78話 エルナはビョルンと一緒に夕食を取ろうと思っていたのに、彼は出かけてしまいました。
眠りから覚めたビョルンは、
ベッドに仰向けになり
じっと天井を見つめました。
時計を確認しなくても
すでに午後になっている
予感がしました。
今日は、特に予定がない日なので
エルナでなければ、
いたずらに勤勉になる理由は
ありませんでした。
眠気が消えた頭の中に浮かんだ
その名前を
ゆっくりと噛み締めていたビョルンは
長いため息をつきながら
再び目を閉じました。
明け方になって帰宅する日は、
その方が、お互いに楽なので、
あえて、
妻の寝室に行きませんでした。
それだけなのに、エルナは、
ちょこちょこと、つきまとい、
小言を言いました。
時には泣きそうな顔を
することもありました。
ビョルンは、
厄介な女のことを考えながら、
体を起こしました。
鐘を鳴らした直後、
メイドたちが急いで
カーテンを開けました。
日差しが心地よい温かさで
肌をくすぐりました。
エルナの手に似ているような
感触でした。
そう考えた瞬間、
周囲が静か過ぎることに気づきました。
お茶を運んで来たメイドは、
妃殿下は外出したと伝えました。
ビョルンは、
なぜ出かけたのか尋ねましたが
メイドは、
そこまでは自分たちも知らないので
フィツ夫人に聞くと答えました。
しかし、ビョルンは
首を横に振りました。
日差しは温かく、
吹いてくる風に、
かすかな花の香りが漂っていました。
たかが女一人に
気分を台無しにされるには
あまりにも美しい日なので、
あえて気にする必要のないことにまで
気を使わなければならない理由は
ありませんでした。
ビョルンは、
そのように結論を下すと、
お茶を飲みながら新聞を見て、
ゆっくりシャワーを浴び、
バルコニーに設けられた
朝食のテーブルの前に座りました。
妻という存在が
日常をかき乱す前の人生に
戻ったような気分になりました。
ビョルンは、
濡れた髪が乾くまでの間、
日当たりの良いバルコニーに
留まりました。
赤毛の画家。
優しくその名を呼ぶ女の声。
ショーウインドーで見たのと
同じ絵の具。
向き合ったエルナの顔の上で、
ポーカー盤の上で、
酒のグラスの中で、ビョルンは
浮かび上がった染みのような記憶を
ゆっくりと消していきました。
ビョルンは、
実は彼女の全てを
すでに持っていることを
よく知っていました。
エルナは、自分の気持ちを
そのままさらけ出す
無邪気な女であり、
彼はその心に気付かないほど
鈍い男ではなかったからでした。
孵化したばかりの
アヒルの子のように彼に従い、
この世の全てのように彼を見つめ
何でも理解して受け入れてくれる
その女の心は、愛以外の
何ものでもありませんでした。
あの画家の本心は分からないけれど
少なくともエルナにとって
パーベルは友達にすぎず、
絵の具をプレゼントした理由も
決して友情以上ではなく、
彼らの間には何もない。
そして、その女性は
自分を愛している。
そのすべてを、
あまりにもよく知っているという
事実が気持ちを汚し、
その汚い気持ちが、
またもや気分を悪くする。
嫉妬かと、
時々自嘲的な質問を
投げかけてみたりもしたけれど、
結論はいつも、
虚しい笑いが出るだけでした。
何に嫉妬するというのか。
たかがそんな者との
変哲のない関係にか。
狂ってはいないけれど、
それでも、つまらないことに
ビョルンはこだわっていました。
しかし、それを表に出したくなくて
外を出歩いていた
情けない自分の姿も、
ビョルンは消すことにしました。
妻を楽しませ、
その分だけ可愛がる。
ただそれだけで良い関係でした。
不必要な意味付けをして
しつこくすることなく、
今のままで、軽くてさわやかで
この安らかな人生に加えられた
もう一つのごちそうのように。
ビョルンは軽い気持ちで
リンゴを一切れ手に取りました。
一口かじったリンゴの果汁は
甘く舌を濡らしました。
一週間ずっと続いてきた
汚い気持ちは、
輝かしい時間の中で
きれいに姿を消したような
感じでした。
1人で2時間も騒いでいた
