682話 サーナット卿は、ゲスターに頼まれて捕まえた怪物が、自分の感情を奪ったことを、ラティルから聞かされました。
◇ギルゴールは違う◇
サーナット卿は
トゥーリが出て来るや否や、
いきなりゲスターの胸ぐらを
つかみました。
何をしているんですか・・・?
ゲスターは少しも驚かず
静かな声で尋ねました。
故意ですか?
やはりサーナット卿も、
荒々しい手つきとは異なり、
声に抑揚がありませんでした。
どういう意味ですか?
ゲスターは言葉を濁しました。
サーナット卿は、
ゲスターの服を放すと、
あの天使の真似をする怪物の命を奪うと
愛を失うということを
知っていながら、自分をあの場所へ
行かせたのではないかと尋ねました。
ゲスターはにっこり笑うと、
気付くのが遅すぎだと答えました。
サーナット卿は、
再び彼の胸ぐらを掴もうとしましたが
拳を握り締めて手を下ろしました。
ゲスターの落ち着いた声に、
サーナット卿は
歯を食いしばりながら、
ふざけないで欲しいと訴えました。
しかし、ゲスターは、
あの怪物を捕まえる必要があって、
サーナット卿に頼んだ。
あの怪物に、
そんな特徴があるとしても
誰かが捕まえないといけなかった。
それのどこが悪いのかと、
目を丸くして尋ねました。
サーナット卿は、その静かな声に
さらに腹を立てました。
ゲスターは、
しわくちゃになった襟元を整え、
端正な笑みを浮かべながら、
その怪物のせいで
皇帝を愛する心が消えたのか。
それで全て自分のせいだと思って
駆けつけて来たのかと尋ねました。
サーナット卿は、ゲスターが
何の非もないかのように言うと
非難しました。
すると、ゲスターは、
それでは、あの怪物を
放っておくべきだったのかと
尋ねました。
サーナット卿は、
前もって自分に説明すべきだったと
抗議しました。
ゲスターは口元を手で覆って
微笑みかけると、
サーナット卿は、
皇帝と仲違いした後、
かえって良かったと
思ったのではないか。
どうせ苦しいだけの愛なら
手放した方がいいのではないか。
皇帝を愛して、
心を痛めていた時よりも
今の方が、清々しくないか。
サーナット卿自身が、
そう言っていたのに、
どうして怒るのか理解できないと
言い返しました。
サーナット卿は拳を握り締めて
ゲスターを睨みつけました。
彼は、自分の非を
サーナット卿の行動で
巧みに隠していました。
サーナット卿は、
自分の片思いが解消されて、
清々しく感じようがなかろうが、
ゲスターとは関係がない。
重要なのは、ゲスターが勝手に
自分の心を弄んだことだ。
自分の心をゲスターが、
勝手に操る権利はないと
抗議しました。
ゲスターは安楽椅子へ歩いて行くと
長い足を伸ばして座りました。
それからポケットに手を入れて、
何かをいじりながら、
サーナット卿の心が
しっかりしていれば、
怪物を退治しても
愛を失わなかったと
微笑みながら言いました。
サーナット卿は、
それはどういう意味かと尋ねると、
ゲスターは、
ギルゴールが、
その怪物を退治したのは
一匹や二匹ではないのに
元気ではないか。
けれども、サーナット卿は
たった一匹、退治しただけで、
この無様だなんてと、けなしました。
サーナット卿は拳を握りすぎて
爪が肉に刺さるほど
痛かったけれども、ゲスターを
殴ることはできませんでした。
サーナット卿は騎士であり、
ゲスターは皇帝の恋人だからでした。
サーナット卿は、
ギルゴールが狂っているせいだと
主張しましたが、ゲスターは
そう思いますか?
