149話 エルナの乗った列車が脱線してしまいました。
シュベリンから出発した列車は、
脱線事故が起きたカセン駅に
到着しました。
半分、正気を失って駆けつけて来た
事故列車の乗客の家族、
固い表情の救助隊、
貨物車から降ろされた物資が溢れ出て
入り乱れたプラットホームは
すぐに混乱に包まれました。
ビョルンは、
これといった表情のない顔で
列車から降りました。
耳をヒリヒリさせる騒音と
冷たく湿った空気が
荒々しく押し寄せて来ました。
力を込めて
閉じた目を開けたビョルンは、
つかつかと、
プラットホームを横切り始めました。
人々がもつれ合い、
混雑している目の前の光景に
気づかないような、
淀みない歩き方でした。
侍従は慌てて
そんな王子の後を追いました。
群衆を統制し、
道を確保する余裕のようなものは
ありませんでした。
どうにかして、
王子を逃さずに追いかけることが、
今、彼にできる最善のことでした。
大公妃が乗った列車の
脱線事故の知らせを聞いた
ビョルン王子は、意外にも
落ち着いた反応を見せました。
駅長に会って、事実かどうかを確認し
事故が起きた都市から、
もう少し詳細な知らせが
伝えられて来るのを
辛抱強く待ちました。
恐ろしい事故に遭った妻を持つ
夫のようではない
その姿に当惑する頃、
新たな急報が届きました。
土砂崩れが
常習的に発生していた斜面に積み上げた
石垣が崩れて起きた事故で
それによって、
脱線した列車が転覆した。
一部の車両は、
崩れた土砂に埋もれてしまったため
人的被害が大きいと予想されるけれど
雪と雨が降り続き、
濃い霧が立ち込める悪天候のため
救助作業は
難航しているとのことでした。
微動だにせずに、
話を聞いていたビョルンは、
駅長の報告が全て終わった後、
下り線は、運行可能なのかと
初めて口を開きました。
寒気がするほど、
ひんやりとした声でした。
駅長は困惑しながら、
まもなく一本が
出発する予定ですが・・・
と答えましたが、
言葉を全て言い終える前に、
ビョルンは席から立ち上がりました。
その振動でテーブルが揺れ、
一口も飲まないまま
放置されていたお茶が
こぼれました。
床に転がり落ちた茶碗の割れる音が
鳴り響く頃、すでにビョルンは
駅長室の扉の外に
飛び出していました。
ザワザワしながら集まっている人々を
かき分けて走ったビョルンは、
一気に、下り線列車が待機している
プラットホームに到着しました。
彼が置いて行ったコートと
所持品を持って、
慌てて追いかけて来た侍従は、
間一髪で、王子の乗った列車に
乗ることができました。
シュベリンからカセンへ来るまでの間
ビョルンは
少しも乱れることのない姿で
沈黙を守りました。
いかなる感情的な動揺も見せない
その冷厳な表情は、
まるで神のように見えるほどでした。
その剣幕に閉口した侍従も
口を固く閉ざすと、彼らの客室は、
耐え難いほど重い沈黙に包まれました。
むやみに駅を出て行く王子を見た
侍従は、喉が裂けるほど
彼を呼びながら走りました。
やっとのことで彼に追いつくと、
鉄の匂いが混じった
荒い息が流れ出ました。
侍従は、
しばらく待ってもらえば
カセン市へ王子が来たことを伝え
協力を要請すると言いましたが
ビョルンは「いいえ」と返事をし
一考の余地もなく、
彼の言葉を切りました。
ビョルンは、そんな時間はないと、
ため息をつくように言った後、
再び走り出しました。
駅舎の裏の貨物集荷場に行くと、
予想通り、事故現場に
物資を輸送するための馬車が
待機していました。
ビョルンは躊躇なくそこに近づくと
馬車の御者台に上がろうとする
男の前に立ちはだかり、
一緒に乗せて行ってくれないかと
丁重に頼みました。
ビクッとした彼は、荒々しく顔を顰め
駅馬車が必要なら広場へ行くように。
一体これが何なのか知って・・・
と返事をしました。
侍従は、彼の無礼を叱ろうとしましたが
ビョルンは侍従を制止し、
列車事故の現場に
行かなければならないと、
差し迫った様子で説明しました。
そして「私の妃が・・・」と
呟くと、ずっと落ち着いていた
