151話 レオニードはビョルンに、大公妃を見つけたと告げました。
眠りから覚めた子供の泣き声が
寂寞とした幕舎の中に
響き渡りました。
火鉢に薪を入れていたエルナは、
驚いて体を起こしました。
包帯が巻かれた腕や腰を襲った
鋭い痛みは、
しばらくして治まりました。
エルナは、
うめき声を飲み込むと、
急いで泣いている子供に
近づきました。
慎重に子供を抱いて慰める手は、
最初の頃より、
上手になっていました。
うめき声を上げている
他の患者たちを見ていた
中年の女性は、
心配そうにエルナを見ると、
その子の面倒は自分が見るので
エルナは休むようにと言いました。
しかし、エルナは
小さく首を横に振りながら
自分より、その女性の方が
ずっと苦労していると
返事をしました。
しかし、女性は、
自分は怪我をしていないけれど
お嬢さんは、
自分の体を気にかけていないので
心配だと言いました。
エルナは、自分も
大きな怪我をしたわけではないので
大丈夫だと返事をしました。
女性は、今日中に全員が
病院に移されればいいのにと
言うと、深いため息をつき、
再び、彼女が世話していた
老婦人のそばに戻りました。
エルナは、目に力を入れて
瞬きすることで
疲れが混じった眠気を消しました。
抱いていた子供が泣き止むと、
幕舎を揺らす風の音が
さらに鮮明になり、
あの、むごたらしい事故を
思い出させました。
エルナとリサは、抱き合ったまま
倒れる列車の中を転がりました。
全身が砕けるような痛みの中で
意識を失っていたエルナが
再び目を覚ました時、
転覆した列車は地面に横たわっていて
割れたガラス窓のある壁が
天井になっていました。
何が起こったのか把握したエルナは
まだ意識を取り戻していない
リサを連れて列車から出ました。
客車の車両と車両の間を結ぶ
通路に近いところに
押し出されていたおかげでした。
自分より大きいリサを
どうやって起こして
抱きかかえたのかは
よく覚えていませんでしたが
一刻も早く、その危険な所から
抜け出さなければならないという
考えに、エルナは動かされました。
リサを線路の斜面の下に寝かせた時
もう一度、地滑りが起き、
リサの上に覆いかぶさった
エルナの背中を土埃が襲いました。
しばらくして、
ようやく顔を上げた時、列車は、
さらに、むごたらしい形に
なっていました。
辛うじて、
そこから脱出していた乗客たちは、
誰からともなく涙を流しました。
それからは、
頭の中がぼんやりとした状態で、
ただ、ひたすら動き続けていました。
助けを求める負傷者の泣き声と
悲鳴が聞こえ始めると、
エルナは他の乗客と一緒に
列車へ駆けつけました。
壮健な男たちが、
土砂崩れの残骸の間から
生存者を救い出すと、
女性たちは、彼らを
安全な場所に運びました。
その間に、
リサが目を覚ましました。
片足が折れたものの、
幸いなことに
重傷ではありませんでした。
再び眠りについた子供を寝かせて
背を向けると、
ちょうど目覚めたリサの声が
聞こえて来ました。
エルナは、ズキズキする腕に
触れていた手を、
急いで後ろに回しました。
リサは、
まさか妃殿下は
一睡もできなかったのかと
尋ねました。
エルナは、それを否定し
少し前に目が覚めたと答えました。
エルナは微笑みながら
リサのそばに近づきました。
少し寝たのは事実なので、
嘘ではありませんでした。
リサの足の状態を調べたエルナは、
救護品が入った箱から
水筒とチョコレートを
持って来ました。
リサは、すすり泣きながら
それを受け取ると、
自分が妃殿下を守るべきなのにと
謝りました。
エルナは、
自分の代わりにケガをしてまで
リサは守ってくれたと言いました。
しかし、彼女は、
むしろ妃殿下のおかげで
自分は助かったと反論しました。
それでは、自分たちは、
互いに守り合ったのだと言って
エルナが嬉しそうに笑うと
リサは、どっと泣き出しました。
エルナは、息を殺して泣くリサを
両腕を伸ばして抱きしめました。
大丈夫だと、
何度も囁いてあげたその言葉は、
自分への呪文に近いものでした。
事故の知らせを聞いた救助隊が
到着した後も、状況は、
なかなか改善されませんでした。
負傷者は多いけれど、
彼らを病院に運ぶための
交通機関と人材が、
圧倒的に不足していました。
重症者から優先順位を決めて
移送するのが、最善の状況でした。
エルナとリサは、
比較的軽傷の女性と子供たちが
集まった幕舎に送られました。
応急薬品と
食糧が与えられただけなので、
互いに助け合いながら