と疑うように尋ねると、
口元を手で隠しました。
サーナット卿は殺意に満ちた目で
ゲスターを睨みましたが、
扉の外から、
お茶を持って来たと言う
トゥーリの声が聞こえて来ると、
サーナット卿は渋々、
ゲスターに背を向けました。
サーナット卿が
扉を開けて出て行くと、
お茶を飲まないで帰るのかと
後ろからトゥーリが尋ねました。
サーナット卿は、
飲まないと、冷たく答えると、
再び廊下を素早く歩きました。
トゥーリはその後ろ姿を眺めた後、
ゲスターに近づき、
サーナット卿と喧嘩をしたのかと
尋ねました。
ゲスターは
さあ。
と答えると、頬杖をついて
目を細めました。
その様子が、
いつものゲスターとは
全く違う雰囲気だったので、
トゥーリは一瞬、ギクッとしました。
◇また騙された◇
サーナット卿が温室の中に入ると、
体操をしていたザイオールは
体を動かすの止めて、
彼に挨拶をしました。
そして、こんな夜中に
何かあったのかと尋ねながら
嬉しそうにサーナット卿に
近づきました。
しかし、彼は頭を下げると、
温室の奥へと歩いて行きました。
それから、サーナット卿は
温室の奥の扉を乱暴に叩くと、
あれ?お花畑。
と後ろから声が聞こえて来ました。
サーナット卿が振り向くと、
ギルゴールは笑いながら
サーナット卿の背後に腕を伸ばして
閉じている扉を開けました。
そして、子供に言うように、
さあ、お入りなさい。
と促しました。
サーナット卿は
部屋の中央まで進むと、
ぼんやりと立ち止まりました。
ギルゴールは優しいふりをしながら
何の用事で来たのかと尋ねると
扉を閉めました
サーナット卿は、
中空の天使について聞きに来たと
答えました。
ギルゴールは、
最近それを聞く人が多いと
妙な言葉を投げかけ、
怪訝そうに笑いましたが、
聞いてみるように。
自分の知っている限り、
全て答えると返事をしました。
サーナット卿は、
中空の天使の命を奪うと、
愛を失うことになるのかと
尋ねました。
ギルゴールは、
そうだと答えました。
サーナット卿は、半分目を閉じて
中空の天使の命を奪っても、
愛が堅固なら、愛を失わないのかと
尋ねました。
すると、ギルゴールは手を叩いて、
おめでとう。新たな発見をしました。
論文を書くつもりですか?
と聞き返しました。
サーナット卿は、彼の言葉を
すぐに理解できませんでしたが
ギルゴールが、
ニコニコ笑いながら
自分をずっと見つめているうちに
またゲスターに騙されたことに
遅ればせながら気づきました。
サーナット卿の顔が真っ赤になると、
ギルゴールは、
うちの末っ子は純真だと言って
お腹を抱えて笑いました。
サーナット卿は
ギルゴールの冷やかしに動じず、
お世話様でした。
と機械のように挨拶して、
部屋を出ました。
しかし、ギルゴールが作った
変な頭の花畑を通り過ぎる頃、
彼は剣に付けておいた
飾り紐をつかまれたので、
足を止めました。
後ろを見ると、
いつの間にかギルゴールが
彼の後ろに立っていて、
剣の先に縛っておいた紐を
強く引っ張っては緩めることを
繰り返していました。
サーナット卿は、
どうしたのかと尋ねると、
ギルゴールは紐を放し、
にっこり笑いながら、
またゲスターに騙されたのかと
尋ねました。
サーナット卿は、
「はい」と返事をすると、
ゲスターは自分を騙して、
ひどい副作用のある怪物を斬らせた。
そして、それについて
ゲスターを追及したら
また騙されたと答えました。
ギルゴールは、
それで、これから
どうするつもりなのか。
お嬢さんの所へ行って、
全て言いつけるのかと
尋ねました。
サーナット卿は、
「言いつける」と表現されると
告げ口をする子供のようだと
思いました。
サーナット卿は、
お嬢さんというのが皇帝なら、
その通りだ。
皇帝に報告すると、
冷静に答えました。
しかし、皇帝の側室であるゲスターを
彼の立場では
どうすることもできませんでした。
そうですか。
と、ギルゴールは頷くと、
