125話 ビョルンはハインツと喧嘩をして、腕を折ってしまいました。
これはすべて狂った鹿のせいだと
結論を出したビョルンは
体を起こしました。
割れるように痛い頭と左腕の痛みが、
昨夜の酷い記憶を
思い出させてくれました。
習慣的に呼び鈴に腕を伸ばした
ビョルンは、眉を顰めながら
低いうめき声を上げました。
意識がない時に主治医が訪れたのか、
手首から肘まで
包帯が結ばれていました。
腫れや痛みの程度から見て、
どうやら骨を痛めたようでした。
ベッドから降りたビョルンは
悪態混じりのため息をつきながら
窓際に近寄り、
カーテンを開けました。
あえて時計を確認しなくても、
午後の遅い時間であることが
分かりました。
ビョルンは窓を開け、
火をつけていない葉巻を
くわえたまま、
索漠とした冬の風景を眺めました。
昨夜、
騒ぎに驚いて駆けつけて来た人々に、
「エルナは戻って来る」という
情けない言葉ばかり
繰り返し呟いたことと、
相手がどんな質問をしても、
エルナとだけ答えたことを思い出すと
頭を強く一発殴られたような
気分になりました。
狂った奴だと、
何度もレオニードが言った通りの
体たらくでした。
葉巻に火をつける気力さえ
失ったビョルンは、
空中の一点だけを
ぼんやりと凝視しました。
あまりにも呆れ過ぎて、
もう悪態もつきませんでした。
半ば気が抜けた人のように
クスクス笑うことが、
ビョルンができる全てでした。
吸っていない葉巻を
コンソールの上に投げ捨てた瞬間、
ノックの音が聞こえて来ました。
やって来たのは
予想通りフィツ夫人で、彼女は、
ビョルンが呼び鈴を鳴らすことが
できないと思い、
モーニングティーと新聞を
持って来てくれたのでした。
彼女は
ゆっくりとビョルンに近づき
開いている窓を閉めると、
子供の頃からビョルンは、
恥ずかしいことをした後は、
誰にも会いたがらなかったと
話しました。
ビョルンは「そうでしたっけ?」と
返事をして、苦笑いしました。
フィツ夫人は、ビョルンが、
もうクローゼットやベッドの下に
隠れることができないほど
大きい大人になったので幸いだ。
王子を探すために、
部屋中、探す必要はなくなったと
話すと、
トラブルを起こした小さな王子を
戒めた時のような厳しい乳母の目で
彼を見つめました。
ビョルンは
自嘲混じりのため息をつきながら
モーニングティーが置かれた
テーブルの前に座りました。
味がよく分からないお茶を飲み、
無意味に視界をかすめるだけの
新聞をめくっていると
フィツ夫人は、
リサの手紙が届いたと
冷ややかな声で告げました。
ビョルンは
言おうとしたことも忘れて、
死神のように立ちはだかっている
乳母を見つめました。
「読んでみますか?」と
フィツ夫人が差し出した手紙を
じっと見つめていたビョルンは
何の返事もせずに
茶碗を握りました。
思い通りに動かせない左腕に
耐え難いほど、イライラした瞬間、
紙を広げる音が聞こえて来ました。
フィツ夫人は、
リサがバーデン家で大公妃と
仲良く暮らしていると
多少芝居気のある口調で、
はっきり力を込めて言いました。
ビョルンは、
頭をかきあげました。
フィツ夫人が、
バーデン男爵夫人も元気そうだと
告げると、ビョルンは
エルナにそっくりな
優しい老婦人の顔を思い浮べました。
ビョルンの眉間のしわが
一層深くなりました。
フィツ夫人は、
要約した手紙の内容を
じっくりと読み上げました。
エルナについては、
ただ元気にしているという
決まり文句の一言が全てで、
あとは、バーデン家の乳牛が
子牛を産んだとか、
新しい靴下を編んだなど
無駄な話ばかりでした。
最後に、フィツ夫人は、
残った毛糸を集めて
子牛の冬服を編む計画だという
知らせを伝えると、
手紙をたたんで、しまいました。
ずっと組んだ足だけを