幼い大公妃は、
もうこんな時間ですねと驚き
目を丸くしました。
エルナは、
おばあ様の時間を
あまり奪ってはいけないので、
今日はもう帰ると告げました。
すでにあまりにも多くの時間を
毎週奪っておきながら、
改めて廉恥を重んじる大公妃に
呆れた視線を送っても、
ビョルンの妻は、
ただにっこり笑うだけでした。
ずっと沈黙を守っていた
アルセン公爵夫人は、
一体、いつまで、
このようなくだらないことを
するつもりなのかと。
嘆息混じりの質問を投げかけました。
エルナの膝に座って
居眠りしていた公爵夫人の白い猫が
だるそうな鳴き声を上げました。
エルナ·ドナイスタが
最初にアルセン公爵家に
攻め込んできたのは、
冬が終わる頃でした。
彼女は新婚旅行を終えたと
挨拶に来ましたが、
その日、アルセン公爵夫人は
寝室の外に一歩も出ませんでした。
生涯の誇りから恥辱に転落した
外孫も嫌いだけれど、
その子の今の位置を
確認させてくれる証拠のように
感じられる外孫の嫁は
さらに嫌でした。
大公妃はがらんとした応接室で
1人で2時間滞在すると、
来週また訪問するという伝言と
贈り物の箱を残しておいて
帰りました。
見るのも嫌なので、
全て捨てるよう命じましたが、
おせっかいなメイドが、
それらの贈り物を取り出して
確認させてくれました。
室内用スリッパとショール、
そしてコサージュが一つでした。
下品な贅沢を楽しむ子なので、
見るまでもなく高価なもので
歓心を買うのではないかと
思っていましたが、
意外に平凡な贈り物だった。
しかし、
それより、もっと呆れたのは、
アルセン公爵家の
猫のシャーロットへの
小さなクッションと
羽根の付いた釣り竿の贈り物でした。
まさか悪ふざけでも
しているのではないかという
疑いは、すぐに払拭されました。
聞くところによると、
王には読書台を、
王妃には花ばさみを
贈ったとのことでした。
夫の両親が、
国王と王妃だという事実を
すっかり忘れたかのような
贈り物でしたが、
その二人の趣味が
読書と生け花であることを
考えれば、彼女なりに
役に立つものを選んでみようと
努力したようでした。
レオニードへの贈り物は
メガネチェーンだと
聞いた時は、つい声を出して
笑ってしまいました。
顔一つで、大公妃の座を
射止めた俗物だと思ったら、
意外と
面白いところがある子のようでした。
その次の水曜日、
再びアルセン公爵家に現れた
ビョルンの妻に対面したのは、
ただその理由のためだった。
アルセン公爵夫人は、
エルナが狡猾な妖怪なのか、
それとも無策のバカなのか
きちんと確認しようと思い、
彼女と向かい合って座ると、
すぐに、エルナの目的が
一体何なのか話すよう迫りました。
エルナが、
今日、会えれば
話すつもりだったと
嬉しそうに笑っているのを見ると、
どうもバカのようでした。
エルナは、
数ヵ月後のビョルンの誕生日の晩餐に
是非、おばあ様を招待したいと
言いました。
公爵夫人が、
エルナが不躾な言葉を
投げてきたので、
彼女が魔物に近いような気がしました。
公爵夫人は、
エルナの夫の誕生日を
祝わわなくなってから
もう数年になるのを
まさか知らないのかと尋ねました。
エルナは、
知っているけれど、
今年は、是非、おばあ様を
招待したいと答えました。
公爵夫人が
その理由を尋ねると、エルナは
私が夫にあげたい
初めての誕生日プレゼントだと
答えました。
バカのようで妖怪のようでもある
ビョルンの2番目の妻は
天使のような笑顔で
宣戦布告をして来ました。
公爵夫人は、
あえて自分をからかおうとしている
この子を、けしからんと思い
ビョルンに頼まれたのかと
尋ねました。
しかし、エルナは、
ビョルンには
必ず秘密にして欲しい。
サプライズプレゼントを
準備中だからと答えたので、
公爵夫人は
戦意をくじかれました。
それから、もう2ヶ月が過ぎたのに
エルナは、
毎週水曜日になると必ず現れ、
公爵夫人の平穏な人生を
かき混ぜていました。
部屋の扉を閉めて
相手にしなければ、
