137話 ビョルンはエルナにアーモンドを渡しましたが・・・
恋愛してみようと思うと言う
ビョルンの口元に浮かぶ笑みは
市井の無頼漢のように
振る舞う瞬間にも極めて優雅でした。
言葉に詰まったエルナは、
しかめっ面で
彼をじっと見つめました。
ビョルンは自然な顔でエルナを見下ろし
彼女はそういうのが好きではないかと
尋ねました。
エルナは、
好きではないと答えました。
ビョルンは嘘だと言い返しましたが
エルナは、
王子様も、恋愛も、このアーモンドも
全部嫌いだと、鋭く言い放ちました。
ビョルンは、
しばらく見ないうちに
かなり獰猛で幼稚になったと
ずうずうしい冗談を言いました。
メリーゴーランドの楽士たちが
演奏し始めたポルカは
バフォードの奇跡のようだった
昨年の春を思い出させる音楽でした。
エルナは怒りを鎮めようと努め、
首をまっすぐにしました。
アーモンドが入った紙袋を
握った手に力が入りました。
何事も
あれほど簡単に忘れたビョルンが、
なぜ全てが無意味になった
今になって、
こんな些細なことを思い出して、
心を乱すのかと思いました。
自分は、
こんなに獰猛で幼稚な女だ。
ビョルンが知っていた、あの女は
ここにいないので、
お話にもならない
無理強いをするのをやめて、
この結婚を終わらせようと
エルナは言いました。
しかし、ビョルンは、
嫌だと返事をしました。
エルナが、その理由を尋ねると、
ビョルンは、
自分が知っていた、あの女より
今のエルナの方が
ずっと気に入っているからと言うと
軽く腕組みをしたまま、
腰を屈めました。
彼の灰色の瞳いっぱいに
エルナの顔が写っていました。
ビョルンは、
エルナが窮屈な態度を取らないから
前よりずっときれい。
ピリッとして興奮する。
もっと早くから
こうすれば良かったのにと
言いました。
エルナが「何ですって?」と
声を荒げると、ビョルンは、
改めて好きになったので
恋愛しようと言いました。
口元だけをそっと上げる微笑は、
浅はかな戯れの言葉とは裏腹に
魅惑的でした。
驚愕したエルナはため息をつくと、
自分が王子様に望んでいるのは
離婚だけだと言いました。
ビョルンは、
それなら、もう少し
企む必要があると言うと、
あまり心を痛めることなく
頷きました。
エルナは
やめて欲しいと訴えましたが
ビョルンは、
自分の勝手だ。
エルナが恋愛してくれないと
自分がエルナを愛することも
できないのかと尋ねました。
エルナは、
ビョルンが自分のことを
好きになるのも嫌だと答えると
彼は、誰が許可をもらって
片思いをしているのか。
そういうエルナは自分の許可を得て
片思いしていたのかと尋ねると
可笑しいといった様子で
鼻で笑いました。
そして、
何も言うことはないだろうと言うと
頭を斜めに傾けました。
堂々として傲慢な姿でした。
適当な答えを
見つけられなかったエルナは、
唇を固く閉じたまま
後ろを振り向きました。
かなり腹が立ってはいるものの
反論しがたい言葉でした。
本来、片思いというのは
そういうものでした。
あの男の態度は、求愛よりは
借金の催促に
近いようには見えるけれど。
握りしめていたアーモンドの袋を
リサに渡したエルナは、
せかせか歩きながら
広場を横切りました。
そんなに急ぐ気配のない
ビョルンの足音が聞こえて来ました。
本当に気に入るものが
一つもない男でした。
エルナはこれ見よがしに
軽やかな歩き方で
馬車に向かって行きました。
いつの間にか空は
闇に染まっていました。
ペチャクチャ喋っていたリサが眠ると
馬車の中は静かになりました。
ずっと外を見ていたビョルンは
エルナを見ました。
彼女は、
物思いに耽った顔をしていました。
その横顔を、
じっと見つめていたビョルンは
なぜ、聞かなかったのかと、
衝動的に尋ねました。
エルナはビクッとして
顔を上げました。
ビョルンは、
偉そうな画家の友人の安否を
確認しに来たのではないかと
落ち着いて付け加えました。
エルナは、
自分が心配していたような
芳しくないことが
なかったということを
知っているからと返事をしました。
ビョルンは、
それを、どうやって確信したのかと
微かな笑いが滲み出た声で
尋ねました。
エルナの瞳が小さく揺れましたが
彼女は、
彼の視線を避けることなく、
もしそうだったら、
王子様がそんな顔で、
自分に、そのような冗談を
言うはずがないからと答えました。
ビョルンは、
自分をそこまで信頼してくれたことに
なんだか感激していると言いました。
エルナは、
