9話 エルナはビョルンと目が合ってしまいました。
ビョルンは、
淡々と自分を見つめる女性と
向き合いました。
彼女は美しく、
グレディス・ハードフォートと
系統は全く違うけれど、
とにかく目立つ美人であることを
彼も納得しました。
女の憎たらしい演技に
巻き込まれた理由が、
もしかしたら、そこにあるかも
しれませんでした。
顔と同じくらい、きれいな体の役割も
もちろん大きかったという事実に
何の異論もありませんでしたが
だからといって、
気分が悪くないわけでは
ありませんでした。
女性を注意深く見ていた
レオニードは、
本当に何もない仲なのかと
尋ねました。
ビョルンは、まだ女性を見たまま
「さあ」と無愛想な返事をし、
殿下が望むなら、
築くこともできると言いました。
そして、
ゆっくりとレオニードに向き合い
優雅な笑みを浮かべながら
どんな種類が望みなのかと
聞きました。
「狂った奴」と苦笑いしたレオニードは
この辺で疑うのを
やめることにしました。
ビョルンは、色々な面で
狂った奴であることは確かだけれど
少なくとも真の狂人でした。
ビョルンは、
行って踊りでも誘ったらどうだ。
まさか、王太子の誘いまで
断らないだろうと言うと、
侍従からシャンパンを受け取り
首で女の方を示しました。
なぜ、自分がと尋ねるレオニードに
ビョルンは、
彼女が気に入ったのではないかと
尋ねました。
レオニードは、
何を変なことを言っているのかと
返事をすると、
真顔で眉を顰めました。
ビョルンは、
レオニードの気に入った女性が
自分と絡まっているのではないかと
心配しているのかと思ったと言うと
レオニードは、
全然、あんな女性に興味がないと
返事をしました。
ビョルンは断固たる態度だと呟くと
肩を軽くすくめて
一気にグラスを空にしました。
あの女性は、
一瞬にして今シーズンの
社交界の花になりましたが
豪勢に詐欺に遭って家勢が傾き、
娘を売ろうとする家門。
品位と自尊心を捨て、
喜んでその企みに同調する娘だという
悪い評判は避けられませんでした。
最も、良い評判を
得る気もないだろうけれど。
レオニードは、
すぐに王室の長老たちに呼ばれて
立ち去りました。
与えられた責務は
何でも誠実に果たす彼の弟は、
王太子の役割も
完璧に遂行していました。
数歩進んで立ち止まった
レオニードは、
一緒に行こうと提案するような、
視線を送って来ましたが、
ビョルンは手を振って
背を向けました。
ところが、よりによってそこに
マイアー伯爵夫人がいました。
ビョルンは黙礼すると
儀式的な笑みを浮かべました。
彼女は、
平然と礼儀をわきまえました。
気分が悪いこととは別に、
あの女性の情熱と執念は
喜んで認めるところでした。
マイアー伯爵夫人にとって、
社交界は、
退屈な生活に刺激を与えるゲームを
楽しむ場所で、
緻密な戦略を練って
勝利を勝ち取るのを見ると、
生まれつきの勝負師であることは
確かでした。
つまらないゲームには加わらず
ますます難易度を高めて
自ら限界を試す、
あの大胆さもそうでした。
ビョルンは、
空のグラスを置き、
新しいシャンパンを手に取ると
背を向けました。
もし、マイアー伯爵夫人が
男に生まれたなら、
カードで彼が得た名声は
今と同じではなかったかもしれない。
いずれにせよ、他人の家の娘に
良い結婚相手を探してやる
利他的な賭博なので、
社交クラブのカード屋より
ずっと堅実な趣味を楽しむ女性だと
言っても過言ではありませんでした。
自分に向かって
手招きする群れの方に近づいていた
ビョルンは、視線を感じて
無意識に、そちらへ顔を向けました。
また、エルナ・ハルディでした。
躊躇いながら立ち上がった彼女は、
彼と目が合うと、びっくりして
座り込んでしまいました。
頬を染めて、
レースショールを握った姿が
滑稽でした。
もしハルディという名前と
ビクトリア・マイアーの存在が
なければ、あの女に、うっかり
騙されていたかもしれませんでした。
まさか、冷や汗を流しながら
震える演技までするなんて
思ってもみませんでした。
不安そうに震える目で
彼をチラチラ見ていた女性は、
ふと頭を下げたまま
何かを呟き始めました。
一体、あれは何の企みなのか。
マイアー伯爵夫人の犠牲になった
誰だか分からない馬鹿に