見下ろしていたビョルンは、
しかめっ面で
彼女に向き合いました。
フィツ夫人は、その表情の意味が
分からないはずがないのに、
何か話したいことがあるかと
呑気な質問をしました。
本当にクビにしてしまおうかと
ビョルンは真剣に
リサの処分を悩みながら
冷めてしまったお茶を飲みました。
しかし、喉の渇きは
なかなか消えませんでした。
お茶を飲むほど、ますます喉が渇き
唇が渇きました。
夕べの酒の効力は
もう消えたはずなのに、
またもや、
酔っている時のような感覚が
意識を侵食して来ました。
その時、下がろうとしていた
フィツ夫人が、突然、振り向き、
伝えなければならない知らせが
もう一つあると前置きをした後、
王太子とハイネ公爵夫人が、
今週中に
バフォードのバーデン家を
訪問する予定だと告げました。
ビョルンは、
「レオニードとルイーゼが
バーデン家を?」と聞き返すと
フィツ夫人は
このレチェンの空の下に
もう一人の王太子と
ハイネ公爵夫人がいるのでなければ
その二人で正しいと答えました。
ビョルンは、
二人がエルナを訪ねる理由を
尋ねると、フィツ夫人は
鏡を一度見れば
その理由が分かるかもしれないと
辛辣に皮肉って答えました。
ビョルンは、
皆、結構無駄なことをしていると
無邪気に答えると、
テーブルから立ち上がりました。
葉巻を口にくわえて
火を点けている間に、
フィツ夫人は静かに
寝室を去りました。
ビョルンは、
川が見下ろせる窓際に立ち、
相次いで2本の葉巻を吸うと、
再び訪れた幻覚が
ようやく消えました。
ビョルンは浴室へ行き
包帯を外すと、
腫れて、痣のある腕が現れました。
そして、イライラ混じりの
ため息をついたビョルンは、
大きな鏡に映った自分の姿を見て、
フィツ夫人の助言は
全く間違っていなかったと思い、
気が抜けました。
ビョルンは、
レオニードとルイーゼが
戻ってくる前に
髪を少し切った方がいいと思いました。
考えれば考えるほど
呆れてしまう。
ぞっとして身震いするほどだと
猛烈な怒りが込められた
ルイーゼの声が
田舎道を走る馬車の騒音を
消しました。
読まれなくなった本を閉じた
レオニードは、
諦めるように頭を上げて
ルイーゼと向き合いました。
ここに来る長い道中、
ビョルンを呪い続けても、
あれほど情熱が残っている妹に
改めて驚嘆しました。
どうして、そんなことを
自分にも秘密にできたのか。
あの憎らしい女を
かけがえのない友達だと思う
自分を見るのが面白かったのか。
なんて愚かで情けないことなのかと
怒っているルイーゼに、レオニードは
それはレチェンとラルスの間の機密と
言おうとしましたが、
レオニードが機密と口にする前に、
ルイーゼは、機密という
その素晴らしい言葉を
もう一度言ってみてと
皮肉を言いました。
一言一言、力を入れて吐き出す
ルイーゼの顔色は、
冷たく沈んでいました。
詩人の本が出版され、
グレディスの真実が
明らかになった日、
ルイーゼは疲れて倒れるまで
悪態をつきながら泣きました。
しばらくは、
現実を否定したくて、もがき、
そのすべてが真実だという事実を
受け入れられるようになった後は
侮蔑感と入り混じった悲しみに
耐え切れず、嗚咽しました。
両親と双子の兄たちだけで
共有した真実を徹底的に隠して、
自分を騙した家族に
鳥肌が立ちました。
彼らのことが
憎くて恨めしかったけれど
一方では彼らを理解しました。
なぜ、ビョルンが
そのような選択をせざるを
得なかったのか。
そうして得た国益が
どれほど大きくてすごいのか。
それを守るために
何を甘受して来たのか、ルイーゼも
よく知っているからでした。
それでもルイーゼは
ビョルンを許せませんでした。
話してくれたら、
いくらでも彼を理解し
痛みを共有できたはずだし、
少なくとも
