174話 外伝21話 エルナとビョルンはバフォードで過ごしています。
ビョルンが尋ねる前に、エルナは
自分は大丈夫だと、まず返事をし、
体調には何の問題もなく、
きちんと食事も取り、
赤ちゃんも無事なので、
無理をしなければ何の問題もないと
話しました。
今日の健康、食事、そして赤ちゃん。
ビョルンは外出する前に
いつも同じ質問をしました。
どれか一つでも疑わしいと
承諾してくれないので
常に細心に
確認させなければならない
部分でした。
「だから、行ってらっしゃい」と
エルナは
彼を安心させるように微笑み
電信局のある方向を指差しました。
ビョルンがバフォード市内を訪れた
最も優先的な理由は、
業務を行うためだということを
エルナはよく知っていたし、
そして、もう、その事実に失望したり
傷ついたりしませんでした。
自分に自分だけの人生があるように、
彼にも彼だけの人生があり、
彼が妻の人生を尊重するだけ、
エルナも夫の人生を尊重しました。
デナイスタの取引は
公正でなければならないからでした。
ビョルンは、
じっと妻を見守っていた視線を
メイドに向けると、
「リサ・ブリル」と呼びました。
祭りの真っ最中の村の広場を
チラチラ見ていたリサは、
緊張しながら頭を下げました。
懐中時計を開いて
時間を確認したビョルンは
エルナを頼むと、
淡々と命令しました。
それほど長い時間は
かからないだろうけれど、
いくら他の使用人がそばにいるとはいえ
妊娠中の妻を一人で祭りに行かせるのは
あまり、心穏やかでは
ありませんでした。
ところが、あのメイドだったら
話が少し違いました。
赤ちゃんデナイスタも一緒にと
短く付け加えた一言で、
リサはビョルンから、
完璧な信任を得ました。
面食らった表情で
彼を見ていたリサは
「えーっ、はい」という
力強い返事と共に頷きました。
そして、自分が大公妃のそばを
きちんと守っているので
心配しないでと言いました。
決然たる眼差しで覚悟を決めるリサは
3つの首を持つ地獄の門番に
匹敵すると言ってもおかしくないくらい
心強そうに見えました。
ビョルンは軽く笑った後、
妻の頬に短くキスをした後、
電信局に向かいました。
彼の姿が祭りの人波の間に消えると、
リサは騒がしく動く心臓を
そっと押さえながら
エルナを眺めました。
レースの日傘の下で微笑んでいる
リサの傑作は
今日もきれいでした。
リサはエルナに
自分だけを信じてくださいと
言いました。
もうメイド長の座が目前。
欲望の梯子を
さらに登ったリサの人生も、
シュベリン大公妃のように
輝かしく、美しくなりました。
五月祭が花の祭りだとしたら
十月祭は酒の祭りでした。
エルナは
露天カフェのテントの下に座って
蜂蜜アーモンドをかじりながら
秋祭りが真っ最中の広場を
見物しました。
バフォード産の
ビールやワインを売る露店は、
昼間から、酒を飲む人でいっぱいで、
鉄板で焼かれたソーセージと
バーベキューの匂いが
ここまで流れ来ました。
中央に設置された舞台の周りでは
人々が熱心に樫の樽を
転がしていました。
一番最初に、
折り返し地点を回ってくる人が
1位になる競技だそうで、
少し恥ずかしそうな様子でしたが、
皆、楽しそうに笑っていて
良かったと思いました。
リサと目が合うと、彼女は
何か食べたいものがあるかとか
見物したい所があるかと
熱心に質問して来ました。
エルナは、
もう十分だと言って
首を横に振りながら笑いました。
すでにリサが買ってくれた
色々なおやつをお腹いっぱい食べて、
ダンスと歌も
思う存分見物したところでした。
エルナは、
自分のそばに足止めされている
大公邸の使用人たちに、
自分は、ここで
ビョルンを待っているので、
皆は、お祭りを見物して来てと
優しく勧めました。
彼女たちの瞳が、
しばらく揺れたようでしたが、
自分たちは妃殿下のそばにいると
断固として拒絶しました。
大公妃の心からの気遣いは
よく分かっているけれど
それに甘えたら、
あまり性格が良くない王子に
烈火の如く、
