163話 外伝11話 マティアスと出くわしたレイラは恐怖で固まってしまいました。
子供は彼を見て逃げ出しました。
マティアスは、
逃げるその子を発見すると、
躊躇うことなく追いかけました。
あまりにも、ありきたりで
退屈な出し物でしたが、
そのありきたりなことには
それなりの楽しみがあるので、
あえて、拒むつもりは
ありませんでした。
たかが、あの子供だけを基準にして
それ以上のことを考える理由は
ありませんでした。
一体なぜ、何を避けて
逃げようとしているのか。
子供が逃げていく方向へ
馬を駆るマティアスの目が
細くなりました。
しばらくは、
最初の出会いの記憶のためだろうと
思ったりもしました。
撃たれるところだったので、
子供がひどく怯えたのも
無理はありませんでした。
しかし、その後も相変わらず、
いや、ますます必死に彼を避けて
逃げる姿に、
妙に気に障るところがありました。
とんでもない女の子でした。
あれほど臆病でありながらも、
窮地に追い込まれると、
涙でいっぱいの両目で
彼を睨みつけました。
そのような瞬間のおかげで、
マティアスは知りました。
庭師が引き取った幼い孤児は、
アルビスの夏の森に似た瞳を
持っているということを。
小さくて痩せていて、
見栄えが悪かったため、その目が
一層、際立って見えました。
あの最初の夏に比べると、
今は大分、
成長したような気もしました。
そうは言っても、相変らず
子供にすぎませんでしたが。
レイラだったっけ。
たぶんレイラ・ルウェリン。
マティアスは
意図的にゆっくりと馬を走らせ、
子供の後を追いました。
しかし、距離は急速に縮まり
振り返る度に近づいている
彼を見る子供の瞳に浮かぶ恐怖も
大きくなっていきました。
バラ?
マティアスが、
子供が抱えている花を発見した瞬間
振り返るのに夢中で、
足元の石を見ていなかったレイラが
転びました。
短い悲鳴が、
森の小道の平穏を揺るがしました。
マティアスは、倒れている子供の前で
馬を止めました。
地面に落ちて散ったバラの花びらが
風の流れる方へ舞い散りました。
マティアスの視線が、
しばらくそこに留まっている間、
子供は飛び起きて
後ずさりしました。
乱れた髪の間から見える小さな顔は
真っ赤に燃えていました。
そして目。 また、あの目でした。
「あっ、こんにちは、公爵」
無駄な行動を、もう諦めたかのように
子供は、
その場におとなしく立ったまま
頭を下げました。
しばらく現われた顔は、
流れ落ちた髪の毛の中に
再び隠れました。
未熟なまま、細い腕と足だけが
ひょろりと伸びた子供は、
森でしばしば出会う
子鹿を思い出させました。
馬の背中の上に座った
マティアスの視線は、
肩を丸めてうなだれている
レイラの上に、しばらく留まった後
再び地面に落ちたバラへ
向けられました。
その間に子供は、道の端まで
退いていました。
木の後ろに半分隠れて震えている姿は
以前と変わりませんでしたが、
マティアスは、
妙な異物感を覚えました。
そして、ふと、
このありきたりな出し物が
退屈になりました。
あんな子供が何だと言うのか。
気に障るけれど、だからといって
あまり気になることは
ありませんでした。
ほんの少しの楽しみのための
些細な例外でしたが、
もう、その楽しささえなければ、
あえて、こんなことに
時間を割くのも滑稽でした。
もう馬を回そうとしたマティアスは
眉を顰めて、バラの花束を
じっと見下ろしました。
再び吹いてきた風に乗って、
散った花びらは、もう少し遠い所まで
ひらひら舞って行きました。
彼は、ゆっくりと下ろした猟銃の先で
不格好な花束を指すと
「拾え。お前のものだろう」
と指示しました。
ぼんやりと彼を見ていた子供の緑の目が