彼の飾り紐を軽く叩きました。
サーナット卿が、
再び、歩こうとすると、
後ろから、ギルゴールは、
そうすることで、
ゲスターがお嬢さんと喧嘩して
腹を立て、
立ち去ったらどうするのかと
尋ねました。
サーナット卿は眉をひそめながら
ギルゴールを振り返ると、
何を言っているのかと尋ねました。
ギルゴールは、
ゲスターは花畑と
同年代の青年だけれど、
一方では違うこともある。
彼の後ろにいるのは
自分たち全員を巻きつけて
窒息させてもいいと思っている
大蛇だ。
彼がおとなしく過ごしているのに
別に理由はない。
ただ野心より
学究熱が高いからだと答えました。
サーナット卿はギルゴールに、
ゲスターの肩を持つのかと
尋ねました。
ギルゴールは、
ゲスターは、
自分たちやカルレインのような
純愛者ではないと言っている。
カルレインは、
お嬢さんが何を言っても
付いて行くけれど、
下司ターもそうだろうかと
言いました。
サーナット卿は何も言えないまま
唇をぎゅっと閉じて、
ギルゴールを見つめました。
彼は、別に誰かの肩を
持とうとするのではないかのように
笑いながら、
それでも構わないなら
お嬢さんに教えてもいい。
果たして、うちのお嬢さんは
誰の肩を持つか、本当に気になるし、
面白そうだと言いました。
サーナット卿は、ギルゴールを
恨めしそうに見つめました。
彼は、サーナット卿とゲスタの戦いを
楽しい見世物程度に
思っているようでした。
サーナット卿は、
ギルゴールをしばらく見つめた後、
温室の外へ出ました。
ギルゴールは、
その後ろ姿を見送ると、
畑に植えた頭を撫でました。
◇ひそひそ話の主◇
サーナット卿が出て行っても、
ラティルはぼんやりと
椅子に座っていました。
そうしているうちに、
徐々に夜が明けて来ると、
ラティルは「あっ」と思って
立ち上がりました。
自分がミロに行く時、
ギルゴールも一緒に行くかどうか
聞いてみようと
思っていたからでした。
それから2時間ほど寝て
起きたラティルは、
朝食を素早く済ませると、
温室へ歩いて行きました。
朝の業務を始める前に、
ギルゴールにミロのことを話して、
一緒に襲撃しに
行ってくれるかどうか
聞くつもりでした。
ギルゴールは手に負えないものの、
きちんと力を発揮してくれれば
非常に有用な戦力でした。
勝手に行動し始めたら、
内輪もめを起こすのが問題でしたが。
しかし、ラティルが
ギルゴールを呼んでも返事がなく、
温室内をあちこち歩きまわって
彼を呼びましたが、
ギルゴールの姿は見えませんでした。
ザイオールも寝ているのか
温室にいませんでした。
また、どこかへ行ったのだろうか。
ザイオールは、
元々、ギルゴールは、
よく出歩くと言っていたけれどと
考えていると、
どこからか、ひそひそ話す声が
聞こえて来ました。
ラティルは、
ギルゴールを呼びながら、
声がする方に歩いていく途中、
ふと変に思って立ち止まりました。
ギルゴールなら、
自分が呼べば返事をしたはず。
他の人がいたとしても
ラティルがギルゴールを呼びながら
歩き回っていれば、
こちらへ近づいて来て、
すぐに挨拶をしたはず。
しかし、ひそひそ話す人たちは
こちらへ来ませんでした。
考えてみると、
働く人がザイオールだけの
ギルゴールの温室で、
ひそひそ話す人たちが
大勢いるのも変でした。
ラティルは、できるだけ足音を殺して
声のする方へ、
こっそり近づいて行きました。
声は菜園から聞こえて来ました。
ラティルは
植物の太い幹の後ろに隠れて
庭を眺めました。
すると、ギルゴールが植えた
頭の形の花たちが、
話をしていました。
畑の上に顔を出した頭が
囁いている場面は
見るだけでも鳥肌が立ちました。
あれは何なのか。
ただ、頭の形をしている花では
なかったのか。
どうして、ギルゴールは
あんな物を育てているのかと
仰天したラティルは、
彼らの会話の中に、
聞き慣れた名前を聞いて
息を止めました。
また、ゲスターに
騙されたのですか?
