152話 無事にエルナは病院へ移されました。
扉を開閉する音が、
静かに響き渡りました。
夜明け前、
暖炉の明かりのおかげで、
それほど暗くない病室の中を
ビョルンは
最大限に気配を抑えた足取りで
エルナが眠っているベッドのそばに
近づきました。
ぐっすり眠っている顔を見ると、
ようやく安堵しました。
うとうとしていた看護師は
彼を見つけると仰天して
立ち上がりましたが
ビョルンは「シーッ」と
落ち着いた身振りで注意を促しました。
ビョルンは看護師に
休みに行くよう促しました。
看護師は躊躇いましたが、
ビョルンは微笑みながら、
大丈夫だから早く行ってと言うと
ベッドのそばに置かれた椅子に
座りました。
看護師は、
ビョルンの顔色を窺いながら
退きました。
再び、病室に、
穏やかな闇と静寂が舞い降りました。
ビョルンは静かな眼差しで
眠っている妻を眺めました。
自分もケガをしているのに、
聖女の役割をしていたなんて。
全く愚かだけれど、
極めてエルナらしいと思いました。
ビョルンは慎重な手つきで
エルナの頬にかかっている
髪を撫でました。
顔と首筋の傷は
幸い深くなかったけれど、
割れたガラスの破片が刺さった
左腕と腰にできた傷は
縫合するしかありませんでした。
そのすべての治療が終わるまで、
エルナは小さな叫び声すら
一度も出しませんでした。
冷や汗が流れて、顔が青ざめても
ただただ、笑っていました。
大丈夫だと、口癖のように
繰り返すその言葉が、
かなり、ビョルンの神経を
逆なでましたが、彼は、
そんなそぶりを見せませんでした。
二度とエルナを
泣かせたくはなかったし、
大丈夫でなくても
大丈夫でなければならなかった
エルナの過去の人生を
ぼんやりと理解できるような
気がしたからでした。
それは、バフォードで
一緒に過ごした時間がくれた
プレゼントでした。
自分を呼ぶ、眠そうな細い声が、
想念に耽っていたビョルンを
現実に引き戻しました。
目が合うと、エルナは
弱々しくて無防備な笑みを
浮かべました。
ビョルンは、
少し、ぼんやりした気分に
捕らわれたまま、
彼女の顔を眺めました。
その間、エルナは
ゆっくりと体を起こして座り、
彼と向き合いました。
お互いを見つめる瞳は、
暖炉の火のように、
穏やかな光を帯びていました。
エルナはビョルンに
大丈夫かと尋ねると、心配そうな目で
傷ついた彼の顔と、
包帯が巻かれた手を見ました。
ニヤリと笑うビョルンは、
以前と変わらず
のんびりしているように見えました。
妻を探すために、一晩中、
事故が起きた列車を探し回った夫とは
思えない姿でした。
見ての通り大丈夫だと囁く
ビョルンの声は、
エルナが握りしめている
布団のように柔らかでした。
「愛している」と
奇跡のような告白を聞いた
瞬間のように。
エルナは、
なぜか照れくさくなり、
さっと視線を逸らしました。
何を話せばいいのか
分からなくて悩んでいる間に、
ビョルンが立ち上がりました。
意外な出来事に戸惑ったエルナは、
反射的に顔を上げて
彼を見つめました。
「休んで、エルナ」と言うと
優しくて無情だった、
昔のあの男のように、
にっこりと微笑みながら
エルナの頬にキスをしました。
その後ろ姿を見ていたエルナは
「行かないで」と
衝動的に彼を呼び止めました。
ビョルンは少し驚いた顔で
振り返りました。
エルナは、
ここに一緒にいて欲しい。
自分たちは、
もう一度努力してみよう。
ビョルンは自分の夫だからと
真っ赤な顔で、
かなり大胆な言葉をかけました。
そして、
自分を愛しているとも言ったと、
当然の権利を主張するような
口調で言いました。
