85話 いよいよ博覧会当日になりました。
国王の行列は、
大勢の群衆の間を通り、
博覧会の展示場へ向かいました。
大通りと広場を埋め尽くした
人々の歓呼の声が
天と地を揺るがすようでした。
エルナはその勢いに圧倒され、
屋根のない馬車の手すりの
向こうを見ました。
結婚式の日のパレードで見た人波も
めまいがするほどでしたが、
今日集まった人数は、
その数倍になりそうでした。
馬車と歩調を合わせて
行進する騎馬隊や
街に掲げられた万国旗、
晴れた春の空を見回していた
エルナの視線は、
隣に座っている夫の顔の上で
止まりました。
彼は、まるで軽い散歩でも
楽しむために出てきた人のように
平然としていました。
向かい側に並んで座っている
クリスティアン王子と
クレタ王女も変わりませんでした。
自分が誰と結婚して
どんな世の中で生きているのかを
ふと思い出した瞬間でした。
エレナは呼吸を整えようとして
姿勢を正しました。
そっと手を上げてみたりも
しましたが、
挨拶をする勇気は出ませんでした。
長くもって1年。王子の失態。
グレディス王女の粗末な代替品と
連日、溢れ出る自分への非難が、
群衆の上に浮び上がりました。
聞こうとしなくても聞こえてきて、
胸に深く刺さる言葉でした。
あの群衆の中の、誰の歓声も
自分に向けられていないと
思ったエルナは、迷った末、
手を下ろしました。
硬直したエルナの笑顔が
当たり前になった頃、
博覧会場の前に馬車が到着しました。
鉄骨とガラスのアーチで
覆われた巨大な建物が、
眩しく、煌めいていました。
その規模と威容に圧倒され、
呆然としているうちに、エルナは
いつの間にか博覧会場の
中央に設けられた壇上の上に
座っていました。
祝辞を述べる国王の後ろに
設けられた場所でした。
エルナは唾を飲み込むと、
博覧会場を見回しました。
ガラスアーチに届きそうなくらい
高いハルニレの木と
噴水台をスタート地点として、
長く伸びた中央通路の両側に
仕切りのある展示館が
位置していました。
開幕式に招待された
貴賓の人数も多く、
目がクラクラしました。
同じ構造で構成された
2階の展示館を見ていたエルナは
思わず小さく、
感嘆の声を漏らしました。
しかし、よりによってその瞬間、
無意識のうちに振り返った
ルイーゼ姫と
目が合ってしまいました。
エルナがぎこちない笑みを浮かべると
ルイーゼは
静かなため息をつきながら
視線を避けました。
夫に何か囁く
彼女を見ていたエルナは、
少しきまりが悪くなって、
別の方を向きました。
ビョルンは、
隣にいる皇太子の方を向いて
話をしていました。
じっと彼の横顔を見守っていた
エルナは、
好奇心に満ちた視線を、
そっとレオニードに移しました。
二人を混同して、
間違いを犯すことがあっては
ならないと、
フィツ夫人はエルナに
数十回も念を押しました。
レオニード皇太子は、
大抵、眼鏡をかけているけれど、
だからといって
眼鏡を外した方を
ビョルンと速断しては困ると、
フィツ夫人は忠告しました。
確かに、近くで二人をよく見ると、
不思議なほど同じ外見なので、
無意識に二人を区別するのは
容易ではなさそうでした。
フィツ夫人が、
なぜそんなにひどく心配したのか
エルナは理解できました。
その事実に改めて驚いている間に
レオニードが、
突然視線を逸らしたので、
避ける暇もなく彼と目が合いました。
またビョルンも
エルナの方を向いたので、
同時に双子の顔に
向き合うようになったエルナは、
目を丸くし、
ゆっくりと瞬きをしました。
再び軽蔑の眼差しを
向けられるのではないかと
ハラハラしましたが、
幸いレオニードは、
不愉快そうな気配もなく
笑ってくれました。
それと同時に、
ビョルンの口元にも
そっと笑みが浮かんだようでしたが、