はい、彼は私を騙して、
ひどい副作用のある怪物を
斬らせました。
それで私がそれを追及すると
また私を騙しました。
それで、
これからどうするんですか?
お嬢さんの所へ行って、
それを全部言うんですか?
ラティルは目を見開いて
彼らの会話に耳を傾けました。
頭たちが、とても速いスピードで
言葉をやりとりしていて
聞き取りにくかったけれど、
頭たちの会話は、
まるでサーナット卿とギルゴールの
会話のように聞こえました。
その話題の内容は、
ラティルとゲスターについてでした。
ずっと聞いてみると、
彼らは同じ会話を繰り返し
続けていました。
まるでサーナット卿と
ギルゴールの会話を記憶して
オウムのように、繰り返し
再現しているようでした。
あれは、彼らが勝手に
話を交わしているのかも
しれませんでしたが、
会話の内容が、かなり現実的でした。
ラティルは我慢できなくなり、
頭に近づくと、
それをどこで聞いたのかと
尋ねました。
ひそひそ話していた頭たちは
一気に話を止めました。
頭についている目が
同時にラティルを見つめました。
ぞっとする光景でした。
頭たちは瞬きもせずに
ラティルを見つめましたが、
先程のように話をしませんでした。
さっき話していたではないかと、
ラティルは繰り返し問い詰めましたが
頭は無視しました。
話さなければ抜いてしまうと、
ラティルが脅迫しても、
頭は依然として沈黙していました。
ラティルは、さっと踵を返すと、
温室の外へ出ました。
ゲスターは故意に
サーナット卿の心を失わせたと
考えながら、ラティルは
そのままゲスターの所へ行きました。
早朝に皇帝が訪ねて来たので、
トゥーリは眠そうな目で
扉を開けてくれました。
トゥーリは、
お坊ちゃまは、まだ休んでいると
告げましたが、ラティルはトゥーリに
しばらく出ているようにと指示すると
彼を外へ出して扉を閉め、
ゲスターのベッドに近づきました。
彼は目を閉じたまま
天使のように眠っていました。
ラティルがじっと見下ろすと、
ゲスターは視線を感じたのか、
ゆっくりと目を開きました。
目が合うと、
彼は、にこやかに笑いました
ギルゴールの言う、
自分たち全員を窒息させる大蛇とは
ランスター伯爵のことを
言っていると思いますが、
ラティルが過去に戻って、
一緒に地下牢を探していた時の
ランスター伯爵は、
そんなに悪人には思えませんでした。
けれども、ドミスが
ランスター伯爵邸で働いていた時、
行方不明者が出ていることで、
捜査官のアニャが
ランスター伯爵邸へ
潜入捜査に入ったり、
ドミスがランスター伯爵のことを
嫌っていたことから、
彼は、相当な
悪人なのかもしれません。
ラティルを助けてもらうために
そんな悪人に魂を売ったゲスターは
気の毒だとは思いますが、
子供のゲスターは、魂を売ることで、
どういうことになるか
分からなかったので
ランスター伯爵に
いいように利用されてしまったのだと
思います。
諸悪の根源はランスター伯爵で
元々のゲスターは悪くないと
思いたいですが、
あのロルド宰相の息子なので、
ランスター伯爵の影響を受けなくても
彼が父親のようになる可能性は
あったと思います。
気持ち悪いけれど、
ギルゴールから頭の形の花を
もらっておいたら、
ラティルのいない間の会話を
後で聞くことができて、
良かったのにと思いました。