138話 ビョルンはバーデン男爵夫人に促されて、馬小屋へ行きました。
馬小屋では、リサが、
エラやシルビア、それとも
上品な感じのするクリスタはどうかと
熱心に子牛の名前候補を
挙げていました。
エルナも、やはり真剣な態度で
子牛の名前を付けることに
臨んでいました。
干し草を食べ終わった子牛が
母親のそばに戻った後も、
2人は真剣に議論し続けていました。
ラルフ・ロイスは
馬小屋の扉にもたれかかり
その光景を見守りました。
知らず知らずのうちに
微笑が浮かんできました。
子牛をバーデン家に
置くことにしたのは、
純粋にエルナのためでした。
あの幼い獣に、
とても切ない思いを寄せていたので
もう少し大きくなったら、
売る予定だという話を
どうしても、
持ち出す気になれませんでした。
幸い男爵夫人も
同じことを考えていたのか、
昨夜、生まれた子牛は
バーデン家の新しい家族として
認められました。
あんなに喜んでいるのを見ると、
やはり良い決定であったことは
明らかでした。
そこへ、メイドが
息を切らしながら走って来て
「リサはここにいますよね?」
とラルフに尋ねました。
驚いて、そちらを向いたラルフは
あそこにいると
答えようとしましたが
メイドは、それを聞く前に、
子牛の馬房の前にいる
リサに近づきました。
王子がひょいと姿を現したのは
その時でした。
ビョルンは、
びっくり仰天しながら
頭を下げるバーデン家の御者に
馬を連れに来たと、声を低くして
自分の用件を伝えました。
御者は、タジタジとなりながら
自分がすぐにと、返事をしましたが
ビョルンは笑いながら
大丈夫だと返事をすると、
軽い足取りで
馬小屋の敷居を越えました。
エルナのそばを守っていた
地獄の番人は、
男爵夫人が送って来たメイドに
連れられて来る途中でした。
驚愕するリサと
目が合ったビョルンは
唇に指を当てて
「シーッ」と警告しました。
一方、エルナは、
まだ子牛に夢中でした。
リサはエルナを呼ぼうとしましたが
ビョルンは
「静かに立ち去れ」と、そっと警告し、
「首を切られる前に」と
囁くように付け加えました。
その言葉は本気でした。
リサはこれ以上耐え切れず、
歩き出しましたが、 そんな中でも、
咳払いをすることで、
涙ぐましい忠誠心を燃やすことは
忘れませんでした。
しかし、残念ながら、エルナは、
その意図が理解できませんでした。
馬小屋の扉が閉まるのを
確認したビョルンは、
後ろで手を組んだまま
ゆっくりと乳牛の前に
近づいて行きました。
何かを呟きながら
子牛を見ていたエルナは、
ようやく彼の存在に気づきました。
意図したことではあるけれど
妙にビョルンのプライドが
傷つきました。
エルナは刺々した声で
わざとリサを行かせたのかと
尋ねました。
ビョルンは
口の端をそっと上げて笑うと
馬房の前に近づきました。
ビョルンはそれを認め、
メイドは男爵夫人に呼ばれたと
気まずそうに返事をしてから
子牛を見ました。
リサの手紙が嘘ではなかったのか
子牛は
色とりどりの毛糸で編んだ服を
着ていました。
首にはリボンも巻かれていました。
誰の好みなのかは一目瞭然でした。
エルナは、
それは本当なのかと、
信じられないというように
彼を見ました。
ビョルンは柵に寄りかかると
エルナは見かけによらず、
少し勘違いが過ぎると指摘しました。
エルナが「えっ?」と聞き返すと
ビョルンは、
見ての通り自分は、乗馬をしに
出てきただけだと答えると、
憎らしいほどゆったりとした動作で
乗馬服姿の自分を指差しました。
しかし、ビョルンは、
エルナが望むなら
2人きりになる気もなくはないと
提案しました。
ぼんやりと彼を見ていたエルナは
一歩遅れて拒否すると、
真顔で眉を顰めながら、
王子様は乗馬へ行ってと告げました。
そして、慌ててリサの所へ
行こうとするエルナの腕を
ビョルンが掴んだので
彼女は驚いて悲鳴を上げました。
もう余裕がなさそうなビョルンが
彼女の前に立ちはだかり、
エルナはいつも、
こんな風に逃げるだけだと
責めました。
そして、本能的な恐怖に捕らわれた
エルナを見下ろしていビョルンは
「10分だけお願いします」と
ため息をつくように囁くと、
エルナの腕を放し、