厳しく叱られることになるだろう。
いや、彼は腹を立てれば立てるほど
冷ややかになるので、
氷の雷に打たれると言った方が
正しいかもしれませんでした。
彼女たちは、
酔っぱらいが大公妃に
近づかないように警戒し、
近くでタバコをくわえる人が見えたら
火をつける前に処理しました。
たまに悪口を浴びせる酔っ払いに
会ったりもしましたが、何を言おうが
自分たちの主人が目で浴びせる
悪口の比ではなかったので
これといって
問題になりませんでした。
午後、さらに賑やかになった
広場の人混みの間を通って
露天カフェに向かってくる
王子を発見した使用人たちは、
ようやく一息つきながら
大公妃が座っているテーブルから
一歩後退しました。
一目で妻のいる場所を見つけた王子は
大股で近づくと、
向かい側の席に座りました。
「ビョルン、早かったですね」と
人目を気にしながら首を回した
エルナの顔いっぱいに
明るい笑みが広がりました。
ニヤリと笑ったビョルンは
軽く手を上げて
ウェイターを呼びました。
その後まもなく、
レチェン最高のバフォードワインが
彼らのテーブルに置かれました。
エルナは
ぶどうジュースをすすりながら、
ワイングラスを持った
夫を眺めました。
濃い赤色の酒が触れた唇を見ると
なんだか少し恥ずかしい気持ちに
なりました。
お腹の中の子供の父親の前で
恥ずかしがるのは
かなり滑稽だけれど、
胸がくすぐられるこの気持ちを
あえて否定したくありませんでした。
さて、これから、
何を一緒にしようか。
エルナは慎ましいときめきを
含んだ目で夫を見つめながら、
あれこれロマンチックなことを
考えてみました。
一緒にシャボン玉を吹くのは
子供たちのいたずらのようだと
嫌がるだろうか。
それでも、せがんだら
聞いてくれそうでした。
手をつないで
公演を見物しても良さそうでした。
ところで、一体、何をしようと
しているのだろうか。
エルナは目を細めて、
人々が熱心に行き来している
広場の中央の舞台を眺めました。
ビョルンの視線も
同じ方向に向かっていました。
エルナは少し不吉な予感に襲われ、
乾いた唾を飲み込みました。
何となく、あの舞台は、
公演をするには
向いていないように見えました。
長いテーブルが置かれた舞台の中央に
大きな樫の樽が運び込まれ始めましたが
壮健な男たちが、うんうん唸るほど
重そうなのを見ると、
空の樽ではないことが確実でした。
ウェイターを呼んだビョルンは
何の準備をしているのかと
落ち着いて質問しました。
ウェイターは、
もうすぐ祭りの大会が開かれるはず。
このバフォード最高の男を
選ぶ日だと答えました。
ビョルンは、
その最高の男は
春に選んだのではないかと
尋ねました。
ウェイターは、
春の祭りでは、
力を一番よく使う男を選び、
秋の祭りでは、
お酒を一番よく飲む男を選ぶ。
男といえば力と酒だと答えました。
ビョルンは目を細めて
からからと笑う彼を見ました。
何の最高の男を
季節ごとに選んでいるのか。
これでは、最高の男が
バフォード中に溢れかえってしまう
勢いだと思いました。
ウェイターは、
夫が酒を飲むと、
妻がその杯を積む。
一番多く飲んで
一番、杯を高く積んだ夫婦が
優勝する大会だ。
夫が、いくら酒をよく飲んでも、
妻が杯を
高く積み上げられなければダメ。
バフォード最高の夫婦を選ぶ大会と
言ってもいいと説明しました。
春には妻を背負って走り、秋には
妻と酒を飲んで杯を積む。
その方向性は、少し妙だけれど
ここまでくると、バフォードを
「愛妻家の都市」と呼んでも
無理がなさそうでした。
ウェイターは、
興味があれば、お客さんも
一度参加してみるように。
大会開始直前までは、
参加を受け入れてくる。
あれが商品なので、男なら
挑戦してみる価値があると勧めると
舞台の隅を指差しました。
今度は酒に満たされた樽が
そこに積み重ねられていました。
そしてウェイターは、
一等になった夫婦は、
あの花車に乗って
行進することもできると言うと
