689話 ラティルが戻った先は、サーナット卿の家でした。
◇こいつ、どうしたんだ?◇
陛下・・・
サーナット卿は
気が抜けたような声で呟きました。
ラティルは、
食事中に来て申し訳なかったと
素早く謝ると
ゲスターを突き飛ばしました。
ランスター伯爵は、
食事中に来て申し訳なかったと
片手を上げて、
ラティルと同じ言葉を言いました。
ラティルの目がギョッとしました。
ランスター伯爵が意図的に
ラティルをギュッと抱きしめて
ここへ来たのは明らかでした。
到着前に、彼が笑ったことを
考えてみても
間違いありませんでした。
サーナット卿は、
なぜゲスターがここにいるのかと
落ち着いて尋ねました。
ラティルは、
さらにゲスターを押し退けると
お墓へ行って来た。
ゲスターは狐の穴を使って、
素早く付いて来て助けてくれたと
言い訳をしました。
すると、ランスター伯爵は
ラティルの頬をつねって、
可愛いと言ったので、彼女は
バッタのように飛び上がりました。
サーナット卿の顔から、
血の気が引きました。
そうですか。
サーナット卿が両手を合わせて
ギュッと握っているのが見えました。
ラティルは、
ランスター伯爵の脇腹を突いて
目を剥きました。
せっかく、ここまで来たのだから
早く謝れと、彼に要求しましたが
ラティルはランスター伯爵が
勝手に行動すると思いました。
おとなしいゲスターなら
謝るだろうけれど、
ランスター伯爵は、
謝るような人には思えませんでした。
実際、彼は人間でもないしと
考えたところで、
体はゲスターだから、
人間と言うべきなのかと
悩んでいる最中、
再びラティルは
目をギョッとさせました。
ランスター伯爵は肩をすくめた後、
片手を優雅にお腹に当てて、
サーナット卿に頭を下げ、
失礼しました、サーナット卿。
と謝ったからでした。
意外にも、きちんと謝る姿を見て、
ラティルは目を細めながら、
どうしたのだろうか。
話し方を聞けば、
ゲスターの状態でもないのにと
思いました。
すると、サーナット卿は、
失礼?
と聞き返して、席を立ちました。
ランスター伯爵は、
サーナット卿が自分の妻を誘惑しても、
落ち着いて
対応しなければならなかった。
自分が愛に目が眩んだせいで、
不倫相手への配慮が足りなかったと、
優しく話しながら
微笑みを浮かべました。
ラティルは、
胃がむかむかしました。
そんなことを言われても、
怒ったそぶりもなく、
ランスター伯爵を見つめる
サーナット卿の忍耐心は
すごいと思うほどでした。
サーナット卿は、
これからは気をつけたいと思うと
淡々と答えると、
ランスター伯爵の前へ
歩いて行きました。
ランスター伯爵は、
今からでも過ちを悔い改めるなんて
幸いだと返事をしました。
サーナット卿は、
不倫相手という言葉に振り回されて
怒ったりしませんでした。
ラティルはイライラしながら
2人を交互に見つめました。
幸いなことに、ランスター伯爵は
サーナット卿が冷静に対応すると、
かえって興が冷めたようでした。
なるほどと、
ランスター伯爵は呟くと、
これからはサーナット卿の感情に
手を出すことはないだろうと
ゲスターが言いました。
ゲスターとランスター伯爵の口調が
交互に出て来るので、
サーナット卿は眉をひそめて
ラティルを見つめました。
こいつ、どうしたんだと
問いかけるような視線でしたが、
ラティルは肩をすくめました。
ゲスターとランスター伯爵の関係は、
言葉で説明を聞いても
理解するのが難しかったので、
そうするしかありませんでした。
◇執事の提案◇
皇帝とゲスターがお茶を飲んで帰ると
執事は茶碗を片付けながら
皇帝はいつ来たのかと尋ねました。
執事は、誰かがこの家に訪ねて来ると
一番最初に迎えに行きました。
別にそうしなくてもいいけれど、
サーナット卿が、比較的小さな家で
暮らしているからといって、
彼が良い家柄の令息だということを
忘れる必要はないので、
できるだけそうしようと
努力していました。
しかし、今日、皇帝とゲスターは
正門から入って来ませんでした。
サーナット卿は、
長居しなかったからと答えると
先程、食べかけていたパンを
横に片付けました。
すでに、食欲はなくなっていました。
執事は、
空の器にパンを片付けながら
皇帝と仲直りしたのかと
慎重に尋ねました。
サーナット卿は、
さあ・・・
と返事をすると、
ため息をつきました。
先程のゲスターの態度は、
謝罪という形を取っていたけれど、
嘲弄されているように感じました。
しかし、サーナット卿は怒らずに
やり過ごすことにしました。
ギルゴールの言葉のように、
ゲスターは皇帝にとって、
大いに役立つ人物でした。
自分が怒れば、皇帝は
ゲスターに助けを求めることが
難しくなると思いました。
サーナット卿は、
皇帝が自分のために困ることを
望んでいませんでした。
ゲスターが、
どのように出て来ても、
ただ無視すればいい、
それで十分だと理性では
分かっていました。
しかし、心は騒いでいました。
複雑な事情を知らない執事は、
まだ仲直りしていないのですねと
不機嫌そうに呟きました。
サーナット卿は立ち上がると
何とかなると返事をしました。
執事は、
本当に気が変わったのなら、
無理に元に戻す必要はないと、
サーナット卿に付いて行きながら
言いました。そして、
私の言葉、お分かりですよね?