ジャケットのポケットから
取り出した懐中時計を
エルナの手に握らせました。
そして、ビョルンは、
こんなことさえ
許してくれないのなら、自分は
大きな誤解をすることになると
思うと言いました。
エルナが
何を誤解するのかと尋ねると
ビョルンは、
エルナが、まだ自分を
とても愛しているという誤解だと
答えると、
ゆっくりと閉じていた目を開けて、
エルナを見つめました。
そして、
その気持ちがばれるのが怖くて
しきりに逃げようとしているのでは
ないかというような誤解だと
付け加えました。
いけずうずうしい言葉遣いとは異なり
エルナを見る彼の目は真剣でした。
その目と、手に持った時計を
交互に見ていたエルナは、
諦めのため息をつくと、
時計の蓋を開けて
「10時25分」と告げました。
ビョルンが、
ちょうど35分に出発すると告げると
エルナは目を伏せました。
ニヤリと笑ったビョルンは、
再び柵に寄りかかり、
腕組みをしました。
1分後、ビョルンはエルナに
子牛と
話をしていたところだったのかと
最初の質問をしました。
おどけた様子のない、
低くて柔らかい声でした。
無駄に揉めたくなかったエルナは、
リサと一緒に子牛の名前を
つけていたところだった。
売らずに、母親のそばで
育てることが決まったからと、
素直に答えました。
目は、手に持った時計に
釘付けになっていました。
名前だなんて、
随分、気合が入っていると
ビョルンが言うと、エルナは
あざ笑うな。
自分にはとても重要なことだからと
抗議しました。
ビョルンは、ため息をつくように
エルナの名前を呼びながら
首を回すと、
母の乳を飲んでいる
幼い子牛が見えました。
互いにそっくりな姿が
とても微笑ましく、
愚かなことこの上ないエルナが
一体どんな気持ちで
あの姿を見守ってきたのか
ぼんやりと
分かるような気がしました。
自分にそっくりな子を
大事にしている母親と、
そんな母親の後を
ちょろちょろ付いて行く子牛を見て、
失った自分の子供のことを
考えたのだろう。
だから、あの幼い動物に
特別な愛着を抱いたのだろうと
思いました。
ビョルンは、
気軽に言葉を続けることができず、
ゆっくりと顔を撫で下ろしました。
夜逃げをして、
離婚状を送って来るほど、
ひどい心を持っていながらも、
このような哀れみを感じながら
過ごしたこの女性に、
いきなり腹が立ちました。
狂ったように声を上げたいけれど
心が限りなく冷たく沈むという、
とても見慣れない種類の怒りでした。
手に持った時計を確認したエルナは
あと5分と、
残りの時間を知らせて来ました。
リボンの付いている服を着た
子牛を見ていたビョルンは
エルナを見つめました。
あの日のように、
濃い血生臭い匂いが、鼻先を
グルグル回っているようでした。
エルナが目覚める前に
片付けてしまったものの中にも、
あのようなものがありました。
エルナが好んで食べていた
飴のように、
色とりどりの毛糸で編んだ
とんでもなく小さな
ベビーソックスでした。
足首に付いていた、
彼の指の節よりも小さいリボンも
そうでした。
あの日、ビョルンは、
使用人たちが持ってきた子供の物を
自分の目で全て確認しました。
相次いで起きた事件に巻き込まれ、
気が気でない中でも、本当に熱心に
あれこれ集めておいたと思うと
失笑しました。
それらは全て、とても小さくて素朴で
大公の子であり、国王の孫でもある
子供のものとは、とても思えず、
本当に気が狂いそうな気がしました。
しかし、
子供はもういなかったので
ビョルンは、
しばらく握りしめていた
子供の人形を下ろすと、
捨てるようにと命じました。
そしてその夜、
それらは灰と煙となり、
虚しく去ってしまった
彼らの最初の子供のように
この世から姿を消しました。
ビョルンは、
限りなく柔らかかった感触が
残っている手を、
力いっぱい握りました。
逃げたのは、
エルナだけではないと思うと
虚しい気分になりました。
あと2分と、
エルナの優しい声が
耳元をかすめました。
ビョルンは、
ギュッと閉じた目を開けると
子牛が明るく鳴きました。
その幼い獣を見つめながら
エルナは笑いました。
もし、あの子が
無事に世の中に生まれていたら、
