10話 エルナはリサと街の中を散歩しています。
向こうの浜辺で見る夕焼けが
本当にきれいだけれど
行ったことがあるか。
今日の夕方にでも
一度行ってみないか。
いいえ、まだ治っていないので、
どうしても、夜の空気は良くない。
自分1人で浮かれて申し訳ないと
はしゃいでいたリサは
心配そうな表情をしました。
そのおしゃべりに耳を傾けながら
歩いていたエルナは、
立ち止まって頭を上げると、
もう大丈夫、具合は悪くないと
返事をしました。
エルナの顔色が、
まだ、とても青白いので
リサは、本当に大丈夫なのかと
心配しましたが、元々、お嬢様は
雪のように真っ白だと言うと、
見ているだけで気持ちが良くなる
明るい笑顔を見せました。
再び、この都市の名所について
説明し始めたリサに付いて
エルナは足早で歩き始めました。
まだ早朝だったので、
ほとんどの店は閉まっていました。
街が閑散としている中、
エルナは久しぶりに、気楽に散歩を
楽しむことができました。
王宮の舞踏会から帰って来たエルナは
丸3日間寝込みました。
仮病扱いしていた子爵夫人も、
熱がなかなか下がる気配を
見せなかったため、
急いで医師を呼びました。
とても丈夫ではなくても、
こんなに弱くもなかった。
一夜にして変わった人生に
体が耐えられなかったようでした。
こんなことで、
1年をうまく耐え抜くことが
できるのだろうか。
恐ろしかった舞踏会のことを
思い出すと、自然に
エルナの心臓の鼓動が速くなりました。
一瞬、目の前が真っ白になり、
息ができなくなった、あの日の苦痛を
医師に説明してみたけれど、
帰ってきたのは
ありふれた神経症だという
無頓着な言葉だけでした。
慣れれば良くなるだろうから
気持ちを楽にするようにと
言われましたが、
到底できそうにありませんでした。
しかし、エルナは素直に頷きました。
すでに約束をして、
その代価を受け取っているので
エルナは1年間、
ハルディ家の令嬢の役割を
うまくやり遂げる義務がありました。
祖父母の名誉を守るためにも、
必ずそうしなければなりませんでした。
もう一度、決意をした瞬間、
「こんにちは、ハルディさん」と
雄叫びが聞こえて来ました。
エルナは、反射的に肩をすくめて
あたりを見回しました。
噴水台の裏側に見える
華麗な建物のテラスで、
見知らぬ男が
大きく手を振っていました。
当惑しているエルナに、
男はもう一度声を上げて
挨拶しました。
その後ろのテーブルに
座っていた男たちの視線も
一斉にエルナに向かいました。
真剣な目で、
彼らを見ていたエルナは、
唯一見慣れた顔である
毒キノコ王子と目が合って
ハッとし、思わずため息をつくと
後ずさりしました。
逃げるエルナの後ろ姿を
見守っていたビョルンの唇から
失笑が漏れました。
詐欺にあった子爵が
変な売り物を出したおかげで
失笑が多くなった気がしました。
ペーターに向かって
ぎこちない挨拶をしたエルナを
メイドが阻みました。
そのように、
しばらく慌てていたエルナは
振り向いて走り出しました。
波打つ豊かなフリルとレースが、
その必死の逃走を、
より荒唐無稽に見せました。
あのメイドは
まさに、地獄の番人だと
ペーターは首を横に振りながら
背を向けました。
ペーターは、
ビョルンを見ても逃げたという事実が
少しは慰めになる。
自分の顔が
問題ではないということだからと
言いました。
確かにそうだねと
誰かが返事をしました。
ペーターは、
本当に何でもない仲に見えるけれど、
ハルディさんは、
舞踏会で注目されるための
手段として、ビョルンを
利用したのだろうかと言うと、
誰かが、
大公にもこんな日が来るなんて。
女に利用されて
捨てられてみた感想は?と
ビョルンに尋ねました。
エルナが消えた街角を
見るのを止めたビョルンは、
ニヤニヤしながら立ち上がることで
代わりに返事をしました。
いつもと変わらない態度でした。
ビクビクしながら