と尋ねましたが、
サーナット卿は返事をする代わりに
階段を上がりました。
そして、サーナット卿が
寝室の扉を開けようとした時、
執事は、
礼服を売ってしまったらどうかと
提案しました。
サーナット卿は、
礼服?
と聞き返しながら、
執事の方を向きました。
彼は悲壮な表情をしていました。
執事は、
服が完成したので払い戻しは難しい。
しかし、まだ一度も着ていないし、
最高の素材で、最高の仕立て屋が
丹精込めて作ったので、
きっと売れる。
着ることがないのであれば、
売ってしまった方が良い。
そうすれば未練も残らない。
自分は、坊ちゃんの味方だ。
坊ちゃんが辛いなら、
あえて初恋の影を
追いかける必要はないと、
物悲しそうな顔で言いました。
礼服を売るという、
思いも寄らない考えに、
サーナット卿は、
すぐには答えられませんでした。
愛を失った後も、
礼服を処理するという考えは
不思議なほどありませんでした。
礼服・・・
ようやく、彼は口を開きました。
◇アイニの弟の希望◇
数日後、ラティルは
仮面をかぶってサビになると、
アイニの弟を訪ねました。
彼は明かりを点けたところ、
また前に、
ラティルが立っていたので、
後ろに下がりながら、
いつも、こんな風に
現れなければならないのかと
文句を言いました。
心の中では、
どうして聖騎士はこうなのかと
悪態をついていました。
ラティルは、
アイニの弟を驚かせなければ
彼の本音がよく聞こえないからだと
思いながら、肩をすくめると
後ろに下がりました。
ラティルは、
決心はついたかと尋ねながら
アイニの弟を探りました。
昨日、ゲスターは
公爵の幽霊を解放すると、
幽霊は公爵家の中に入りました。
ラティルは、
父親が大好きなこの幼い公爵が
どうか、父親の仇を
討ってくれるようにと
願っていました。
そして、ついにアイニの弟は
ラティルの望み通りのことを
呟きました。
しかし、彼は、
この点については、
はっきりさせて欲しいと
主張しました。
ラティルは、
条件を付けたいのかと尋ねると、
アイニの弟は、
条件ではないと答えると、
ポケットから、ごそごそと
紙を取り出しました。
忘れないように、あらかじめ書いて
持ち歩いていたようでした
アイニの弟は、
手紙が問題になったら、
自分が押した印章ではないと言う。
けれども、手紙を書いたのは
姉だとは言わない。
ただ、自分は
印章を押していないとだけ、
言うつもりだと答えました。
ラティルは、
この程度なら十分だと思い、
アイニの弟の希望を受け入れました。
アイニの弟は紙をポケットに戻すと
ラティルをじっと見つめました。
聞きたいことが、
たくさんあるように見えました。
ラティルは返事の代わりに
壁の向こうを指差して
目を大きく見開き、
あれ?
と言いました。
その言葉に、
子供が首を傾げた瞬間、
ラティルは素早く窓の外へ出ました。
◇例えるのは人間で◇
その後、ラティルは
手紙をカリセン法廷に送るか、
兄龍に送るか悩みました。
新しい兄龍は
すでにアイニを調査中でしたが、
カリセンの妨害のせいで、
調査が思わしくなく、
イライラしているはずでした。
しかし、彼女は
ザリポルシ姫の部下だったので、
ザリポルシ姫が、
この件に関わっていることを知れば
かつての主君の名誉を守るために、
この件を葬ろうとするかも
知れませんでした。
だからといって、
カリセンに送れば、
カリセンの唯一の対抗者である
アイニを、
まともに調査することは
できそうにありませんでした。
カリセンは、すでに兄龍から、
アイニを密かに
守っている様子でした。
そうでなければ、
あれだけの目撃者がいる、
宮殿に黒魔術師を匿っていた事件の
捜査が、このように遅々として
進まないはずがありませんでした。
そして、
ここから、さらに一歩進めば、
カリセンとタリウムが
対立することになるかも
しれませんでした。
ヒュアツィンテがいるけれど
ラティルは彼が
良い君主であることを知っていました。
彼は初恋のために、
国を後回しにする人では
ありませんでした。
悩んだ末に、ラティルは
ついにタッシールを訪ねました。
タッシールは、
皇帝の言う通り、
にっちもさっちもいかないようだと
クッキーを食べながら、
ラティルの言葉に頷きました。
ラティルは、
タリウムが直接捜査するのは
難しいだろうかと尋ねました。
タッシールは、
もし自分たちの前皇后を捜査すると
自分たちが言われたら、
引き渡せるかと、
逆に質問しながら
ラティルの口の前に
クッキーを差し出しました。
ラティルは、思わず口を開きました。
ラティルは、タッシールに
どちらの方が、
まだ、ましだと思うかと
尋ねました。
彼は、微妙だと、
同じ答えを繰り返しました。
