173話 外伝20話 早朝から、バーデン家は客を迎える準備で大忙しです。
田舎の邸宅は、
微弱な光が当たっただけでも光るほど
すでに数日間、
こまめに掃いたり拭いたりが
繰り返されていました。
食料品貯蔵庫の棚は、
何人もの元気旺盛な若者が
留まっても問題ないほど、
隙間なくぎっしりと
詰まっていました。
バーデン男爵夫人は、
新しく作った
パッチワークの布団を持って
エルナの部屋に入りました。
古くて狭いベッドは
どうも不便そうなので、
客用寝室にあった大きなベッドを
ここに移しておきましたが、
それ以外は、
すべてが以前のままでした。
ベッドの上に新しい布団を広げた
バーデン男爵夫人は、
少し赤くなった目で
ゆっくりと部屋の中を見回しました。
相変わらず、あの幼い少女が
留まっていそうな風景なのに、
いつの間にか、その子が
自分の子供を抱く母親になるなんて
その今更のような事実に
感情がこみ上げて来ましたが、
このように嬉しい日を、年寄りの涙で
台無しにすることはできないので
彼女はぐっと堪えました。
その後、バーデン男爵夫人は
最後に料理の準備の真っ最中の台所を
確認しました。
グレベ夫人が腕によりをかけて作った
食べ物が山ほど積まれているのを見て
満足そうな笑みを浮かべた
バーデン男爵夫人は急いで着替えて、
玄関の外に迎えに出ました。
安定期に入って
長距離旅行ができるようになれば
エルナと一緒に
バーデン街を訪問すると、
期待もしていなかった
プレゼントをくれたのは
ビョルンでした。
しばらく、ここで、
妊娠した孫娘の面倒を見たいという
願いを冷たく断った昨年とは
全く違いました。
愛されている孫娘の姿が見えるような
ビョルンからの手紙を
彼女は何度も何度も読み返しました。
あの孤独な子供に
心強い新しい家族ができたことを
痛感すると、もう、本当に
空にいる夫と娘のそばに行っても
思い残すことはなさそう気がしましたが
来年の春、
エルナの子供に会ってからでなければ
なりませんでした。
後ろに立っていたメイドが
馬車が来ていると言って
道の向こうを指差しました。
バーデン男爵夫人は、
老眼鏡を持ち上げながら、
目を細めました。
馬車がバーデン家の進入路に入ると
「おばあさま!」と
エルナの声が聞こえて来ました。
窓を開けて、
顔を出した孫娘を見た
バーデン男爵夫人の顔の上に
静かな笑みが浮かびました。
淑女らしくない姿でしたが、
今日だけは
孫娘を叱りたくありませんでした。
しばらくして馬車が止まり、
ここから送り出した時より
はるかに元気になったエルナが
姿を現しました。
子供のように抱きついてくる孫娘を
ただ抱きしめました。
バーデン男爵は、
エルナを心配するたくさんの質問を
一日中、考えていましたが
エルナの満面の笑みと、
一歩離れた所で
彼女を見守ってくれる王子の視線が、
その質問の答えになってくれました。
2頭のまだら模様の雌牛が
バーデン家の裏手に広がる草地を
ぶらぶらしているのをみて、
ビョルンは「離婚だ」と言いました。
今では、母親と同じくらい
大きく育った離婚は、
草をもぐもぐ噛み締めながら
エルナたちを眺めました。
クリスタだと、
エルナは断固として反論し
眉を顰めました。
その恥ずかしい言葉を
これ以上聞きたくないのに、
ビョルンは、
楽しい歌でも歌うかのように
その名前を呼びました。
エルナはお腹を抱えながら、
赤ちゃんが聞いているので、
そんな言葉は、もう口にしないでと
静かに囁きました。
妻の手が触れている所を見た
ビョルンは、形よく口角を曲げると
その子も母親が、その言葉を
どれだけ愛していたか
知っておくべきではないかと
言いました。
エルナは、まさか子供に、
そんなことを言うのかと抗議すると
ビョルンは赤ちゃんデナイスタも
自分たち家族の悠久な歴史を
知る資格があると返事をしました。
とぼけた冗談を言うような態度でしたが
この男が、
本当にそんな話を子供に聞かせる
父親になるかもしれないことを
エルナは知っていました。
彼女は、
そんなことばかり言ったらと
警告すると、ビョルンは
また家出するのかと尋ねました。
エルナは、それを否定し、
ビョルンを追い出す。
大公家の人たちも、
その方をもっと好むだろうからと
明るい笑みを浮かべて答えました。
日増しに凶悪になる猛獣を
じっと眺めていたビョルンは、
うっすらと笑みを浮かべました。
幸いにも、
適度に距離を置いて後を追う
大公邸のメイドたちの同意の表情には
気づかないままでした。
続いて秋の森に入ると、
ゆっくり歩くエルナと
歩調を合わせる足音が
紅葉が美しい小道沿いに続きました。
秋の空気は冷たいけれど、
日差しが差す所は暖かいので、
散歩を楽しむのに悪くない天気でした。
エルナは、のんびりと散歩を楽しみ
故郷の家の食べ物を食べ、
自分とそっくりな目を持った
祖母と向かい合って、
優しい会話を交わしました。
時々、小さな靴下と服を編み、
子供部屋を飾る花を
作ったりもしました。
赤ちゃんデナイスタは、
母親が準備した、
あらゆる色とりどりのものに囲まれて
育つことになるはずでした。
赤ちゃんは元気に育っていると
主治医が、数十回は繰り返して
聞かせてくれたその言葉を、
今やビョルンも
信頼できるようになりました。
今、彼の手を握って歩いているエルナは
この世の誰よりも、幸せで美しい
女の顔をしていたからでした。
あそこを見てと言う
エルナの嬉しそうな声に
考え込んでいたビョルンは
ハッとしました。
エルナが指差している所へ
顔を向けると、
小さくて赤い実の成っている
木の枝が見えました。
エルナは、
姫リンゴが実ったと言うと、
ビョルンは、その名前を繰り返し
