒い。
坊ちゃんは、
それでも違うと思ったのに。
ラティルは、ぼんやりと
そちらを見つめていましたが、
シピサに呼ばれると、
彼の方を向きました。
どうしたのか尋ねるシピサに、
ラティルは、
何でもない。
少し知っている人を見ただけだと
答えました。
しかし、シピサは、
知り合いですか?
と尋ねながら、
ラティルが見ていた方向を
チラッと見ました。
けれども、ラティルは
再びソーセージを刻み始めました。
しかし、依然として耳と精神は
礼服の話をしている人々に
向かっていました。
でも、なぜ焼いたの?
私は知らないよ。
私たちに話すわけがない。
執事様はご存知かな?
ご存知だろうけれど、
私たちに話すわけがない。
シピサはラティルを呼びながら
彼女の腕を軽く叩きました。
ラティルは驚いて
正気に戻りました。
ラティルはシピサに
どうしたのかと尋ねると、
彼は、小さ過ぎる気がすると
答えました。
ラティルは皿を見て、
ナイフを置きました。
シピサの言葉のように
分厚いソーセージが
キュウリの千切りのように
切られていました。
ラティルは、
こっそり自分の皿を
ギルゴールの前に押し出し、
ギルゴールの皿を
自分の方へ引っ張りました。
ギルゴールが、
何をしているのかと尋ねると、
ラティルは、
ギルゴールは花びらを食べるからと
答えました。
しかし、彼は、
きちんとしたものを食べろって
言ったくせにと抗議し、
皿を引き戻しました。
ラティルは
ずるい、ずるい。
と半狂乱で抗議しました。
ギルゴールとシピサは
口をポカンと開けて
ラティルを見ました。
ギルゴールは、
ラティルを陰険な声で呼ぶと、
頬杖をつき、
ラティルと目を合わせながら
微笑みを浮かべました。
その態度に驚いたラティルは
どうしたのかと尋ねると、
ギルゴールは、
もしかして、
あの人間たちが話しているのは、
花畑のことではないかと尋ねました。
ラティルの口の両端が
下がりました。
彼女は真顔でギルゴールを見ましたが
ギルゴールは少しも怖がることなく
花畑の話だよね?
と笑いながら尋ねました。
花畑って?
シピサは、ギルゴールが
サーナット卿のことを
話していることが分からなかったので
こっそり話に割り込んで尋ねました。
どうしてわかったの?
ラティルはギルゴールに
振り回されないように呟くと
千切りになったソーセージを
食べました。
しかし、あまりにも
細かく切ったせいで、
少しも風味が感じられませんでした。
思わずラティルが
あっ、まずい。
と呟くと、シピサは
自分のと取り変えようかと
慎重に提案しました。
しかし、ラティルは
大丈夫だと言って手を振ると、
ギルゴールを睨みつけました。
彼は眉をつり上げ、
両手を上げて肩をすくめると、
私に八つ当たりしないで、お嬢さん。
ソーセージの千切りを作ったのは
お嬢さんで、
お嬢さんを怒らせたのは
花畑じゃないですか?