涙で透明に膨らみました。
マティアスの視線は、かなり長い間
その目の上に留まりました。
その時間だけ、夏の午後は
ますます退屈になりました。
馬から降りたのは、そのためでした。
もはや、楽しめなくなった暇つぶしを
そろそろ終わらせるために。
マティアスは、
捨てられていたバラの花束を拾うと
木の後ろに隠れている
子供のそばに近づきました。
そして、丁重に、しかし、
必要以上の礼儀が込められていない
身振りで、それを渡しました。
アルビスの使用人たちに対する
ヘルハルト公爵の態度に
完璧に合致する態度でした。
思わず花を受け取った子供は、
混乱した顔をしていました。
しかし、彼の知ったことでは
ありませんでした。
マティアスは、自分の影の下で
慌てていた子供を残して、
ついに、背を向けました。
邸宅に戻る途中、
さらに数羽の鳥を撃ちました。
平凡な午後の悪くない狩りでした。
バラの庭を横切っている途中、
ビル・レマーに出くわしたことも、
その範疇から、
大きく外れていませんでした。
「あの、公爵様」
いつものように無愛想な挨拶をした
庭師が、意外にも
先に話しかけてきました。
マティアスは後ろ手に組んで
彼と向き合いました。
いつもの彼らしくなく、
ビル・レマーはもじもじしながら
公爵家の二人の女主人が
特に大切にしている貴重なバラが
咲いている花壇を指差し、
自分があのバラを
持って行ってもいいかと尋ねました。
マティアスは、
大したことないというように、
「はい、いくらでも。
レマーさんが好きなだけ」と
適当に無関心で寛大な返事をすると
このくらいで背を向けました。
しかし、数歩もしないうちに、
彼の視線は
再び庭師に向けられました。
彼は持って行く許可を求めた
そのバラが咲いている花壇の方へ
中腰で近づいているところでした。
「ああ、レマーさん」
彼の呼びかけに、
巨体の男はビクッとして
ぎこちない姿勢で立ち止まりました。
しばらく考え込んでいたマティアスは
「いいえ」と言うと、
顎の先で軽く挨拶することで
無意味な疑問を払拭しました。
しばらく預かることになった
あの孤児は、
いつまでこのアルビスに留まるのか。
ふと、それが気になりましたが、
関わりたくはありませんでした。
もう面白くなくなった、
アルビスの数多くの使用人の中の
一人に分類された子供の身の上を、
自分が知らなければならない理由は
ありませんでした。
マティアスは、
そのまま庭を去りました。
そして、その子を忘れました。
翌年の夏にも、ヘルハルト公爵は
変わらず、アルビスに戻りましたが、
もはや森に住む孤児を
追いかけるようなことは
起きませんでした。
そして、その翌年、マティアスは、
家門の伝統に従い、
王立軍事学校を経て
将校に任官しました。
海外戦線に服務している間は
領地に帰還せず、
何でもないその子は、蒸発するように
マティアスの人生の中から
姿を消しました。
完璧なヘルハルト公爵の人生のどこにも
そんな無意味な記憶が宿る場所は
ありませんでした。
本当にそうでした。
戦線から帰ってきた夏、
美しい緑の波が立っていた
プラタナスの道の上に立つまでは。
レイラは、一番最後に発見した、
去年の夏にレイラが糸を結んだ
きれいな水鳥と一緒に
そのバラを埋めました。
適当な深さに掘った穴に
血まみれの冷たい鳥を寝かせた
レイラは、そのそばに、
そっとバラの花束を置きました。
地面を転がったので、
かなり傷んでしまいましたが
まだ半分ほどのバラは
瑞々しくて美しいままでした。
しばらく躊躇ったものの、
それでもレイラはシャベルを握り、
ゆっくりと土をかぶせ始めました。
公爵が花束を拾ってくれるなんて
想像もしていませんでした。