ビョルンの顔色を窺っていた彼らは
ようやく安堵のため息をつきました。
遠ざかっていくビョルンの
後ろ姿を見守っていたペーターは
自分は、まだ彼のことが
よく分からないと
嘆かわしい口調で呟きました。
他の者たちも、沈黙することで
ペーターに同調しました。
遠くから見ると、
ビョルンは何事にも軽くて
魅力的な蕩児だけれど
近くで見るビョルンは、なかなか、
本音が分からない人でした。
平然と笑っていると猶更でした。
ビビッてしまったと、
ペーターは改めて悔しがりました。
クラブから出てきたビョルンを乗せた
馬車は、シュベリン宮殿に向かって
走り出しました。
ビョルンは、
座席の奥深くにもたれかかり、
微かに眠気と疲れが滲み出ている目で
窓から外の風景を凝視しました。
いつの間にか濃くなった緑を見て
夏が近づいて来ていることを
実感しました。
今週末には、王室一家が
シュベリンに来る予定でした。
彼らが滞在する夏の宮殿は
大公邸の敷地内にありました。
馬車で移動しなければならないほど
遠く離れているとはいえ、
結局は同じ塀の中なので、
夏シーズンが来ると、
ビョルンは、面倒で煩わしいことに
巻き込まれるしかありませんでしたが
これも大公の位と共に
与えられた責務の一つでした。
ビョルンが
しばらく目を閉じている間に、
馬車はアヴィト川にかかる橋を渡り、
宮殿の進入路に入り、
やがて王家の紋章で飾られた
大きくて華やかな門を抜けました。
庭園のあちこちに設置された
噴水台の水の流れの音が
爽やかな風に乗って
聞こえて来ました。
ビョルンは、
風でもつれた髪を撫でながら
目を開けました。
アヴィト川とシュベリン湾を
一望できる場所と、数多くの噴水台。
その水流を繋ぐ水路が
整備された庭園のおかげで
大公邸は、
水の宮殿とも呼ばれていました。
やがて、止まった馬車の扉が開くと、
「お帰りなさいませ」と
どういうわけか、
フィツ夫人の声が聞こえて来ました。
ゆっくりと
馬車から降りたビョルンは、
疑問のこもった目で彼女を見ました。
フィツ夫人は息を整えましたが
困った様子で、
お客様が来ていると告げました。
そして、
それは・・・グレディス姫で
書斎で待っていると付け加えると
中央ホールを歩いていた
ビョルンの足が止まりました。
彼はズボンのポケットに手をかけ、
ゆっくりと頭を上げました。
「私共としましては・・・」と
謝るフィツ夫人の言葉を
ビョルンは「分かっています」と
返事をして遮りました。
赤いカーペットが敷かれた階段を
ゆっくり上り始めた彼からは、
いかなる混乱も
見当たりませんでした。
ビョルンは、
心配そうな顔で付いて来る
フィツ夫人に、
お茶を一杯お願いしますと
淡々と命令しました。
優しく微笑んでいる口元とは違い、
瞳は、何の感情も
含んでいませんでした。
言いたいことを
たくさん飲み込んだ彼女は
「はい、そうします」と
返事をすると、
ビョルンに背を向けました。
彼は、すぐに書斎の扉の向こうに
姿を消しました。
それでも、
謝るべきではないだろうかと
エルナは、もう一度、
慎重に尋ねました。
そんな必要はないというリサの返事は
さらに強腰になっていました。
ぎょっとしたエルナは
手に持った茶碗をいじりながら
悩みに耽りました。
舞踏会での王子への失態が気になり
謝りたかったけれど、
彼はいつも大勢の人に囲まれていたので
エルナは、
どうしても近づく勇気を出せず、
適当な機会を
見つけることができませんでした。
しかし、彼が一人だったとしても
結果は同じだったかもしれないと
思いました。
王子と目が合うと
あの日のことが浮び上がり、
胸がドキッとするような気がしました。
目の前で、
あんな姿を見せておきながら、
どうして王子の顔を
再び見ることができるだろうか。
どんなに気を引き締めていても、
気がつくと、エルナは
いつも急いで逃げ出していました。
そんな時には、決まって、