自分の懐に子供を抱いて
見せたような微笑でした。
あと1分と告げると、
エルナは眉間にしわを寄せて
頭を上げ、
言うことがないのに、
どうして話をしたがったのかと
尋ねました。
窓から差し込む光を
凝視していたビョルンは、
エルナに目を移すと、
もうすぐ、彼女の誕生日なので
欲しいプレゼントを言ってみてと
促しました。
ビョルンの耳にも
かなり馬鹿らしく聞こえましたが
それ以外に、言える言葉を
見つけるのが大変でした。
10分経ったと告げるエルナの
懐中時計の蓋を閉める音が、
冷たく断固として
聞こえて来ました。
約束を守ったから
自分はもう行くと告げると、
エルナは極めて事務的な態度で
時計を返しました。
けれども、
その無表情な顔と硬い口調も、
小さく揺れる瞳と声を
隠すことはできませんでした。
エルナは、
自分が王子様に望むのは
もう離婚だけ。
もちろん恋愛なんて絶対しないと
無情な返事をしたのを最後に
エルナは背を向けました。
遠ざかっていく彼女の背中で
編んでいる髪が揺れました。
その先で、
ヒラヒラしているリボンは
よりによって、
子牛が結んでいるのと同じ
ピンク色でした。
それに呆れてイライラしながらも
愛らしいので
ビョルンは失笑しました。
彼は姿勢を正すと、
馬小屋の扉を開けようとする
エルナの背中に向かって、
あの子牛の名前は
自分がつけてあげると
落ち着いて叫びました。
エルナは肩越しに
チラッと彼を見ました。
ビョルンは、
「離婚」と付ければいいと告げると
エルナは、
それはどういう意味かと尋ねました。
ビョルンは、
最近、エルナが
一番愛している単語だと
大いに皮肉を言うと、
自分の馬のいる馬房に向かいました。
子牛は、
その名が不満でもあるかのように
鳴き出しました。
呆れながら彼を睨みつけていた
エルナは、しばらくして
姿を消しました。
その間、乗馬をする準備を終えた
ビョルンは、馬を引いて
馬小屋を出ました。
雪のように白い馬と共に
ビョルンは、
精一杯スピードを上げて
走って行きました。
森の奥深くにある空き地まで
走っていったビョルンは、
そこで葉巻を何本か吸った後、
再びバーデン家に戻って来ました。
そして、すぐに
一人だけ残しておいた侍従を呼び出し
シュべリンへ行って来るようにと
落ち着いて命じました。
その言葉に面食らっている侍従に、
ビョルンは、
準備することが多いので、
フィツ夫人の助けを借りるように。
宮殿には、自分が前もって
連絡をしておくと、
軽い笑みを浮かべながら話しました。
それからビョルンは
半分吸った葉巻を
灰皿に投げ入れた後、
まっすぐな姿勢で立ち、
妃の誕生日までにできるかと
尋ねました。
乾いた唾を飲み込んだ侍従は
仰せの通りにすると返事をしました。
今回のビョルンの言葉は
少し辛辣度が高かったかも。
半月もいるのに、
エルナの態度が
全く変わっていないので
イライラする気持ちも
分からないではないけれど
エルナはビョルンを見ると
どうしても辛い思い出が
蘇ってしまうので、
自分が傷つかないためには、
ビョルンを避けるしかないのだと
思います。
けれども、エルナが
ビョルンの乗馬服姿を
ぼんやりと見ていたのは
無意識のうちに彼のことが
素敵だと思ったからに違いないと
信じたいです。
エルナが
ビョルンの元に戻るためには
辛かった経験を忘れるのではなく
乗り越えることが必須。
そのためには、ビョルンも
殻に閉じ込めている自分の感情を
解放する必要があると思います。
いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます(^^)
皆様方を、このお話の感想を
共有できることを
とても嬉しく思っています。
iwanesan様
確かにビョルンは
愛していると言っていて
それは嘘ではないと思いますが
まだ、ビョルンの感情が
ほとばしるような
エルナの心をつかんで離さない
告白までには至っていないと思い
あのように書かせていただきました。
そのような告白は
いずれ出て来ます(コソッとネタバレ)
midy様
フォローありがとうございます。
私も原作の表紙のビョルンは
とても素敵だと思います。
それでは、明日も更新します。