やはりタッシールも、
特に思い浮かぶことが
なさそうに見えました。
ふとラティルはタッシールに
ミロで作られた
ダークリーチャーの件を
うまく解決したと、
自慢したくなりましたが
自分がバカみたいだと思いました。
ラティルはタッシールの腕に
頭をもたれると、
彼は彼女の髪の毛をいじりました。
その手を感じたラティルは、
訳もなく彼を呼びました。
タッシールは返事をしませんでしたが
ラティルの髪に触れ続けました。
ラティルは、
ダガ公爵は、
アイニに命を奪われても
彼女を守りたいようだと呟くと
タッシールの手が止まりました。
ラティルは、どうして、
こんな話をしてしまったのか
後悔しました。
タッシールは
何も言いませんでした。
ラティルは、
自分のことをバカだと罵りました。
ラティルは、
内心を見透かされたような
気持ちになり、
訳もなく不快になりました。
こんなことは、
一人で考えるべきなのに、
なぜ、タッシールの前で
あえてこの話をしたのか、
ラティル自身も
分かりませんでした。
タッシールが先皇帝に関して
調査していたせいかと思いました。
恥ずかしくなったラティルは、
タッシールの腕から
頭を離しました。
頭を上げるや否や、
一枚のクッキーが、
口の中に入って来ました。
タッシールは、
ラティルがクッキーを食べるのを
見つめながら、
ハムスターみたいで可愛い。
これからはカレイではなく、
ハムスターにしようかと、
ニヤニヤしながら、からかいました。
ラティルは、
人間にして欲しいと、
断固として言うと、
わざと真顔になりました。
今、言ったことを
おそらくタッシールは
気にしないだろうと思いました。
タッシールは、
ラティルの唇を撫でながら、
自分たちも、
動物の仮面をつけないかと
尋ねました。
ラティルは、
なぜ、急に、動物の仮面のことを
持ち出しのかと尋ねると、
タッシールは、
ベッドの上で、皇帝の豪快なヒョウに
なるのはどうかと提案しました。
ラティルは、ぼんやりと
タッシールを見つめました。
後になってラティルは
タッシールが何を言っているのか
理解しました。
ラティルはタッシールの太ももを
軽く叩きましたが、
嫌だとは言いませんでした。
タッシールは、
ラティルの口元に
もう一枚、クッキーを運ぶと
笑いました。
そして、タッシールは、
生前のダガ公爵は、
アイニ元皇后にとって、
良い父親ではなかった。
先帝は最後の決断の前までは
良い父親だった。
皇帝は、
どちらがいいかと尋ねました。
ラティルは、
両親は・・・と
何か言いかけましたが、
口をつぐみました。
それから、分からないと答えると
ラティルは肩をすくめて
タッシールの腕に頭をもたれ、
クッキーをもう1枚要求しました。
目を閉じているラティルの口元に
クッキーが近づきました。
ラティルは、
クッキーを噛みましたが
目を見開きました。
ラティルが噛んだのは
タッシールの唇でした。
タッシールは、
自分で唇を付けておきながら、
自分はクッキーではないと
あたかもラティルが、
勝手にキスしたように
澄まして言いました。
しかし、すぐに口元を押さえて
うんうん唸りながら、
唇が痛いと訴えました。
ラティルは
彼の唇をのぞき込みました。
先程、クッキーだと思って、
強く噛んでしまったので、
ラティルは、タッシールの唇が
取れていないか確認しました。
ラティルは、
まだ痛いのかと尋ねると、
タッシールは、
少し痛いと呟きながら
優しく微笑みました。
ラティルは慎重に
彼の唇に自分の唇を重ねて
離れました。
タッシールは、
そうすれば痛くないと言うと、
大きな手を
ラティルの髪の毛の間に入れて
優しく撫で、
それから首筋に手を下ろし、
耳元を包みこみました。
ラティルはタッシールを
ソファに押し退けて
靴を脱ぎました。
サーナット卿が
ラティルの側室になろうと決めて
礼服を作ろうとした時、
そして作っている間の、
彼のワクワクした気持ちや
嬉しい気持ちは、
ラティルへの愛が失われても、
残っていると思います。
その状態で、礼服を処分すれば
喪失感を覚えると思います。
執事は、
サーナット卿のためを思って
アドバイスしたのでしょうけれど、
余計なお節介のような気がします。
ダガ公爵が
自分の命を奪ったアイニを
庇ったことが、ラティルには、
かなりショックだったのだと
思います。
普段のラティルであれば、
自分の弱みを見せたくないために
辛い気持ちを、自分の胸の中だけに
収めておいたのでしょうけれど
ついタッシールに
話してしまったのは
彼になら、自分の弱さを
さらけ出しても大丈夫だと
思ったのかもしれません。
そして、
彼が慰めてくれることを
期待していたのかもしれないと
思いました。