652話 ラティルは目覚めるべきか否か迷っています。
◇目覚めない皇帝◇
ラティルは眉間にしわを寄せ、
微かに首を傾げました。
今陛下が少し動いたようです!
それを見たアトラクシー公爵は
目を大きく見開いて叫びました。
しかし、側室たちは
興奮しませんでした。
アトラクシー公爵は、
もしかしたら、皆、自分の言葉を
信じていないのではないかと思い、
本当に動いたと、
急いで言いましたが、ラナムンは、
その前からずっと動いていると
重い口調で説明しました。
そうだったんですね。
アトラクシー公爵は
肩を落としました。
ラナムンは、寝返りを打つ程度だけれど
ずっと動いていると付け加えると、
何がそんなに深刻なのか、
気絶したままでも、
ひどく顔をしかめている皇帝を
見下ろしました。
ゲスターは、
こうしたらどうかと言って、
ラティルの頭を少し上げ、
枕を少し低いものに変えました。
陛下がこんなにストレスを
受けていらっしゃったとは・・・
ロルド宰相は、
ため息をつきながら呟きました。
大臣たちが言い争う姿を、
ずっと疲れた目で眺めていた皇帝が
突然倒れてしまった瞬間、
彼らは皆、心臓がもぎ取られるような
恐怖を感じました。
その後、皇帝は何ヶ月も
目を覚まさないままでした。
驚くべきことは、そんな中でも
皇帝と胎児が非常に健康な状態を
維持しているという点でした。
この神秘的な点は、
レアン皇子を支持する大臣たちが
むやみに声を出せないように、
十分な役割を果たしていました。
早く、お目覚めにならなければ・・・
侍従長は苦しそうな声で呟きました。
皇帝の神秘的な面が
反対派の口を押さえていましたが、
時間が経てば経つほど、
その効果は弱まるはずでした。
アトラクシー公爵とロルド宰相、
侍従長は、面会時間が終わると、
外に出ました。
扉が閉まる音がすると、部屋の中には
ラティルの正体について
知っている人だけが残りました。
おい、温室!
クラインは、
言葉に気をつける必要がなくなると、
ギルゴールは長く生きているのだから
皇帝を、どのように起こすのか、
本当は知っているのではないかと
ギルゴールを問い詰めました。
クラインは、
すでに16回もこの質問をしていました。
知らないんですけど、坊ちゃん。
ギルゴールも同じ答えを
16回繰り返しました。クラインは、
その年になっても、
それを知らないの?
と大声で叫びましたが、
カルレインに口を塞がれました。
クラインが静かになると、
一瞬にして、部屋の中に
重苦しい沈黙が訪れました。
しばらくの沈黙の後、
とりあえず、私たちも出ましょう。
とタッシールが声をかけました。
続けてタッシールは、
皇帝は病人だ。
怪我はないけれど、
少し楽にさせてあげた方がいいだろうと
言いました。
この言葉が正しいかどうか、
タッシール本人も知りませんでしたが
大臣たちが言い争っているのを見て
倒れた皇帝が、目覚めた時に、
自分たちが言い争っているところを
タッシールは
見て欲しくありませんでした。
扉まで歩いて行ったメラディムが
今度、
陛下のそばにいるのは誰ですか?
と、また戻って来て尋ねました。
側室たちは、倒れた皇帝のそばで
順番に彼女に付き添っていました。
私です。
ギルゴールが
笑いながら手を上げると、
メラディムは返事もせずに
出て行きました。
側室たちが一列になって出て行くと、
あっという間に、
大きな部屋の中が荒涼としました。
その時になって、
ようやくギルゴールは手を下ろし、
ベッドの横へ
ゆっくり歩いて行きました。
ラティルは再び眉をひそめて、
頭を動かしました。
ギルゴールは枕元に座り、
ラティルの鎖骨の辺りを
軽く叩きながら、
お休みなさい、お休みなさい。
私の赤ちゃん。
と子供をなだめるように
口ずさみました。
しかし、何の役にも立ちませんでした。
ラティルが短いため息をつきながら
体を捻ったので、
口の中に髪の毛が入りました。
ギルゴールは髪の毛を、
そっと抜き取ってから、
遠い昔のことを思い出しました。
◇神官たちの主張◇
吸血鬼村を襲撃した後、アリタルは、
再び行方をくらましました。
しかし以前のように
何年も消えはしませんでした。
彼女はセルを襲うために
1人で神殿を訪れました。
訪ねてきたアリタルの手は、
かつて彼女に従った神官の血で
染まっていました。
アリタルが大きな被害を与えた後
逃げると、神官たちは
傷を適切に治療する間もなく
ギルゴールを訪れ、
アリタル様が、
ずっとセル様を狙っている。
堕落した大神官は
シピサ様の命を奪ったように、
セル様の命も奪いたがっていると
訴えました。
また、別の神官は、
アリタル様はシピサ様の命を奪った後、
死体をどこかへ持って行った。
何か恐ろしい黒魔術に
使ったのかもしれないと訴えました。
セルが、そう遠くない所にいました。
ギルゴールは、
子供がその話を聞くことを恐れ、
静かにするよう手で合図をしました。
建物は、しばらくの間
静まり返りました。
ギルゴールは、
なぜアリタルが、
自分の子供たちを狙うのかと
静かな声で反論しました、
先程、ギルゴールは、
アリタルが現れた茂みの近くに
行ってみました。