ただ客観的な事実を言っただけだと
返事をしました。
大っぴらに答えてしまったと
後悔しましたが、
あえて訂正しませんでした。
それこそ、
この男との言葉のやり取りに
しっかり巻き込まれることに
なりそうだからでした。
二人は、
うとうとするリサを挟んだまま、
互いにじっと見つめ合いました。
ビョルンは「謝りました」と
意外な言葉を口にし、
唇に笑みを浮かべました。
それから、
ハイネ家のピクニックでの
出来事について、
パーベル・ロアーに
きちんと了解を得て謝ったと
付け加えました。
エルナは
変な緊張感を振り払うように
姿勢を直すと、
二度とパーベルに、
そんなことをするのはやめて欲しい。
王子様がどう思おうと、
パーベルと自分は友達同士なだけ。
そして、今は・・
と言いかけたところで、ビョルンは
エルナが何と言おうが、
自分はずっと
あの画家野郎が嫌いだと
極めて堂々と言い放った戯言で
エルナの言葉を遮りました。
そして、ビョルンは、
実は、結構自分は嫉妬深いという
彼の口から出てきそうにない
言葉を、囁くような優しい声で
話しました。
ビョルンは、
理性的な判断と嫉妬は別物だから、
仕方がないのではないか。
あの画家が心配なら、
彼には目もくれず、
その名前も口にしないで欲しいと
頼みました。
エルナは、
まさか今、王子様は
パーベルに嫉妬していると
言っているのかと尋ねました。
ビョルンは、
知らなかったのかと聞き返すと
今からでも、
知っておいて欲しいと頼み、
眉一つ動かさずに、
呆れているエルナに向き合いました。
その厚かましい態度が、
努めて落ち着かせていた
エルナの怒りを刺激しました。
彼女は、
なぜ自分にこんなことをするのか。
ビョルンは
こんな男ではなかったのにと言うと
彼は低く沈んだ声で
「こんな男?」と聞き返しました。
彼をじっと見つめるエルナの目は
鮮やかな疑問を湛えていました。
「さあ」と返事をしたビョルンは
少しがっかりして笑いました。
離婚を通告してきた
妻の心を変えるために、
この深い田舎に閉じこもって
孤軍奮闘している馬鹿野郎。
今の自分が、どんな姿をしているのか
考えてみれば、
エルナを理解できるような
気もしました。
彼自身も、想像さえしたことのない
姿だからでした。
ビョルンは、
エルナが愛した、あの王子も
ここにはいないと、
ため息をつくように
静かに囁きました。
決して認めたくなかった事実なのに
実際に口に出してみると
つまらないことだと思いました。
困っている田舎のお嬢さんを
救ってあげた童話の中の王子様。
この女の全能の神。
もう、その見せかけなんて
どうでもよくなりました。
ビョルンは、
これが自分だと言うと、
星でいっぱいの夜空を眺めていた
目をエルナに向けました。
彼は、
こんな自分で、また始めたいと
告げました。
エルナを直視する彼の目は、
バフォードの夜のように
深くて静かでした。
虚像の上に建てられた
権力の座が崩壊した事実を
今は、受け入れることが
できそうでした。
すると、ビョルンが
本当に望んでいるのは
エルナの愛ではなくエルナで、
エルナを愛する機会でした。
やがて、明かりを灯した一軒家が
見え始めました。
ぼんやりと彼を見つめていた
エルナの唇が開こうとした瞬間、
リサがぱっと目を覚ましました。
驚いたエルナは、
慌てて車窓の方に首を向けました。
「もうすぐですね」と言って、
力を入れて目をこすり、
眠気を追い払ったリサは、
今晩の夕食のメニューなど、
再び、どうでもいいことを
話し始めました。
彼女が騒いでいるうちに、
馬車は
バーデン家に入りました。
古い邸宅の窓から流れ出る
暖かい光を眺めながら、
ビョルンは、必ずリサを
クビにしなければならないと
誓いました。
バーデン男爵夫人と向き合った
グレベ夫人は
一体、どうすれば良いかと
心配そうに尋ねました。
王子が
バーデン家に居候し始めてから
いつの間にか
半月になろうとしていました。
明日には帰るだろう、
明後日には帰るだろうと
無駄に考えているうちに
エルナの誕生日が
だんだん近づいて来ていました。
もしも王子が、
その時まで帰らなければ・・・と
グレベ夫人が言いかけていると、
「帰らないでしょう」と
若い男の声が聞こえて来ました。
驚いて、そちらを向いた彼女は、
今にも息が切れそうな顔をして、
ぱっと立ち上がりました。
いつの間に現れたのか
ビョルンが応接室の入り口に
立っていました。
グレベ夫人は謝りましたが、
ビョルンは、