と言いました。
シピサは、どうにかして、
二人の話に入りたいのか、
もしかして花畑は、二人だけの
秘密の単語のようなものかと
再度、尋ねました。
しかし、話題が話題なので、
ラティルは、花畑が
サーナット卿のことだと教えるのは
どうかと思いました。
ラティルは返事をする代わりに、
食べてみて、まずいよ。
と言って、ソーセージの千切りを
シピサの口の中に入れました。
シピサは、
ウサギのようにモグモグ噛んで、
おとなしく食べました。
美味しくないという表情は
していませんでした。
ラティルはそれが不思議で
もう一度、差し出すと、
シピサは、
また素直に口に入れました。
お嬢さん・・・いじめないで。
見るに見かねたギルゴールは、
ラティルが
3つ目をあげようとすると、
自分のフォークで防ぎました。
ラティルは今だと思って、
ギルゴールが話している間に
ソーセージの千切りを
彼の口に入れてしまいました。
ギルゴールは
反射的に歯を食いしばって、
フォークを止めましたが、
それでも、ソーセージの千切りは
口の中に入り、
ただのフォークを噛む
ギルゴールになってしまいました。
ラティルが笑い出すと、
ギルゴールは遅ればせながら
目を見開き、
信じられないという顔をしました。
ラティルは、
それを見てくすくす笑いましたが、
突然目元が熱くなったので、
素早く袖で拭いました。
それから頭を上げると、
シピサがぼんやりとした表情で
ラティルを見ていました。
一方、ギルゴールの口の中からは
バキバキと音がしました。
ギルゴールが壊れた鉄の塊を
吐き出すと、首を横に傾けました。
シピサは、
一体、花畑が、誰の話なのか
どこの話なのか分からないけれど、
母親を悲しませるものは
自分が消してしまうと言いました。
そして、拳を握りしめ、
慎重にラティルの手の甲の上に
自分の手を乗せると、
その花畑の花を
全部抜いてしまおうかと
提案しました。
ラティルは、
そんなことは望んでいないけれど、
シピサの言葉に、訳もなく
胸が熱くなりました。
皇女はどんな手を使ったのか、
分からないけれど、
袖の中に刃を作って
自分を怪我させました。
もちろん、シピサも
議長と一緒にいる時は
こちらをたくさん困らせましたが・・・
ラティルは、
大丈夫だと答えました。
シピサは本当なのかと尋ねました。
ラティルは、
もちろん。
と答えました。
これを見ていたギルゴールも
ラティルの、もう片方の手に
自分の手を乗せると、
お弟子さんを悲しませるものは
自分が消してやると言いました。
しかし、ラティルは
さっと手を引くと、
ヤギは花でも食べていなさい。
と言いました。
驚いているギルゴールを見た
ラティルは、笑顔で
再び袖で目元を拭きました。
◇気持ちが分からない◇
シピサとギルゴールと別れた後、
ラティルは、一人で
寝殿近くの建物を歩き回りました。
そうしているうちに、
お祭りは楽しかったですか?
と尋ねる声が聞こえたので、
そちらを向くと、
欄干に寄りかかって立っている
サーナット卿の姿が見えました。
彼は、黄色い屋根のレストランへ
行ってみたかと尋ねました。
ラティルは
サーナット卿のいる方へ
歩いて行きました。
サーナット卿は、穏やかで温かい目で
ラティルを見ていました。
その目を見ているうちに、
ラティルの中で、
嫌な感情が蠢いて来ました。
サーナット卿はラティルに
大丈夫かと尋ねました。
ラティルは、
これを言うかどうか悩みました。
しかし、サーナット卿が一人で
とても暢気そうにしているのを
見たラティルは、
彼の心に刺さることを願い、
数日前に、自分たちが一緒に行った
あの洋品店に行って来たことを
打ち明けました。
その言葉に、
サーナット卿は驚きました。
ラティルは、
自分が礼服を持って来て、
預かるつもりだった。
そして、後でサーナット卿が
正式に着るのを見ようと思ったと
話しました。
それから、ラティルは、
サーナット卿が
手を突いていない側の手すりに
両手を突くと、
ところが店主に、
サーナット卿が礼服を取りに来たと
言われた。
もしかしたら、サーナット卿は
礼服を着て自分の所へ来るために
取りに行ったのか思ったと
わざと知らんぷりをして尋ねました。
サーナット卿は答えずに