それも、あのように丁重で、
他の誰もが知っている
ヘルハルト公爵のように。
どれほど不思議で変だったことか。
アルビスの人々が口を揃えて褒める、
まさにそのヘルハルト公爵に
初めて会った気分でした。
もしかしたら、他の方法で
いじめようとしているのではないかと
ビクビクして息を殺しましたが、
それ以上のことは起きませんでした。
拾ったバラをレイラに渡した公爵は
振り向いて去って行きました。
その事実に気がつくと、
ようやく安心しました。
そして、突然、
クロディーヌが捨てたバラを
プレゼントだと想像して
浮かれていた自分の姿が
恥ずかしくなりました。
しかし、捨てることができなかった
その花束を抱えて小屋に帰る道は、
いつもより、
ずっと長く感じられました。
だから、もらっては
いけないものだったんだ。
公爵が命を奪った鳥たちを
埋めるために、
手袋とシャベルを持って
出かける途中でレイラは、
確固たる決意を固めました。
そして部屋に戻り、
机の端に置いてあった花束を
手に取りました。
その記憶と共に、バラは
死んだ鳥のそばに埋葬されました。
そして、レイラは
いつもより速く走って、
小屋に戻りました。
公爵様が、
どうか狩りを嫌いになるようにと、
数年間、
叶わない祈りを繰り返しながら。
玄関のドアを開けようとした
まさにその瞬間、
今日も、森中を、
歩き回って来たみたいだと言う
力強い声が聞こえて来ました。
レイラはビクッとして
頭を上げました。
ポーチで、前屈みになって
椅子に座っているビルおじさんが
レイラを見つめていました。
「ほら、まだ子供だ。 随分、幼い」
という、皮肉な言い方とは裏腹に、
その口調はかなり穏やかでした。
手袋とシャベルを下ろしたレイラは、
早足で彼のそばに近づきました。
習慣的に、
ビルおじさんの隣に置かれた
自分の椅子に座ろうとした
レイラを止めたのは、
そこに置かれた花束でした。
きょとんとしているレイラと目が合うと
ビルおじさんは、
そっと顔を背けました。
「これは何ですか?
おじさんがもらって来たのですか?」
と尋ねるレイラに、
火をつけていないタバコを咥えて
噛み続けていたビルは、
「まあ・・・そういうことだ」と
答えると、ため息をつきながら
再びレイラに向き合いました。
ビルおじさんが、
「お前にやる」と言うと、
レイラは、
本当に自分のプレゼントなのかと
驚いて尋ねました。
ビルおじさんは、
プレゼントだなんて。
あちこちに散らばっていたものを
折ってきただけだと、
大したことないように言いましたが
レイラはすでに感激し、
途方に暮れた顔になっていました。
レイラは、自分の胴体ほどの大きさの
花束を抱えて、ポーチを
あちこち歩き回りました。
日光に当て、日陰でまた見て、
花をそっと撫でて、
にっこりと笑いました。
ビル・レマーは、
その恥ずかしいことが与えた
恥ずかしさを忘れて、
笑いを噴き出しました。
あんなに喜ぶべきことなのかと
思いましたが、子供が喜ぶと
自分も微笑ましくなりました。
バラをギュッと抱いて
彼のそばに座ったレイラは、
これは奥様たちが好きな
貴重なバラなのに、
こんなに、たくさん
摘んできても大丈夫なのかと
心配そうな顔で尋ねました。
目をパチパチさせていたビル・レマーは
わけもなく恥ずかしくなり、
全く、子供は
余計な心配ばかりするものだと
大声で叫びました。
それでも、
レイラが心配そうにしていると
ビルは、
まさかバラを少し摘んで来ただけで
追い出されることはないだろうから
心配するなと言いました。
レイラは「本当に?」と尋ねました。
ビル・レマーは、
自分が、嘘でもつくと思うのかと
反論すると、レイラは。
そんなことはないと言って