大丈夫だと返事をすると、
平然とした顔で近づいて来ました。
そして、
招かれざる客は気にしなくていいと
告げました。
グレベ夫人は、
自分が言ったのは
そういう意味ではないと
弁解しましたが、ビョルンは、
妃が幸せな誕生日であればいい。
もちろん、自分がいるから、
簡単なことではないだろうけれどと
冗談を言うと、グレベ夫人の顔から
血の気が引きました。
途方に暮れていた彼女は、
もう行ってもいいという
バーデン男爵夫人の許可が
下りるや否や、身を翻しました。
今日も小さく
十字を切ることを忘れない
エルナの老乳母に、
ビョルンは笑わせられました。
何だか自分が
悪魔扱いされているような
気分でした。
応接室の扉が閉まると、
バーデン男爵夫人は、
手にしていた縫い物を
下ろしました。
ビョルンは改まった挨拶をした後
彼女の向かいの席に座りました。
乗馬服姿のビョルンを見て
バーデン男爵夫人は、
乗馬に出かけるところだったのかと
先に口を開きました。
ビョルンは「はい」と答え、
彼女と目が合うと
優しい笑みを浮かべました。
バーデン男爵夫人は、
もの静かな目で
若くて美しい王子を見つめました。
真心がなくても、
このように優しい男の何が
エルナを虜にし、
また傷つけたのか
理解できるような気もしました。
男爵夫人は、
エルナとの仲は、
まだ冷めたままのようだと
核心を突く言葉で、
立ち上がろうとする王子を
捕まえました。
ずっと静かだった王子の瞳に、
初めて感情と呼べるものが
浮かび上がりました。
ビョルンは、
簡単ではないと、快諾して
笑いました。
バーデン男爵夫人は
物思いに耽った目で
彼を見つめました。
腹立たしさを感じながらも
一方では残念でした。
やり方は
間違っているかもしれないけれど、
この王子が
エルナを愛していることを
よく知っているからでした。
バーデン男爵夫人は、
エルナが素直に
それを受け入れるかどうかは
断言できないけれど、
彼女の誕生日の晩餐の食卓に
大公の席も用意するように
言っておくと、落ち着いて伝え、
再び縫い物を手にしました。
ビョルンは丁寧に挨拶をした後、
立ち上がりました。
男爵夫人は、
エルナはメイドと一緒に
子牛を見に言ったので、
今、馬小屋にいるだろうと言うと
呼び鈴を鳴らしました。
そして、
しばらくしてやって来たメイドに
急ぎの用事があるので、
馬小屋へ行って
リサを呼んで来てと指示しました。
そして、チラッとビョルンと見た
バーデン男爵夫人は、
こまめに針を動かして
端切れを縫い合わせながら、
大公も早く行って
用事を済ませなさいと命じました。
バフォードへやって来て
まだ半月なのに
ビョルンが
どんどん変わって行くことに
驚きです。
王族たるもの、やたらと感情を
露わにしてはいけないと
子供の頃から教えられ、
それが、
元々の彼の性格とも相まって
彼の感情は
ちょっとやそっとでは
壊れない硬い殻で包まれて
しまったけれど、
初めてエルナと会った時に
その殻に、
ほんの小さなヒビが入り、
それが少しずつ広がって行き、
フィツ夫人の言葉で
とうとう穴を開けることが
できたのだと思います。
穴さえ開けば、
完全に殻が壊れるのは時間の問題。
ビョルンが
エルナに愛していると告げる日が
待ち通しいです。
ところで、ビョルン。
確かにリサはお邪魔虫だけれど
彼女はエルナの友達同然なので
リサをクビにしたり
しないでくださいね。
彼女は空気が
読めないかもしれませんが
リサがいたから、エルナは
四面楚歌でも、辛さや苦さや悲しさに
耐えられたのでしょうから。
いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
皆様のコメントの奥が深くて
いつも感心させられています。
差し入れもしていただき
感謝の気持ちでいっぱいです。
トパーズ様
ご指摘通り、
愛のために国王の座を捨てた
エリザベス元女王の伯父
エドワード八世のことを
書かせていただきました。
私もビョルン・アンドレセンを
知っています(年齢が分かってしまう)
映画「ベニスに死す」がすごく好きで
ラストシーンに流れる
アダージェットも時々聞いています。
マンガの73話の
セーラーカラーの服を着ている
ビョルンとレオニードの肖像画を見て
これは、絶対に
モデルにしていると思いました。
8月も後半になり、
すこし暑さが落ち着いて来たような
気がします。
そろそろ、夏の疲れが出てくる方も
いらっしゃると思いますので
お体、ご自愛ください。