最もきれいな実が成っている
小さな枝を一つ折りました。
エルナは、
片腕に抱えているバスケットに
その枝を大切に入れました。
バラの実。 野菊。ドングリと
エルナが、その名前を囁く度に
ビョルンは、妻の小さな手に
それを握らせてやりました。
まったく、
その目的が分かりませんでしたが
エルナは、秋のリスのように、
あれこれを集めるのが、
ただ楽しいように見えました。
いつの間にか、
いっぱいになったバスケットを
じっと見下ろしたビョルンは、
ふと、あらゆる雑草の名前を愛する
田舎のお嬢さんに虜になった
自分の趣向に感謝しました。
債券、株、金塊。
もし彼の妃が
その名前を愛していたら、
それらを、バスケットの中に
ドサッと入れてやる間抜けなカモに
なっていたかもしれませんでした。
このように心身ともに
エルナに参っている状態であれば、
十分に実現可能性のある仮定でした。
彼が甘美な恥辱感を
噛み締めている間に、エルナは
今日の目的地である
キノコの群生地を見つけました。
ビョルンは、
数歩の間を空けて
キノコを採るのに夢中になっている
妻とメイドたちを見ました。
大軍を食べさせる勢いで
満たされている
バーデン家の食料貯蔵庫があるのに
なぜこのようなことを
しなければならないのか
ビョルンには
理解できませんでしたが、
気にしませんでした。
決してエルナの世界を
完全に理解することはできないけれど
ビョルンは、そのギャップから来る
美しい混乱を愛しているので
それでいいと思いました。
すでに大きなバスケットの半分を
キノコで埋めたエルナは、
ビョルンも採ってみないかと
手招きしながら彼を呼びました。
ゆっくりとそこに近づいた
ビョルンは、気が進まなそうな目で
力強くそびえ立つキノコを
見下ろしました。
ビョルンは、
触りたくないと言いました。
エルナが、その理由を尋ねると
ビョルンは、
なんだか気分が悪そうな
顔をしているからと答えると
エルナはハッとして
息を大きく吐きました。
熱心にキノコを採っていたリサも
ギクッとして振り返りました。
何度か瞬きをしていたリサは、
突然、嫌になり、
手に持っていたキノコを
放り投げました。
その手を、エプロンで
ゴシゴシこすっている間に
両頬が赤く染まりました。
慌てたエルナは、
赤ちゃんが聞いていると
ビョルンを叱りましたが、
彼は平然とした顔で、自分の発言に
何か問題でもあるのかと
聞き返しました。
エルナが返答にまごついていると
ビョルンは、
貞淑に考えるように。
赤ちゃんは分かっているからと
改めて驚いた表情をしながら
厚かましい助言をしました。
地面にたくさん広がっているキノコを
少し困った目で
見つめるようになった妻と
メイドたちを残して、ビョルンは
落ち葉が積もった小道に沿って
悠々と歩き始めました。
キノコへの欲望を失ったエルナは、
このくらいにしておこうと
手を振りました。
同行した2人のメイドも同様でした。
エルナは、良い考えをしようと
努めながら、身なりを整え、
岩の上に置いておいた
バスケットを持ちました。
憎たらしい彼女の夫は、
後ろで手を組んだ優雅な姿勢で
林道の端に立っていました。
もう一度、ショールとブローチの形を
整えたエルナは、
軽い足取りでビョルンに近づき
彼が差し出した手を握りました。
森を出ると、満腹のクリスタが
のんびりと日光を浴びながら
野原を歩いていました。
エルナとビョルンが
ちょっとした冗談と笑いを
交わしながら歩いているうちに、
いつの間にか
バーデン家に近づいて来ました。
台所の煙突から
煙が立ち上がっているのを見ると、
また、グレベ夫人が
何かを焼いているようでした。
エルナはゆっくりと首を回し
隣に立っている夫を見て、
愛してると言ってくれないか。
赤ちゃんが聞きたいそうだと
頼みました。
今の彼なら、
何でも聞いてくれそうなので
少し甘えてみることにしたのでした。
ビョルンは笑みを浮かべながら、
少しずつ膨らみ始めた
エルナのお腹を見下ろすと、
「赤ちゃんデナイスタ」と
いつもよりずっと優しく甘美な声で
呼びかけ、
同様の手でお腹に触れました。
しかし、
「意気地のないことを考えず
強く育て」と言う言葉は
少しもそうではありませんでした。
それから、ビョルンは
砕け散った期待に眉を顰める
エルナに向かって
「行きましょう」と
図々しく手を差し出しました。
もう少しせがむと、
かなりプライドが傷つきそうなので
エルナは、これくらいにして
勝てないふりをし、
その手を握りました。
愛しているという一言が
本当に高価な男でした。
エルナの体がもう安心だと分かると
いつもの毒舌が復活?
でも、エルナが望めば
株でも金塊でも、
何でも与えてしまうだろうと
推測しているビョルンは、
相当、エルナに
参っている様子です。
エルナも、それを知っているから
彼を追い出すという言葉を
言えるのだと思います。
ビョルンのあだ名は毒キノコでしたね。
「気分が悪そうな顔」の一言で
それを思い出したエルナとリサ。
果たして、
キノコを食べられるのかどうか
気になります。
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いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
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前話の画像は、
「茶色のクマのぬいぐるみと
白いクマのぬいぐるみ」という言葉を
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