それは、レオニードとは違いました。
ビョルンの目つきと笑顔は
ビエルンだけのものなので、
メガネがなくても、
二人を区別できると
エルナは確信しました。
それが嬉しくて笑った瞬間、
起立した群衆の拍手が
沸き起こりました。
ビョルンについて
急いで席を立ったエルナは、
面食らった気持ちで
拍手に参加しました。
国王の開幕の挨拶が
始まろうとしているところでした。
雄弁家のフィリップ3世は、
熱狂的な支持を引き出す演説で、
シュベリン博覧会の開幕を告げました。
歴代最大の参加国が
いつにも増して革新的な技術を
披露する場であるだけに、
招待された貴賓たちは皆、
期待感を隠しませんでした。
エルナも同様で、
ビョルンは笑顔で妻を見下ろしました。
大公妃らしい体面を守ろうと
苦労しながらも、エルナの瞳は
好奇心で輝いていました。
記念写真を撮影する順番が来ると、
ビョルンは静かに
妻の名前を呼びました。
二階の展示館を見ていたエルナは
びっくりして彼と向き合いました。
シュベリン大公夫妻は、
写真を撮るために用意された席に
最後に合流しました。
中央に座った国王と王妃を中心に
五人の兄妹が並ぶ構図でした。
エルナは王妃の後ろに
ビョルンと並びました。
息を整えながら
周囲を見回していたエルナは、
王室一家の髪の色が全員、
プラチナブロンドである事実を
改めて悟りました。
それより少し
濃い色ではあるけれど、
ハイネ公爵も金髪の持ち主でした。
グレディス王女もそうでした。
ドナイスタ王家の象徴のような
プラチナブロンドの髪を
維持するために、
代々同じ髪の色を持つ花嫁を
好んできたと
シュベリン宮の使用人たちが
ひそひそ話していたのを
エルナは思い出しました。
髪の毛一本まで格に合わないと、
誰かが不満そうに投げかけた
言葉の破片が、心の奥深くに
埋め込まれていたことを
エルナは悟りました。
惨めでした。
不安で震える心臓の鼓動を
落ち着かせようと努力しながら、
再び、エルナは
ゆっくりと王室の家族を観察しました。
皆、とても背が高く、まるで自分は、
古木に囲まれた
雑草一本になった気分でした。
いろいろな面で目立ち、
間違ってはめ込まれた
ビーズが一つ。
それがまさに自分だと思うと
気が滅入りました。
グレディス王女なら
何の違和感もなく、
王家の一員として溶け込み、
この席の完璧な主人として
堂々としていて、
皆の愛を受けていただろうと
ますます落ち込んでいると、
これから撮ると言う
カメラマンの力強い声に
エルナは、ハッとしました。
グレディスの名前を消すように
ぎゅっと閉じていた目を
開いたエルナは、姿勢を正して、
カメラに向き合いました。
悩んだ末、そっと背伸びをしました。
これでいいと思った瞬間、
ビョルンの大きな手が
そっと肩を押して来ました。
エルナは屈することなく
耐えてみましたが、
彼の力に勝つのは
それほど簡単ではありませんでした。
知らんぷりしてくれればいいのに。
今日に限って無情にふるまう男だと
思いました。
エルナはついに諦めて
かかとを下ろしました。
その時になって笑うビョルンは
憎たらしくもあり魅惑的でした。
黒い布の中に入ったカメラマンが
数を数え始めました。
エルナは、息をぐっとこらえながら
カメラに向き合いました。
憎めない夫のそばに
もう少し近づいて笑みを浮かべました。
そして、踵の代わりに
顎を少し上げた瞬間、
フラッシュが焚かれました。
白い煙と共に広がる群衆の歓声が
広々とした博覧会場を
揺さぶり始めました。
開幕式が終わると、
貴賓の博覧会の観覧が始まりました。
エルナは機械館に向かう夫に
従いました。
この博覧会場に電力を供給している
巨大な蒸気エンジンの前を過ぎると、
産業機械が姿を現しました。
鉄の塊が、