ビョルンの目が
少しずつ揺れ始めました。
ビョルンは、
荒々しい息を呑み込むと、
自分の妻がその列車に乗っていたと
さらに低く沈んだ声で話を続けました。
御者は困ったように
首の後ろをかきながら
辺りを見回しました。
準備を終えた馬車が
一台二台と出発し始めると、
貨物集荷場の雰囲気は
さらに慌ただしくなってきました。
御者は、仕方がないというように
ため息をつくと、
荷物に揉まれて
窮屈でも構わないなら乗りなさいと
言って、目で馬車を示しました。
ビョルンは、
目で丁重にお礼を告げると
救急薬品がいっぱい積まれた馬車に
躊躇することなく乗り込みました。
目の前で起こるとんでもないことに
茫然としていた侍従も、
どさくさに紛れて彼の後を追いました。
事故現場に向かう馬車は、
扉が閉まるや否や走り出しました。
王子を詐称して、
救助者名簿を要求する者が
乱入したという知らせを聞いて
駆けつけて来たカセン市長は
目の前に、本物の王子である
ビョルン・デナイスタが立っていると
「大公殿下!」と、
指揮本部が置かれた幕舎を
揺るがすほどの驚愕の叫び声を
上げました。
市長は、
他の人々に早く退くようにと
厳重に命令を下すと、王子の前に
立ちはだかっていた人たちは
中腰で引き下がりました。
ようやく一息ついたカセン市長は、
何度も頭を下げて謝罪した後、
ビョルンを
指揮本部の中に案内しました。
申し訳ない。
今ちょうど、事故を起こした列車に、
大公妃が乗っていたといういう
知らせを聞いて・・・と謝る市長に、
ビョルンは、最低限の格式さえ
保つ気がないというように、
救助者名簿は、どこにあるのかと
本論を告げました。
カセン市長は、困った様子で
秘書をチラッと見ました。
彼も、やはり顔色が暗いのを見ると、
まだ、これといった成果がないことが
明らかでした。
しかし、だからといって、王子の命令を
無視することもできないので
彼は絶望的な気分で、
秘書から渡された名簿を
差し出しました。
王子は奪うように、
それを受け取りました。
彼が名簿を広げると、指揮本部は
あっという間に静まり返り、
荒々しく紙をめくる音だけが、
沈黙を破るだけでした。
救助者。負傷者。 死亡者。
どの欄にも、エルナの名前は
含まれていませんでした。
何度も繰り返し確認してみても
同じでした。
じっと空中を見るビョルンの瞳の中で
絶望と安堵、そして恐怖が
入り乱れていました。
強張った手で、名簿を返した
ビョルンは、幕舎の外へ出て
事故が起きた現場を眺めました。
崩れた山の斜面が飲み込んだ
最後尾の車両は、
崩れた土と岩に埋もれて、
形さえ判別できず、人を生き埋めにした
巨大なお墓に近いように見えました。
ビョルンは、あえてそこを無視して
視線をそらしました。
歪んだまま転覆している
他の客車の姿も
残酷なのは同じでした。
後から付いて来た市長は、
まずは、中に入るようにと
提案しましたが、
ビョルンは微動だにせず、
地獄のような光景を
じっと見つめました。
冷たい風に乗って
家族を探す人々の泣き声と
救助されて運ばれてきた
負傷者の悲鳴が聞こえて来ました。
おそらく死者を運んでいるのか
時折、白い布で覆われた、
担架が現れることもありました。
いつの間にか暗くなると、
しばらく止んでいた雪が
再び舞い始めました。
救助隊が灯した微かな光は、
このおぞましい夜に立ち向かうには、
とてつもなく微弱に見えました。
ビョルンは「王子様」と
声を掛けられると、ゆっくり、
そちらの方へ視線を向けました。
傘をさした侍従が心配そうな目で
彼を見つめていました。
ビョルンは、その時になって、
数多くの人々が、
まるで罰を受けるような姿で
自分を取り囲んでいることに
気づきました。
乾いた唾を飲み込んだビョルンは
幕舎に入りました。
ゆっくりと足を踏み出すたびに
エルナのことが思い浮かびました。
バーデン家で別れた日、
エルナは精一杯
ツンツンしながらも、
彼を乗せた馬車が、
これ以上、見えなくなるまで
その場にいてくれました。
風になびく柔らかい茶色の髪と