グレディスとの復縁を促し、
兄を苦しめる愚かな身に
転落することは
ありませんでした。
ルイーゼは、
ビョルンを訪ねて
彼を問い詰める言葉を
頭の中で数えきれないほど考えて
整理していましたが、
大公妃が流産したという知らせを
聞いたため、
結局一言も口にすることは
できませんでした。
一体、あとどのくらい
行かなければならないのかと
ルイーゼは、目を細めて
馬車の窓の外を見ました。
延々と、同じ田舎の風景が
続いていました。
このように寂しくて荒涼とした所に
貴族の邸宅があるという事実が
とても信じられないほどでした。
時間を確認したレオニードは
御者の話していた到着時間まで
あと10分ほどだったので、
もう残りわずかのようだと
落ち着いて伝えると、
にっこり微笑みながら、
ルイーゼが同行してくれたことに
お礼を言いました。
こういう時は、間違いなく
ビョルンのような顔をする
レオニードを
じっと見つめていたルイーゼは
静かなため息をつきました。
彼女は、
自分がここまで来たのは、
大公妃のためであり、二人とは、
全く関係のないことだということを
忘れないでと、毅然とした目で
釘を刺しました。
ルイーゼは、エルナに
謝罪すべきだと思いました。
しかし、何をどう伝えたらいいのか
分からず、躊躇っているうちに、
彼女は流産してしまいました。
そのことに、
自分の非がなくはないようで、
ずっと心が重く
シュベリン宮に手紙を送るのが
大変でした。
エルナがついに去ってしまった後
もう少し自分が勇気を出して
謝罪していたら、こんなことには、
ならかったのではないかと
しばしば、後悔の念に襲われました。
連絡もなしに、
突然訪ねてきたレオニードの提案に
応じたのも、そのためでした。
見るのも嫌だけれど、
胸の奥に刺さった
棘のような存在であるビョルンが
不幸になることは
望んでいないからでした。
全く終わりが見えない旅に
疲れたルイーゼは、レオニードに
いったいどこに町が・・・と
口を開いた瞬間、
一軒の家が姿を現しました。
「ああ、何てことでしょう」
ルイーゼが言えるのは
その一言だけでした。
廊下の向こうから走ってくる
リサの声が、
エルナの部屋まで響き渡りました。
エルナが席を立つと、
しばらくして
ノックの音が聞こえ、
真っ赤な顔をしたリサが
姿を現しました。
驚いて丸くなった目が
不安そうに揺れていました。
リサは、
大変なことになった。
王室がやって来たと告げました。
ようやくルイーゼが登場!
エルナに対して、
本当に酷いことばかり
言っていたので、
猛反省して欲しいところですが
エルナに悪いことをしたという
気持ちよりも、
ビョルンとグレディスへの
恨みつらみの方が
強そうな気がします。
それでも、エルナに謝るために
わざわざバフォードまでやって来た
その心意気は買おうと思います。
いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
皆様からのコメントに
「問題な王子様」への愛を
ひしひしと感じています。
このように素晴らしいお話を
生み出していただいた作者様に
感謝です。
私事ですが、
朝早い代わりに、夜も早いです。
眠くなると、
20時前に寝てしまうこともあります。
まるで小学生ですね(笑)
こちらの記事は
予約投稿をしています。
今は週3日しか
投稿できていませんが
仕事が休みの時に、
記事を書き溜めておいて、
週4日くらい投稿できるように
なれればいいなと思っています。
もうすぐ、夏休みなので、
チャンスかも(爆)
去年は夏休みにコロナに罹って
最悪な夏休みだったので
今年は、そうならないよう
切に祈っています。
私もこのお話が大好きで、
記事を書いていますので
全然、無理はしていません。
皆様のお心遣いに感謝です。