耐えるしかない状況でした。
リサが落ち着くと、
エルナはもう一度、
大丈夫だと、呪文を唱えました。
名前が漏れていた名簿も訂正し
おおよその、移送計画も
調べてみました。
遅くとも今日中には、
この幕舎で待機中の患者たちも
病院に行けると言われたので、
その時まで
耐えれば良かったのでした。
だから、大丈夫。
エルナは、震える手を
力いっぱい握りしめながら
立ち上がりました。
まずは、薪をもう少しもらって来る。
リサの包帯を替える。
ここを出たら、
真っ先に家族に連絡をする。
やるべきことの
優先順位を整理しようしていた
エルナは、ふと、ぼんやりした目で
幕舎の入口を眺めました。
家族という言葉で想い起した顔が
ぼんやりと浮かんだ瞬間に、
目を覚ました別の子供が
泣き出しました。
エルナは反射的に、
そちらへ体を向けました。
移送待機中の救助者が集まっている
幕舎が見え始めると、ビョルンは
しばらく立ち止まったまま、
降りしきる雪の向こうの
微かな明かりを見つめました。
夢中で走って来たので、
喉元まで上がって来た熱い息が
溢れ出て来ました。
麻痺してしたような頭が、ようやく、
エルナが無事であるという事実を
はっきりと認識しました。
あの光の中に
無事なエルナがいるかと思うと
無意識に両足が動きました。
すでに限界まで追い込まれた体が
崩れそうに、ふらついたけれど、
ビョルンは、ただその光だけを
見つめながら走りました。
「どうか、エルナ」
乾いた唇から出る言葉は、
その一言だけでした。
ビョルンは切迫した祈りを
繰り返しながら、
幕舎の出入り口を開けました。
中へ入ると、すぐにビョルンは、
横になっている負傷者たちを
見回しました。
彼が、一番左端の寝床を見た時、
「ビョルン・・・?」と
自分を呼ぶ、澄んで柔らかい声が
聞こえて来て、
そこで患者の世話をしていた女性が
振り向きました。
血走った両目いっぱいに
彼女を湛えたビョルンは、
思わず空笑いをしました。
一晩中、
狂ったように叫んできた名前が
なぜか、口から出てきませんでした。
ビョルンは、
荒い息と入り混じった失笑を
吐きながら、彼女を限りなく
見つめることだけでしか
できませんでした。
心の奥底からの怒りと喜びが
交差しました。
どうしたらよいのか、
途方に暮れるような
恐怖と絶望の大きさと同じくらい、
目の前にいる女性を
恨めく思いました。
限りなく卑賤な心が
ぬかるみに押し込まれたような
気分でしたが、美しい瞳の中には
崩れた権力の座が再び立ち上がり
王冠が輝いていました。
彼はその小さくて美しい王国の
召使であり、また王でした。
一つに定まらない感情が絡み合って
熱い塊を成している間に、
彼を見ていた青い目が
丸くなりました。
「まあ、ビョルン!」と
驚いたエルナの叫び声が
幕舎に響き渡りました。
エルナの手から落ちた包帯が
床を転がり、
ビョルンの足元に触れました。
エルナは、
きちんと言葉を発せられないまま、
ゆっくり、大きな目を瞬かせました。
ビョルンの顔の上に、
自嘲混じりの笑いが
浮かんで来ました。
人を狂わせておきながら、
よくもまあ、
看護師の役割をしていたなんて。
呆れる一方で、
それがとてもエルナらしいので
虚しい気分になりました。
エルナは震える声で
どうしたのかと尋ねました。
めちゃくちゃになった姿で
目の前に立っているこの男が
ビョルン・デナイスタである事実が
信じられませんでした。
しかし、彼は、
ビョルン以外の誰でもない、
冷たくて柔らかくて、
彼の体温に似た目で、
エルナを見つめていました。
その眼差しを知っているので、
エルナは一度も双子の王子に
混乱させられたことは
ありませんでした。
首を傾げるほど混乱させられても
今、この瞬間のように
目が合うとわかりました。
「あなた、一体・・・」と
ようやく、再び口を開きながら
一歩を踏み出した瞬間、
立ち止まっていたビョルンが
大またで近づいて来て、
一抹の躊躇もなく、
エルナを抱きしめました。
混乱したエルナが慌てている間に、
ビョルンは両腕に
さらに力を入れました。
その腕の中で感じられる熱気と
不安定な心臓の鼓動が
彼を押し退けようとした
エルナを止めました。
「ビョルン・・・」と
エルナが名前を呼ぶと、
彼はゆっくりと顔を上げました。
微かな笑みを浮かべたビョルンは、
両手で慎重に、
エルナの顔を包み込みました。
信じられないけれど、
傷だらけのその冷たい手が
震えていました。
どうしていいのか分からず