激しく首を振ると、
さらに力いっぱい
花束を抱き締めました。
レイラは、涙をじっと堪えながら
「ありがとうございます。
とてもきれいです」と言うと、
明るく笑いました。
鳥と一緒に埋めたバラの記憶を、
もう本当に消すことが
できるような気がしました。
こんなに大きくてきれいな、
レイラ・ルウェリンだけのための
本当のプレゼントをもらったから。
レイラはバラの花束に顔を近づけ
しばらくその甘い香りを嗅ぎました。
その間に、熱くなった目頭と鼻は
次第に落ち着いて行きました。
女になるというのが
どういうことなのか
まだ、よく分かりませんでしたが、
漠然とした恐怖は
もうありませんでした。
全てが、
うまくいきそうな気がしました。
バラ色で甘く、
ビルおじさんの祝福のように。
その日、二人は
いつもより長い時間
ポーチに留まりました。
特に親し気な素振りはしませんでしたが
ビルおじさんは何度も
レイラの頭を撫でてくれました。
ぶっきらぼうだからこそ、
より優しく感じられる手つきが良くて、
レイラはたくさん笑いました。
おじさんがくれたバラに
棘がないことを知ったのは
その夜でした。
花瓶に挿すために、
包んであった新聞紙と紐をほどくと、
現われた茎には小さな棘一つなく
滑らかでした。
そのたくさんのバラ全てがそうでした。
そうして深まっていった夏は
すぐに終わりました。
公爵はアルビスを去り、
森は平穏を取り戻しました。
そして、その森でレイラは
ようやく安心したように
急速に成長しました。
モナ夫人が予見した、
少女を女に変える歳月の魔法が起きた
時間でした。
そのような平穏な日々が続きました。
公爵が帰って来た、
あの夏が始まる前までは。
その長い日々の記憶を遡っていた
レイラの目は、
花びらを挟んだ本の上で止まりました。
時間が経って、
ビルおじさんがくれたバラは
散ったけれど、
その記憶は、
心からの愛を受けた美しい日々として
依然としてレイラの中に
鮮明に残っていました。
だからレイラは分かりました。
時間が経てば、
マティアスがくれたバラも
散るだろうけれど、
その記憶は永遠に、
自分の人生の一部になって
共にあり続けるということを。
鳥と一緒に埋めなければならなかった
あの傷んだ花束ではなく、
そっと耳元に挿してくれた、
あの夜の、あの美しいバラとして。
少し熱くなった目をゆっくり閉じて、
開いたレイラは、
軽やかな身振りで窓枠から降りました。
ノックの音が聞こえて来たのは
その時でした。
開いたドアの向こうには、
老婦人に仕えるメイドが
立っていました。
礼儀正しく挨拶した彼女は、
落ち着いた声で、
お二人の奥様が呼んでいるので
一緒に行きましょうと告げました。
緑色の目は珍しく、
世界で2%程度しかいないそうです。
マティアスにとって、
小さかったレイラは、
何でもない存在で、
軍に入っていた間は、
存在さえ忘れていたのに、
印象的な緑色の目の記憶だけは、
心のどこかに、ずっと
残っていたのではないかと思います。
二人の奥様が特に好きな貴重なバラ。
レイラの腰ほどもある大きな花束。
しかも、棘まで取ってある。
ビルおじさんが口では何を言っても
この花束を見れば、おじさんが
レイラのことを、
どれだけ愛しているか分かります。
余談ですが、
バスティアンの68話で、
オデットがバスティアンと一緒に
カルスバルにやってきた時に
ヘルハルトの奥様たちから
昼食会の招待状を受け取って
オデットが出席することに悩むシーンと
69話では、昼食会のシーン。
そして、ヘルハルト家から帰る時に
レイラの自転車とすれ違うシーンが
出て来ます。
どちらも、
マンガには描かれていなかった
シーンですので、良かったら
お読みください。