舞台の下を指差しました。
樫の樽を組み合わせて作った
大きな車が見えました。
色とりどりの花で
派手に飾られているのを見ると、
エルナがかなり喜びそうでした。
ビョルンと目が合ったエルナは
「嫌です」と、昨年の春より
一層断固とした拒絶をして
首を横に振りました。
赤ちゃんのことを考えて欲しいと
頼んだエルナは、
どんなに賭け事が好きな男でも
自分の子供を妊娠している妻が
杯の塔を築かせることはないと
信じていました。
そして幸いにも、ビョルンは
その期待に応えるように
頷いてくれました。
エルナが妊娠していることに
気づいたウェイターは、
残念そうなな表情で
遺憾の意を表しました。
しかし、ビョルンは何気ない顔で
代理出場も可能かと尋ねました。
彼の視線は、妻の後ろで、
首を長くして、
ソーセージの露店を覗いている
地獄の門番を指していました。
隣の男が鋭い目つきで
ビョルンのことをチラッと見ると
もしかして去年の春の
あの青年ではないかと指摘しました。
ビョルンは
適当な笑みを浮かべることで、
無駄に記憶力の良いライバルに対し
礼儀を示しました。
男は、どうりで
見覚えがあると思った。
でも、どうして、
奥さんが変わったのか。
もう再婚でもしたのかと、
彼は目を丸くして、
ビョルンのそばに
ぼんやりと立っているリサを
ジロジロ見ました。
ビョルンは、
妻が妊娠しているので、
こちらは代打。妻はあそこだと
言って、目で舞台の下を差しました。
そこを見た参加者たちは
ギョッとしました。
彼らは、
走る時は、羽のような妻を連れて来て
1位になり、杯を積む時は、
力のありそうな代打だなんて
絶対にダメだと
不満をぶちまけ始めました。
そして、
普段は鼻さえ見せないのに、
お祭りの時だけ
幽霊のように現れるのは何事かと
激しい抗議が殺到すると、
大会の進行役の男が
困った顔で近づいて来ました。
リサの目が光ったのは
まさにその瞬間でした。
リサは、
田舎の人は無情だと叫ぶと、
一瞬静かになった皆の目と耳が
リサに集中しました。
リサは、
妊娠した奥さんを
花車に乗せてあげたい夫の気持ちも
分かってくれないなんて、
本当に無情だ。
赤ちゃんが見ている前で
父親の悪口ばかり言うなんて
バフォードは全くダメだと
不満を漏らした参加者の顔を
一人一人見ながら、
力を込めて叫びました。
もちろん、彼らの不満を
理解できないわけでは
ありませんでした。
どさくさに紛れて
引っ張り出されたリサ自身も
毒キノコ王子と、ここで
こんなことをしなければならない
理由が、よく分かりませんでした。
そして、どう見ても、これは
狂気の沙汰のようでしたが
妃殿下と赤ちゃんを、
祭りの花車に乗せることができれば
一度くらいやってみても
おかしくありませんでした。
リサは、
赤ちゃんがお腹の中で悲しんで
わんわん泣くと、
真顔で駄々をこねたりすると
男たちは、
互いの顔色を窺いながら
ざわめき始めました。
他でもなく妊娠した母親に
どうして、こんなに冷たいのか
分からないと
聞けとばかりに吐き出す独り言が
参加者の不満をかき消しながら
続きました。
結局、不満の声が収まると、
彼らに近づいてき来た進行役の男も
そっと退きました。
よくやった。
うちのメイドは最高だ。
ビョルンは、
改めて驚嘆のまなざしで
リサを見ました。
リサのことを
ずっとクビにしたいと
思っていたビョルンが
彼女を一番信頼できると
思うようになり、
最高のメイドだと称賛するほどに
なるなんて。
これで、
大公家でのリサの地位は安泰。
メイド長になるのも夢ではないかも。
リサの今までの苦労が報われて
本当に良かったです。
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いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
トパーズ様
前話の花の画像はグズマニアで
正解です。
花言葉まで紹介していただき
ありがとうございます。