途方に暮れた目で
エルナを見つめながら、
まるで道に迷った子供のように
不安そうに震えていました。
自分は大丈夫だと言うと、
エルナはビョルンの手を
急いで握り締めました。
いつの間にかエルナの目も
彼のように赤くなっていました。
ビョルンが恋しかった。
もう、これ以上、
隠す方法がなくなったその気持ちに、
エルナは諦めたように
向き合いました。
このまま死んでしまうかも知れないと
思った時、ビョルンと別れた日に、
優しい挨拶の一言も
してあげられなかったことが
とても悔まれました。
笑ってあげればよかった。
手を振ってあげればよかった。
すでに、あなたを許したと
言ってあげればよかった。
もしかしたら、
彼らの最後になったかもしれなかった
その瞬間に、彼に残した傷を考えると
バカみたいだけれど、心が痛みました。
エルナは、そんな自分が
もう憎くなく、
傷つくことになっても
愛したいと思いました。
もし、またビョルンに
会えるようになったら、
もう逃げないと思いました。
いくら顔を背けて、押しやっても
終わらせられない、その男も
エルナが、うまく生き抜くための
人生の一部でした。
「見てください。本当でしょう?」
と言うと、エルナは
泣きそうな顔で微笑みました。
彼を安心させてあげたいけれど、
適当な言葉が、
全く思い浮かびませんでした。
エルナは、
大きな事故だったけれど、
幸いにも・・・と
たどたどしく釈明し始めましたが
ビョルンの「愛しています」という
低い囁きが、それを遮りました。
エルナは夢を見ているような
ぼんやりとした目で
彼を見つめました。
何を言われたのか、
よく分かりませんでした。
明らかに、
何か間違っているようでしたが、
ビョルンは強張った目で
エルナをじっと見つめるだけでした。
「愛してます、エルナ」
ビョルンは、
あれほど切実に探し回った
美しい目を見つめながら、
今なら分かるような
その感情の名前を伝えました。
この歓喜に満ちた屈服を
一生忘れないだろうという
予感がしました。
人生で最も輝かしく甘美な一瞬。
じっと彼を見つめていたエルナは、
何の返事もできないまま
どっと泣き出しました。
ビョルンは、その愛らしい女性を
胸の奥深くに抱き締めながら、
目を閉じました。
ストレートフラッシュ。
カードの幸運から始まった愛でした。
だから、勝つしかない札を
手に入れたという自信がありました。
しかし、ビョルンは、
それは、相手の札を
きちんと読めなかった誤判に
過ぎなかったということを
もう分かるような気がしました。
「愛してます」
ビョルンは、これ以上
躊躇することなく、喜んで、
何度でも、その言葉を囁きました。
ロイヤルストレートフラッシュ。
ビョルンを屈服させた
美しい勝利者に捧げる
甘い献辞のように。
野戦病院のような場所での
エルナとビョルンの再会。
きっとエルナは大ケガをして
横になっていると思ったのに、
彼女は、人助けをしていた。
それに拍子抜けして、
空笑いをしたのかもしれませんが、
目の前に愛する人が
無事でいるのを見て、
人目も憚らず、彼女を抱きしめて
今まで言えなかった
愛していると言う言葉を
何度も告げるシーンに
感動して泣けました。
救助者のリストに
エルナの名前がなかったので、
彼女は、まだ列車の中にいると思い
狂ったようにエルナを探し回った
ビョルン。
大公妃が見つかったという
レオニードの言葉に、
一瞬、力が抜けたのではないかと
思いますが、エルナ本人を見るまでは
安心できず、最後の力を振り絞って
エルナのいる場所へ向かったビョルン。
きっと服は泥だらけで、
顔も汚れていて
髪はぼさぼさで、ケガもしていて、
一国の王子とは思えないその姿。
けれども、何度もエルナに
愛を囁くビョルンは、
エルナの目には、
きっと今までで一番美しい姿に
映っていたのではないかと思います。
エルナも、
自分の本当の気持ちに
気づけて良かったです。
いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
お話の内容に沿うような
花言葉を持つ花の画像を
できるだけ入れようと
心がけていますが、
適当なのがない場合は、
見た目の雰囲気で選んでいます。
花の子ルンルン観てましたが
内容は、すっかり忘れていました😅
確か、花言葉を紹介していたような
記憶がありますが、
間違っていたら申し訳ありません。
それでは次は、金曜日に更新します。
まだ本編は終わっておりません。
153話が本編の最終話です。