あの恥知らずな
デビュタントドレスと
何気なく半裸の体を見ていた
男たちの淡々とした視線が
思い浮かびました。
大都市とは、
なんて下品な所なのかと思いました。
エルナは、
しばらく考え込みましたが、
自分のせいで、王子は
とても困ったはずなので
謝らなければいけないと思うと
言いました。
どうにも勇気が出ないけれど
だからといって、過ちを犯して
知らん振りをするのは
卑劣過ぎることでした。
しかし、リサは
ダメだと言うと、
ぱっと立ち上がって、
急いで寝室から出て行きました。
それからしばらくして、
大きな箱を抱えて帰って来ると、
リサは、
エルナへの贈り物だと告げました。
戸惑っているエルナに、リサは、
メイドたちがお金を出し合って
買った物なので、読み終わったら
返さなければいけないと
深刻な口調で話しました。
エルナは、
なぜ、これをくれるのかと尋ねると
リサは、社交界の勉強に
これほどいいものはないと答えると
一番上にある雑誌を
エルナの前に差し出しました。
毒キノコであるビョルン王子の
詳細な記事が掲載されている
週刊誌でした。
エルナが何枚かめくると、
穴だらけのページが現れました。
リサは、
毒キノコ王子の悪口を言いながらも
彼の写真が載ると切り抜く、
悪いメイドがいると非難しました。
その後、リサは
真っ青な顔で立ち上がると、
自分は奥様のお使いに行くので
勉強していてくださいと言って
エルナが返事をする前に
寝室を離れました。
1人取り残されたエルナは、
膝の上にある週刊誌を
ぼんやりと見下ろしました。
ざっと目を通しただけでも、
かなり刺激的に書かれた
ゴシップ誌であることが分かりました。
こんな風に、
他人の人生を利用するのは
正しくないという考えと、
それでも抑え切れない好奇心の間で
エルナは悩みましたが、
結局、次のページを
めくってしまいました。
シュべリン社交界の名士たちの
各種スキャンダルと事件、事故。
華やかな広告や星座占い、
そして、恋愛相談まで。
その雑誌には、
様々なニュースが載っていて、
たまに買ってみた田舎の雑誌とは
全く違う、かなり衝撃的な世界でした。
最後の週刊誌を読み終わる頃になると
エルナは、シュベリンの社交界の
トラブルメーカーを、大まかに
把握できるようになりましたが、
最も圧倒的なのは、
毒キノコ王子の
ビョルン・デナイスタでした。
このような雑誌に載せられた話が
全て真実ではないだろうけれど
彼の人生は、
エルナが理解できる範疇を
はるかに超えていました。
何よりも、
我が子を捨てた父親という点で
そうでした。
グレディス王女と離婚して以来、
王子は息子に
一度も会ったことがない。
子供は何年も生きられずに
病気で亡くなったけれど、
王子は、
そのかわいそうな息子の葬式まで
無視した。
エルナは、思わず唇を噛み締めました。
よく知らない人に対して
むやみに評価を下すのは軽率だけれど
王子は非常に悪い人だと思いました。
お話の前半は、
マンガに描かれていないエピソード。
リサを地獄の番人と命名したのは
ペーターでしたね。
リサは、
田舎で純粋に培養された、
世間知らずで優しいエルナを
守らなければいけないという
使命感に燃えて、
地獄の番人と化したのだと思います。
ビョルンは、
エルナが街角に消えるまで
ずっと見ていたのですね。
すでに、エルナに気持ちが
かなり傾いているように思います。
結構、エルナに本気のような
ペーターが哀れです。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
ちょうど一週間前、
家族がコロナを発症しました。
移ったら、
このブログが書けなくなる!
と思い、この一週間、
戦々恐々としていましたが、
今まで、発症しなかったので
とりあえず大丈夫そうです。
インフルエンザも
流行ってきているようですし
皆様も、お体をご自愛ください。