ラティルを見つめました。
そうだよね、答えにくいよねと
ラティルは心の中で皮肉を言いました。
それでも、彼女は微笑みながら、
そうなんですか?感動した。
と知らないふりをしながら
尋ねました。
サーナット卿は、
まだ答えませんでした。
その目は、
ただ、ラティルを見つめていました。
しかし、サーナット卿は、
ようやく察したのか、
何か聞いたようですね。
と呟きました。
あまりにも長く
一緒に過ごしたせいか、
ラティルが作り笑いをしても、彼は
すぐに気づくことができるようでした。
ラティルは作り笑いを止めると、
礼服を燃やしたのかと
単刀直入に尋ねました。
ラティルは、
彼が正直に話してくれるより、
むしろ、嘘をついてくれることを
望んでいましたが、
サーナット卿は、
数回、唇をパクパクした後、
素直にそれを認めました。
ラティルは、その理由を尋ねると
彼は、使い道がないからだと
答えました。
ラティルは、
それなら売ればよかった。
あえて、燃やす必要があったのかと
尋ねました。
サーナット卿は、
役に立たなくなったけれども、
誰にも渡すことはできなかった。
礼服は、
ラティルの所へ行くために
作った服だからと答えました。
彼女は、
売るのと燃やすのと何が違うのか。
どのみち、サーナット卿の手元から
離れるなら、
どちらも同じではないかと尋ねました。
サーナット卿は、
ラティルの言うことに
反論しませんでした。
ラティルは呆れて空笑いをしました。
数日前、サーナット卿が礼服を着て
自分を驚かしてくれることを
期待していたのが
恥ずかしくなるほどでした。
ラティルは、サーナット卿が
何を考えているのか分からないと
呟きました。
そして、彼に赤くなった顔を
見せたくなかったので、
サーナット卿が壁を見るよう
彼の体を、そちらへ向けると、
一体、どうしたいのかと尋ねました。
彼は、
皇帝のそばで皇帝を守り、
皇帝の力になりたいだけだと
答えました。
ラティルは、
それならば、なぜ、
キスしたのかと尋ねました。
サーナット卿は、
皇帝のことが好きだからと答えました。
それならば、
なぜ礼服を燃やしたのかと、
ラティルは尋ねました。
サーナット卿は、
再びラティルの方を向いて、
ラティルを、じっと見下ろしました。
このような中でも、彼は
とても温かい目をしていました。
サーナット卿は、
自分と皇帝は、
精神的な交流だけで十分だと
答えました。
ラティルは、
それならば、
キスをするべきではなかったと
責めました。
サーナット卿は、
言いにくいことなのか、
眉をしかめながら、
自分は、必ずしも
ラティルの多くの男の一人になる必要は
ないということだと返事をしました。
ラティルは、
その理由を尋ねると、彼は、
家族の枠の中で、
皇帝を守る人は大勢いるけれど、
枠の外で、守る人は少ない。
だから、自分は枠の外で
皇帝を守ろうとしている。
家族だけで話せることも
あるけれど、
家族で話しにくいこともあるからだと
答えました。
ラティルは唇を噛み締め、
サーナット卿を見つめました。
彼の言葉は彼女の胸に響かず、
言い訳にしか聞こえませんでした。
ラティルは、
そんなことはない。
ただ、サーナット卿は、
もっと深い関係に
なりたくないだけなんだと
反論しました。
しかし、彼は、
自分は生まれた時から
皇帝のための存在だ。
これ以上の深い関係などないと
きっぱり答えると、
ラティルの両腕を
包み込むようにつかみました。
ラティルは思わず
さらに手に力を入れました。
彼女の手の中で鉄の手すりが
へこむ音がしました。
ラティルはサーナット卿を押しのけると
自分の部屋へと走りました。
ラティルが応接室の扉を
バタンと開けて入ると
部屋のあちこちに
散らばっていた侍女たちは
ぱっと立ち上がりました。
ラティルは手を振って
付いて来る必要はないと言うと
寝室に入り、扉を閉めました。
ラティルは靴を脱いでベッドに駆け寄り
布団の中に隠れるように
潜り込みました。
サーナット卿と愛を分かち合った
ソファーやカーペットを
見たくなかったので、
全部、片付けるつもりでした。
ラティルは、
サーナット卿の言うことが
理解できませんでした。
気持ちが冷めたのなら冷めたと、