お茶を飲みながら猫と遊んで行き、
むっつりした顔で向かい合って座ると
ぺちゃくちゃ喋っていました。
ほとんどビョルンの話でした。
早く双子の王子たちの
誕生日が過ぎてしまえば、
息抜きができるだろうと
公爵夫人は舌打ちをして
愚痴をこぼすと、
エルナは晴れやかな顔で、
お誕生日は今年だけではないと
恐ろしい言葉を投げかけました。
ビョルンは、
かなり厄介な花嫁を
選んだような気がして、
つい失笑しました。
毎週、公爵夫人は、
最後に二度と来るなと言いましたが、
エルナは、来週、また来ますと
いつも同じ返事をしました。
夕暮れ時、
エルナを乗せた馬車が
橋を渡っている時、彼女は、
バラ色に染まった空と川、
明かりが灯された橋を見て
感嘆しました、
それらは、毎日のように見ても、
まるでビョルンのように
見惚れてしまうほど
美しい風景でした。
しかし馬車が橋の端に近づくと、
エルナも
一瞬の甘い夢から覚めました。
もうすぐシュべリン宮に到着すれば
当分、顔も見たくない夫がいる
現実が始まるはずでした。
勝手に約束を破って
社交クラブに行ってしまった
夫を我慢し、酒を思う存分飲んで
翌日、明け方になって
ようやく帰って来た夫を我慢し、
そんな行動を
何度も繰り返す夫を
我慢し続けました。
昨晩も、
エルナは居眠りをして
目が覚めるのを繰り返し、
夜遅くまでビョルンを待ちました。
帰って来ようが来まいが、
気にせず寝ようと何度も誓いましたが
いざベッドに横になると、
安心できませんでした。
濃い酒の匂いと共に
馬車から降りた彼を見たエルナは
頑張って我慢して来た気持ちが
溢れ出て来てしまい、ビョルンに、
もう少し堅実な夫になって欲しい。
こんな姿は嫌だと訴えましたが、
ビョルンは、冷笑しながら
乱れた髪をかきあげ、
一体、エルナは
誰と結婚したと思っているのかと
理解できない質問をしました。
エルナが躊躇している間に、
ビョルンは目の前まで近づき、
放蕩息子と結婚しておいて、
聖者を期待するのは
あまりにも、おかしいのではないかと
言いました。
エルナは、
そういう意味ではないと
反論しましたが、ビョルンは
こんな男と結婚したら
こんな男を愛するように。
それが大公妃の義務だと
愛を囁くような優しい声で
辛辣に嘲笑するような言葉を
投げかけました。
そして、ゆっくりと、
まるで何事もなかったかのように
エルナの横を通り過ぎました。
それでもエルナは
何とか我慢しようとしましたが
ビョルンは、ついにエルナの
最後の忍耐心を崩しました。
自分の寝室に向かう
ビョルンの背中を見ながら、
エルナは勇気を出して、
自分たちは、
同じベッドで寝ることにしたのにと
訴えました。
彼のことは、
とても憎らしいけれど、
そっぽを向かれたく
なかったからでした。
しかし、ビョルンは
ため息交じりの無情な声で、
小言は明日聞くので
その辺にしておけと言って、
寝室の扉を開けました。
扉が閉まった後も、
エルナはずっと、
静かな廊下にいました。
いつの間にか馬車が止まると、
エルナは複雑な感情を消すように
力を入れて
閉じていた目を開きました。
今日は彼が
一晩中酒を飲みながら
ポーカーをしていても、
いくらでも理解できそうだし、
むしろ、それを望んでいました。
ところが、出迎えたフィツ夫人に
王子が待っていると言われた
エルナは、
今日は本当に気に入ったところが
一つもない男だと思いました。
今回のお話は、
前回のお話の直後の出来事ではなく
1週間、絵を描いた後の
出来事のように感じられました。
ビョルンには、彼なりの理由があって
出かけていたわけだけれど、
1週間続けて夫が外出すれば
さすがのエルナも我慢の限界で
穏やかではいられないのも
無理はないと思います。
エルナはビョルンに
翻弄され続けていましたが
ここへ来て、彼女の自我が
芽生え始めたような気がしました。
公爵夫人は
エルナが訪問することを
厄介だと思っていますが、
もし、これでエルナが
急に来なくなれば、
一体、どうしたのかと
心配してくれそうな気がします。