スカートの裾が、
彼女からの挨拶のように思えて
ビョルンは、なかなか目を離すことが
できませんでした。
シュベリンに戻った後も、
ビョルンは、度々、
バフォードで過ごした日々を
思い出しました。
一緒に雪だるまが溶けていくのを
眺めた、あのバラ色の夕方とエルナ。
両目に彼女をたたえた瞬間の
胸のどこか奥深い所に、静かに、
限りなく温かい雪が
降るようなその感情の名前を、
ビョルンは、
もう分かったような気がしました。
だから、
あの美しい青い目を見つめながら、
これ以上、躊躇することなく、
何度でも言えると思いました。
行き場を失ったその言葉を
飲み込んだビョルンの視線が
再び幕舎の入口に向かいました。
忌まわしい雪の粒は、
ますます大きくなっていました。
どうやら今夜は難しそうだと、
声を低くして、
素早くやりとりする話が
まるで雷鳴のように
耳元に響きました。
エルナ。
その名前を繰り返す度に、
だんだん息が切れてきました。
青白く広がる光の中に
エルナが見えました。
この寒い夜、
地獄と化した列車の片隅で
血を流して倒れているエルナ。
寒さに震えながら泣くエルナ。
「ビョルン」と
自分を呼んでいるのに、
来てくれない自分を、また、ひたすら
待っているかもしれないエルナ。
「エルナ、私の妃、私のエルナ。」
首を絞められたように、
荒い息を吐いていたビョルンは
衝動的に立ち上がると、
幕舎の外へ向かいました。
そして雪の中、
微かな明かりを頼りに、
のろのろとした救助作業が進行中の
列車に向かって走り出しました。
驚愕しながら
引き止める人々の声が
背後から聞こえて来ましたが
ビョルンは止まりませんでした。
辛抱強く待つことが
最善であることは、
よく分かっていました。
このように感情的で
軽率な行動をするのは
正しくないということも。
それに、救助隊にも、
どうしようもできないことを
彼がやり遂げられるはずが
ありませんでした。
しかし、エルナがあそこにいる。
その一つの理由が、
他のすべての考えを消しました。
無意味なもがきでも
しなければなりませんでした。
じっと座って待っていたら、
どうせこの夜が終わる前に
狂ってしまうと思いました。
驚いて駆けつけた救助隊員たちは
こんなことをしてはいけないと叫んで
歪んだ列車に近づく彼を阻みました。
しかし、ビョルンは、
まるで何も聞いていないかのように
前に進みました。
しばらく立ち止まって、
ゆっくりと列車を見たビョルンは、
機関室とつながっている
先頭の車両の前に近づきました。
そして、たじろぐことなく
倒れたその列車の上に上がりました。
救助隊が持ってきた鉄の棒を
握ったままでした。
「王子様!」と、
追いかけて来た人たちが
悲鳴を上げるのと同時に、
ガシャンと、
凍りついた窓ガラスが
割れる音が響き渡りました。
ビョルンは、打ち砕いた窓の下に
飛び降りました。
常に冷静で感情を表すことのなかった
ビョルンが、
エルナのことが心配で心配で
居ても立っても居られず、
衝動的に事後現場までやって来た。
落ち着かなくてはいけないことを
分かっていても、
そうすることができないビョルン。
そこにエルナがいるかどうかも
分からないのに、
倒れた列車の中に飛び降りるビョルン。
そのように自分を突き動かすものが
愛であることに、
ようやく気づくことができたビョルン。
無茶振りを発揮しているけれど、
以前の彼とは180度変わったビョルンが
とても素敵だと思いました。
エルナのこと以外、何も考えられず、
突っ走るビョルンの後を
ひたすら追いかける侍従様や
周りの人たちに、
お茶を差し入れて、
本当にお疲れ様ですと
言ってあげたくなりました。
いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
また、暑さがぶり返して来て
9月とは思えない陽気。
週間天気予報を見たところ、
こちらでは、
あと一週間ほど、最高気温が
30度を超える予報でしたので、
まだまだ、熱中症対策が
必要のようです。
皆様もお体をご自愛ください。