はっきり言えばいい。
他に好きな人がいるのなら、
自分に構うなと、
はっきり言って欲しいのに、
どっちつかずの言葉は
何なんだと思いました。
ふと、ラティルは、
サーナット卿がレアンと
手紙をやり取りしていたことを
思い出しました。
彼女は、ぼんやりと布団をめくって
起き上がりました。
ラティルは、サーナット卿が
自分を裏切るとは
思っていないけれど、
それとは別に、彼はレアンに
同情することができました。
誰かが誰かを愛しているからと言って
他人に向けられた感情の方向が
その人と全く同じになるわけでは
ありませんでした。
そうしているうちにラティルは、
このような点まで、
サーナット卿を疑っている自分に
腹が立ち、
再び布団の中に潜り込みました。
ラティルは、
タッシールの言う通りだ。
レアンを邸宅に
監禁しておいたからといって
自分が、そこから
自由になることはできない。
サーナット卿を信じているのに、
レアンを信じられないから、
サーナット卿まで疑ってしまうと
思いました。
表立って
レアンを支持している人たちは
対応可能だし、引き続き
監視することができるので、
まだマシでした。
しかし、
父親の秘密の腹心たちは
レアンの味方をしているようだけれど
正体を隠しているので、
むしろ気になりました。
アイニが一緒に出て来るかは
分からないけれど、
レアンを許すふりをすれば、
彼らが次から次へと出てくると
思いました。
ラティルは決意を固めると
布団を元に戻しました。
レアンを本気で許すかどうかは
後で考えるとしても、
レアンが、もっと裏切るかどうかは
私的な感情を抜きにしてでも、
今から、確認した方が
良いかもしれないと思いました。
ラティルは、
決心するとすぐに立ち上がり、
タッシールの元へ向かいました。
彼女が訪れると、
ヘイレンは小さな声で、
タッシールは寝ていると
教えてくれました。
ラティルは、
彼が起きるまで待つと言って、
部屋の中に入りました。
よほど疲れているのか、
タッシールは気絶したように
眠っていました。
横向きに寝ている彼の
広い肩幅をしばらく見ているうちに
ラティルは、その向こう側に
横になってしまいました。
目にクマを作り、
疲れ果てて寝ている彼の顔を
見ているうちに、ラティルは、
ふと心臓が大きく潰れるような
気分になりました。
サーナット卿のせいで、
親子水入らずの席が
台無しになったと思いきや、
千切りになったソーセージのせいで
ギルゴールとシピサの距離が
ぐっと縮まったような気がしました。
サーナット卿のせいで
落ち込んだラティルが、
ギルゴールを怖がることなく
言いたいことをポンポン
口にしたことが
家族らしい雰囲気を
醸し出しているように思えました。
サーナット卿は
ラティルのために生まれた騎士なので
彼女を守らなければいけないという
使命があり、
一時、彼女への愛情を
失ってしまったけれど
彼女のそばにいて、
騎士としての
務めを果たしているうちに
再び、彼女に対する愛情が
生まれてきたように思います。
ただ、感情を失う前の
ラティルのことが
好きで好きでたまらず、
騎士でいるだけでは飽き足らない
状態にまでは、
まだ戻って来ていないのだと
思います。
けれども、サーナット卿は
大人の男性で、目の前に、
疲れきって無防備な女性が
横になっていて、
しかも、その人のことが
嫌いでなければ、
欲望に負けて、ついフラフラと
手を出してしまったのは
仕方がなかったのだと思います。
サーナット卿は、
ほぼ、以前と同じような感情を
取り戻したけれど、
他の側室たちのように、
ハーレムで彼女を待つよりは、
騎士として
常にラティルのそばにいる方がいい。
そうなると、
側室になるための誓約式に着る礼服は
必要なくなる。
でも、それは、女性にとっての
ウェディングドレスの
ようなものだから、
ラティルと結婚するために
作った礼服を、
他の人が着るのは我慢できない。
しかし、手元にあれば未練が残る。
サーナット卿は、迷いを絶つために、
礼服を燃やしてしまったのではないかと
思います。
たった一人の愛する人のために
ウェディングドレスを着ていない
ラティルには、
サーナット卿の気持ちが、
理解できないと思います。