哀悼の意を表し、
ビョルンは、その場を離れました。
どっと近づいて来て、
ビョルンを囲んだ集団が
本当に知らない女なのか。
何の関係もないのかと
急いで尋ねました。
どうか違うと言ってくれと言う
ペーターは
かなり真剣な表情でした。
軽くため息をついたビョルンは、
椅子にもたれて、残りの酒を飲むと
しっかりしろ。 このバカと
友情のこもった
アドバイスをしました。
満開の花の香りでいっぱいの
庭園のテラスで、
深刻に考え込んでいた
フィリップ・デナイスタは
結婚させなければならないと
突然、言い出しました。
そして、
どう考えても、それが最善だと思う。
そうではないかと、
同意を求めるように
テーブルの向かい側に座っている
王妃を見つめました。
茶碗を置いた
イザベル・デナイスタは
小さく舌打ちをして眉を顰めました。
王国が平和と繁栄を享受している
昨今、フィリップ3世の最大の心配事は
長男のビョルンでした。
王妃は、
そのように命じれば、
ビョルンは、本当に
素直に従ってくれるだろうと
返事をしました。
王は、何とかして自分たちの意に
従わせなければと言うと、王妃は
まだ、陛下は、
自分の息子のことを知らないのかと、
ため息をつきました。
王妃は、
もしかして、
気になるお嬢さんがいないか、
そっと聞いてみたけれど
一回の離婚では足りないのかと
断固として拒否された。
どれほど、ぞっとしたことかと
言いました。
あちこちから聞こえてくる
グレディスの名前に
非常に気が散るわけではないけれど、
当事者であるビョルンが、
呑気にしているので、
一層、呆れていました。
グレディスとビョルンが
再び結びつくかもしれないという
とんでもないことが
起こるかもしれないという
仮定だけでも
首の後ろが凝って来ました。
もし本当にそうなったら、
王はラルスとの戦争も
辞さない構えでした。
じっと夫を見つめていた王妃は、
ビョルンとグレディスが
よりを戻すことなどは
絶対にないので心配しないように。
ビョルンがどんな気持ちで
何を諦めて下した決定なのか
よく知っているではないかと
確認しました。
王は、もちろんよく知っていると
ゆっくり頷きました。
子供が生まれた日の夜、
王宮を訪ねて来たビョルンは
王太子の座から退く。
そして離婚すると淡々と宣言し
すでに決めたことなので翻意はないと
落ち着いて付け加えた
ビョルンの顔には、どのような感情も
込められていませんでした。
わずか22歳に過ぎない王太子の
もの静かで、ものすごい態度が
彼を圧倒しました。
結局、彼らは息子の意思を
受け入れました。
それが最高の統治であることを
よく知っていたからでした。
しかし、胸が痛むのは
仕方のないことでした。
彼は、国王であると同時に
ビョルンの父だからでした。
王は、
どう考えても、
それ程の解決策はない。
どうにかして結婚させようと
熟考の末に下した結論は、
再び原点に戻りました。
そして、以前のように
自分たちが決めるのではなく、
ビョルンが自ら望んで決める結婚だと
付け加えました。
王妃は、ビョルンが、
それを望んでいないのが
問題だと言うと、
望むように仕向けてみないと。
ところで、あのお嬢さんは
本当にビョルンとは
何の関係もないのかと尋ねると
期待と憂慮が入り混じった視線で
妻を見つめました。
王妃は、
レオニードが何度か確認したけれど
そのような気配は
全くなかったそうだと返事をしました。
王が、そうなんだと呟くと、
王妃は、
まさかハルディ家の令嬢が
気に入ったのか尋ねました。
王は、
そんなことはないけれど、
ビョルンの心さえ動かせるなら、
自分はどんなお嬢さんでも歓迎だ。
もちろん、グレディスより
良いお嬢さんだということが
前提だと言う彼の声からは
隠し切れない怒りが
ぼんやりと滲み出ていました。
王は、
そういえば、
夏の宮殿に移る日も近い。
この夏のシーズンには、
ビョルンに、
もっと気を使うようにしよう。
今年が終わる前に、ビョルンが
まともな家庭を築いているのを
見ることができれば良いのにと
言うと、王妃は喜んで
「はい」と頷きました。
実現の可能性が、
あまり高くない夢だと思いましたが
毎日のように
長男の心配だけをする気の毒な夫に
この程度の希望ぐらいは
許してくれないこともないので、