ありとあらゆるものを作り出す姿は
奇怪なほどでしたが、ビョルンは
かなり気分が良さそうに見えました。
何に使う機械なのか。
どんな原理で作動するのか。
これが世の中をどう変えるのか。
大部分が、
よく理解できなかったけれど
エルナは耳を傾けて聞きました。
機嫌が良さそうに見える
ビョルンの姿を、
エルナは良いと思いました。
そして、蓄音機という名の小さな機械が
ピアノの音を真似ているのを見た時は、
最近の人たちは、
何でも機械で作り出していると
眉を顰めて呟きました。
不思議でありながらも、
ぞっとしました。
購入を決めたところを見ると、
ビョルンは違うようでした。
さらに数台の小さな機械を
見て回ったビョルンは、
電話機の前に
エルナを連れて行きました。
とても遠く離れている人とも
対話ができる機械だと聞きましたが、
エルナは理解できないませんでした。
けれども、しばらく電話機を
覗き込んでいたエルナは、
これで、祖母とも
会話ができるのかと尋ねると、
ビョルンは、
そこまで電話線が引かれるまでには
少し時間が必要だと思うと答えました。
その言葉に、エルナは失望し、
その線が必要なのかと尋ねると
ビョルンは頷きました。
エルナはもう電話に
興味を示さなくなりました。
こんなに驚くべき世の中を見ても
田舎のことばかり考えている自分は
古臭いと思いました。
そろそろ、この観覧が
退屈になってきた頃、
二人は、
レチェンの技術で開発した
新型タイプライターを
披露しているブースに辿り着きました。
何気なく通り過ぎたビョルンと違い
エルナは、
その場に釘付けになりました、
タイピストにでもなるつもりなのかと
尋ねながら、ビョルンは
妻のそばに近づいて来ました。
タイピングの
デモンストレーションをしている
販売員を、
じっと見つめていたエルナは、
あれは何かと、
首を傾げながら質問しました。
何から説明していいか分からなくて
ビョルンがぼうっとしている間に
エルナは再びタイプライターに
関心を移しました。
とても速く
機械が字を書いていることに、
エルナは心から感激した表情でした。
タイプライターに憑りつかれた
大公妃だなんて。
ビョルンは興味深そうに
見知らぬ女性を見つめました。
この機会を逃すまいと、
販売員はエルナに
タイプライターを打ってみることを
勧めました。
当然断ると思っていましたが、
エルナは、
慎重にタイプライターの前に近づき、
慎重にキーを押してみました。
紙にその文字が印刷されると、
エルナは、
最初に利子が何であるかを知った
瞬間のように笑いました。
タイプライターで字が書けたことが、
世紀の発見でもあるかのように
喜ぶ妻を見るビョルンの唇の間から
参ったというような
笑いが溢れでました。
初めて笑うエルナが美しく、
ビョルンは、
それで十分だと思いました。
前回のお話を読んだ時に、
ビョルンは、
エルナが何と言われているか
知らないのかと思いましたが、
多額のお金を動かしている
銀行家のビョルンが
世間の情報に疎いなんていうことは
なさそうに思えるので、
エルナの巷の評判は、
彼の耳に入っていると
思い直しました。
おそらく、ビョルンは
グレディスの一件以来、
世間の評判が、
どれだけ当てにならないか
知っているし、
エルナが噂とは全く違うことが
分かったので、
どんな噂が耳に入って来ても、
気に留めていないだけなのかも
しれません。
そして、エルナが
良い妻だと言ったのは
彼の本心だと思います。
けれどもビョルンは、
世間の噂のせいで、エルナが
どれだけ傷ついているかなんて
考えたこともないのだと
思います。
エルナが笑って良かったと思うのは
彼の自己満足なのだと
思います。
他の王族と見た目が違うだけで
心を痛めているエルナが
本当に可哀そうです。