あちこちに血が落ちていました。
血のにおいを嗅ぐと、ギルゴールは
お腹の中がねじれるような
空腹を感じました。
しかし、彼は落ち着いて
その場を離れました。
ギルゴールは、
ある日、突然変な体になりましたが、
一度も誰かの血を
飲んだことはありませんでした。
しかし、神官は
ギルゴールの後を追いかけながら
アリタル様がセル様を狙う状況が
とてもはっきりしている。
これで、もう何回目かと
訴えました。
ギルゴールは手を振って調理室に入り
冷たい水を飲みました。
水を何杯も飲むと
喉の渇きが少し和らぎました。
ギルゴールはコップを下ろすと
近くの椅子に座りました。
神官たちの言うことは正しく、
ギルゴールが
アリタルを信じようとして
彼らに反発すればするほど、
彼女はこれ見よがしに
悪くなっていきました。
◇迷いを捨てろ◇
ギルゴールは、
アリタルが近くまで来たけれど、
神官たちに追い払われて以来、
その付近を歩き回り、
もしかしたら、
彼女が戻って来るのではないかと思い
彼女を待っていました。
しかし、アリタルは彼のもとに
現れませんでした
アリタル様は
セル様を狙っているのです。
アリタルに会えず、
静かに神殿に戻ってきたギルゴールに
長老が言いました。
なぜ、アリタルが?
ギルゴールは、この数年間、
数百回、繰り返し
この質問を投げかけました。
それに答えられるのは
アリタルだけでしたが、
彼は多くの人に、
この質問を投げかけました。
アリタルは堕落したから、
彼女と正反対の神聖なセルを狙うと
長老はすぐに答えました。
目の前に、
はっきり見える正解があるように、
少しも迷いがありませんでした。
長老は、
セルはアリタルが
大神官だった時代と同じくらい
清い力を持っていると言うと、
ギルゴールは眉をひそめました。
長老の言葉は本当でした。
セルはあれほど幼いのに
アリタルを思わせるほど
強力な神聖力を持っていました。
しかし、
あれほど強い力を持っているのに
大神官に任命する信託が
降りて来ませんでした。
けれども、セルの追従者は
日々増え続けていました。
そして、彼らの心配も
日に日に募りました。
長老は、
ギルゴールの部屋まで付いて来ると
堕落したとはいえ、
大神官はアリタルだ。
彼女が生きているので、
新しい大神官を選ぶことができないと
激しい言葉を吐き出しました。
ギルゴールは首を横に振り、
扉を指差しました。
もう騒ぐのは止めて
出て行けという合図でした。
長老は、
アリタルのためにも、ギルゴールは、
その迷いから脱する必要がある。
今のアリタルは、
自分たちが知っているアリタルではなく
殻のような別の存在だと
部屋の外へ出ながらも
話を止めませんでした。
辛うじて長老を追い出したものの
ギルゴールは
休むことができませんでした。
お父さん。
出て行く長老と
挨拶を交わしたセルが
部屋の中へ入って来ました。
ギルゴールが両腕を広げると、
セルは、すぐに近づいて来ましたが
幼い時のように
胸に抱かれる代わりに、
ギルゴールの前まで来ました。
子供はわずか13歳でしたが、
表情は疲れ果てた大人のように
見えました。
セルは、1人用ソファーの脚に
もたれかかりながら
いつまでも、恐れていてはいけないと
呟きました。
ギルゴールは、
恐れているって?
と聞き返しました。
セルは、
母親が自分の命を奪いに来ると
皆が言っていると答えました。
ギルゴールは、
神官たちに言うように、
そんなことはないとは
言えませんでした。
ギルゴールは、アリタルが
セルの首に手をかけているのを
自分の目で目撃したからでした。
お父さん。
セルは、
アリタルにそっくりな目を上げて
彼を見上げると、
自分は自分自身と父親と人々を
守りたいと言いました。
◇襲撃◇
セルは、
自分がどこにいるか噂を流して、
アリタルが
自分の命を奪いに来るかどうか
試してみようという提案をしました。
もしアリタルが現れて
セルを攻撃するならば
アリタルがセルを狙っているのは
間違いありませんでした。
もし、母親が現れなければ
彼女は堕落していても、
自分を狙っているわけではないと
セルは主張しました。
神官たちは、
セルの考えは危険だけれど、
かなり有用だと賛成しました。
ギルゴールは反対しましたが、
神官たちはすでに、
聖騎士である彼よりは、
大神官になるかもしれない
セルの意見を、
より尊重していました。
ギルゴールが
アリタルと関連したことだけには
手を引くという点も
彼らの不信に一役買いました。
ある国のお祭りの日。
神殿ではセルを
「有力な大神官候補」と紹介して
祭りに参加させました。
セルは、祭りを見物できる高い場所で
神官たちの護衛を受けながら、
いつアリタルが現れても
対応できるように準備していました。
最初は何も起こらなかったので
ギルゴールは安堵しました。
しかし、セルに祝福を求めて
近づいて来た人に、彼が
祈りを捧げようとする瞬間、
群衆の中から
仮面をかぶった者が現れ、
セルを斬りつけました。
ギルゴールは槍を持ち上げて
その者の剣を防ぐと、
今度はフードをかぶった女性が現れ、
ギルゴルの首を狙いました。
アリタル!?