どうか、そうなるように祈ろうと
言いました。
この頃はどこへ行っても
「エルナ」という名前を
聞いているような気がしました。
花を送ってから何日も経つのに、
どうして何の返事もないのか。
メイドがカードをなくしたのか。
再び、エルナという名前が
聞こえて来ると、
ビョルンは、ゆっくりと
そちらへ顔を向けました。
掛け金をすべて失った集団は、
その女性の話に熱を上げていました。
直接聞いてみたらどうか。
社交的な集まりには現れなくても、
この辺は、
時々、歩き回っているようだ。
何とかしてみたいけれど、
猛々しいメイドが、
地獄の番犬のように
立ちはだかっていて
隙がないという愚痴に、
あちこちから、
笑い声が沸き起こりました。
今日もゲームの勝者はビョルンでした。
賭博場の金をかき集めて
王国の財政に加えるつもりのようだ。
幸運の女神さえ男の顔にこだわると
勝利を逃した人たちのため息が
あちこちで溢れ出ましたが、
ビョルン特に反応することなく
カードルームを離れました。
ビョルンは
広場に面したテラスに向かい、
彼の後を追ってきた集団も
テーブルを囲んで座りました。
ウェイターが置いていった
グラスをいじっていたペーターは
自分もハルディ家に
花を送ってみようかと
そっと呟きました。
またエルナ。
ビョルンは
テーブルに頬杖をついたまま
ウイスキーのグラスを握りました。
自信があるのか。
あの女に噛みつけば
ハルディ子爵の借金まで
おまけについてくるはず。
まあ、耐えられるレベルなら。
これは、近いうちに
ベルゲン伯爵が、
息子を追い出したという
悲しい知らせを
聞くことになるだろう。
ペーターはかっとなりましたが
何の反論もできませんでした。
ハルディ子爵が、娘を餌にして
何を得ようとしているのか、
社交界の人全員が知っていました。
権勢の高い名門家では、
決して、そのような結婚を
受け入れないということも。
運が良ければ裕福な貴族の後妻。
あるいは爵位のない
大富豪の妻ぐらい。
いくらマイアー伯爵夫人だとしても、
それ以上、得ることは難しいだろう。
今のハルディ家の境遇を考えれば、
それさえも
奇跡的な成果だろうけれど。
落ち着かない表情をしていた
ペーターが立ち上がると
あれはエルナ・ハルディではないかと
叫びました。
ビョルンはそちらを向きました。
早朝のタラ通りの向こうから
2人の女性が
ゆっくりと歩いて来ていました。
ゴムまりのように歩く
背の高いメイドと
軽やかに後を追っている
レースだらけの小さな女。
つばが広い帽子に
日傘までさしていて、
顔を見分けることは
できませんでしたが、
それでも、その女性が
エルナであることに
疑いの余地がありませんでした。
100年前の絵の中から
出てきたような恰好で
繁華街を歩き回る淑女は
エルナ・ハルディだけでした。
マンガでは省かれていた
子供が生まれた日の夜という言葉。
皆様の推察通り、
男の子が生まれて、
その子を王にしないために、
ビョルンは離婚して
王太子を退いたのですね。
こんなに大事な説明を
なぜ、マンガで
省いてしまったのでしょう。残念。
背景が黒なので夜だということは
分かるけれど、
いつ、そう言ったのか、
分からないと思いました。
きっと作画担当者様は、
読者の推理力を期待したのだと
思うことにします。
今回、ビョルンは
自分が対象にされたと思ったので
気分が悪くなったけれど
マイアー伯爵夫人を
正当に評価しているという点は
すごいと思いました。
彼は、やはり
人を見る目があると思います。
ビョルンが、
エルナの体をきれいだと思ったのは
マイアー伯爵夫人の作戦が
見事に成功したということですね。
誰と比べてきれいだと思ったのかは
考えないことにします(笑)
100年前のような恰好をしているのは
エルナだけだと知っているビョルン。
ビョルンは駅で初めてエルナに会い、
その後、街でエルナは
ビョルンを見かけたけれど、
おそらく彼は
エルナに気づいていないはず。
そして、
パーティでエルナと会った時、
彼女は挑発的なドレスを着ていた。
途中の描写が省略されていなくて
その後、ビョルンが
一度もエルナを見ていなければ
彼は、この時点で、
自分でも知らないうちに
駅で出会ったのがエルナだと
気づいていたことなのだと思います。