ギルゴールは女性の顔を見る前に
正体に気づきました。
仮面はギルゴールに向かって
剣を振り回しました。
ギルゴールは、アリタルと仮面を
同時に相手にすることになり、
顔をしかめました。
アリタルは元々強かったけれど、
仮面の動きも
尋常ではありませんでした。
アリタルが作った
吸血鬼だろうか?
そうしているうちに、
ギルゴールの槍にひびが入った瞬間
彼が慌てて、折れた槍を
武器に使おうとしましたが、
その瞬間、仮面をかぶった人が
セルに向かって何かを投げました。
セル様!
同時にセルを呼ぶ叫び声が聞こえ、
血の匂いが流れました。
ギルゴールは
アリタルを振り切って
セルに向かって走って行きました。
セル!
セルの腹部が、
何かでへこんでいました。
セル!
子供の顔が目に見えて青白くなり、
あっという間に唇から
血の気が消えました。
ギルゴールはセルを抱き上げました。
子供を医者に見せる必要があるので
彼はセルを抱えて
医者の所へ走って行きました。
アリタルと仮面が
邪魔をすると思いましたが、
彼らはセルがすでに
死んだと思ったのか
消えた後でした。
セルを診察した医者は
怪我が大き過ぎるけれど、
最善を尽くして治療をすると
ギルゴールに告げました。
急いで手術を受けたセルは
助かりましたが、
数日間、目を覚ましませんでした。
ギルゴールは、
セルのベッドのそばで
自分の無能さと優柔不断さを
責めました。
すべての状況が、
アリタルを犯人として
特定しているにもかかわらず、
彼は愚かにも
アリタルを信じていました。
しかし、最も愚かで情けないのは、
こんな風に考えていても、
アリタルが帰ってくると
自分の心が
また弱くなるという点でした。
お父さん。
6日後に目が覚めたセルは、
ギルゴールを見ると、
昔のように呼びながら泣きました。
ごめんね、ごめんね。
お父さんが悪かった。
ギルゴールは、
セルの小さな手をつかんで
泣きました。
セルは、
裏切った人が悪いのであり、
父親が悪いわけではないと、
一緒に泣きながら
ギルゴールを慰めました。
ギルゴールは、
子供の手に額を当てて
神に感謝の祈りを捧げました。
アリタルとシピサに続き、
セルまで死んだら、
彼は一人で生きて行くことができない。
きっと気が狂ってしまうと思いました。
◇もう少しだけ◇
ラティルは、最初のうちは
ドミスの記憶をよく見ていたけれど
時間が経つにつれて、段々、
記憶を見る周期が長くなり、
後になると、まばらになりました。
アリタルの記憶もそうかもしれない。
もしかしたら子供を産む前に
再びアリタルの記憶を見る機会が
来るかもしれないけれど、
ラティルの期限は、
「出産前」ではありませんでした。
子供を産む前に、
再びアリタルの記憶を
見るようになったとしても、
子供を諦める時期を過ぎた後なら
選択肢はないも同然でした
あれこれ計算したラティルは、
結局、側室たちを信じて
アリタルの記憶に
もう少し留まることに決めました。
しかし、焦る気持ちに
勝つことができず、
一気に時間を先に進めました。
アリタルは、
時間を止めた場所で話していました 。
呪いを解く方法を見つけられたかも。
長老たちや神官は
アリタルを悪と決めつけ、
セルにそれを吹き込んでいる。
そして、ギルゴールにも
アリタルが悪だと
認めさせようとしている。
それでも、ギルゴールは
アリタルを信じたい。
おそらく、セルは、
神官たちの言うことが正しいと
思っているけれど、
父親が、そこまで
母親を信じているならと
一縷の望みをかけて、
自分が囮になったのかもと
思いました。
結局、セルは
襲われてしまったけれども、
ギルゴールやセル、そして、
周りの人たちが思っているように
アリタルと仮面が共謀して
セルを攻撃したのではなく、
アリタルは彼を攻撃した仮面を
ギルゴールから守るために
彼に剣を向けたのではないかと
思いました。
アリタルの手が血に濡れていたのも、
自分を守るために
攻撃を防いだだけだとしたら・・・
皆でアリタルを悪者にし、
彼女を
追い詰めようとしているけれど
ギルゴールだけは、
アリタルを信じ続けて欲しいと
思います。