エルナの声は、ひどく震えていました。
じっとエルナを見つめていた
ビョルンは、
静かなため息をつきながら
振り向きました。
愛を口実に、自分の首輪でも
握ったような態度が不埒でしたが
滑稽なことに、
それほど嫌ではありませんでした。
狂った野郎だと
自嘲混じりの失笑を漏らした
ビョルンは、
再び妻のベッドのそばに戻りました。
彼をじっと見ていたエルナは
布団をまくり上げて
体を横にずらしました。
まるで、自分の隣の席を
譲ってあげると
言っているような態度でした。
耳たぶまで赤くなった
エルナを見ていたビョルンが、
妃の高いベッドを
空けてくれるのかと言って、
笑いを爆発させると、
ニ人の間に残っていた
最後の緊張感が消えました。
エルナは視線を逸らしながら、
このベッドは自分のものではないと
かなり、澄ました返事をしました。
思う存分笑ったビョルンは、
ベッドに座ることで、
不埒で愛らしい招待に応えました。
鼻先をぐるぐる回る体の匂いは、
彼が覚えているのと
少しも変わりませんでした。
ビョルンは甘い妻のそばに
喜んで身を横たえました。
並んで横になった二人の距離は
次第に縮まって行きました。
まず、ビョルンが近づき、
エルナは、じっとしていました。
指先が触れ、肩が触れ、
いつの間にか向かい合うようになり
お互いの目を見つめるようになった
瞬間にも、エルナは逃げずに
じっとしていました。
ビョルンは、臆病な幼い獣を
あやすように慎重に
妻を懐に抱きました。
こわばっていたのもつかの間。
その後、
エルナは身を委ねてきました。
もしかして眠っていた?と
エルナは囁きました。
ビョルンは「いいえ」と答えると
そっと目を開けて、
抱いているエルナに向き合いました。
しばらく彼を見つめていたエルナは
うちの子は、ビョルンのせいで
去ったのではないと、
淡々と語りました。
指の間から流れ落ちる
柔らかい髪の毛の感触を
楽しんでいたビョルンの手が
突然止まりました。
エルナは、
数日前から具合が悪かった。
何度も主治医が往診に来てくれたので
きっと大丈夫だろうと
漠然と思っていたけれど、
実は、すでに自分たちの子供は
去りつつあったようだと
打ち明けました。
その言葉に、
さらに深まったビョルンの目を
直視しながら、エルナは、
あの夜、自分はいくらでも
ビョルンを拒否することができた。
しかし、そうしなかったのは
自分の選択だった。
あの日、自分たちが
このように同じベッドで、
お腹の中にいる赤ちゃんと
一緒に眠りについた夜、
今日みたいに、ビョルンが寝ながら
自分を抱きしめてくれた時、
毎晩、お腹がとても痛かったのに、
あの日は、楽に眠ることができた。
うちの赤ちゃんは、
おそらくビョルンの懐が
好きだったのだと思う。
だから時々、赤ちゃんがビョルンを
待っていたのではないかと思う。
最後に父親に、
別れの挨拶をしてから
去ったのだと思うと、
落ち着いて話した後、エルナは
静かな笑みを浮かべながら、
強張っているビョルンの顔を
撫でました。
そして、ビョルンの懐に抱かれて
赤ちゃんと一緒に安らかに眠れた
あの夜のことで、
うちの赤ちゃんのことを
思い出すつもりなので、
ビョルンも、そうだったらいいと、
優しく微笑みながら話しました。
これは、もし彼にまた会ったら
必ず言いたかった言葉でした。
じっとエルナを見つめていた
ビョルンは、
パッと笑みを浮かべながら
闇の向こうに視線を移しました。
ビョルンは、
エルナが持っている
最も有利なカードを、
今、手放したことを知っているかと
尋ねると、
再びエルナに向き合いました。
目頭が、少し赤くなったままでした。
しばらく考え込んだ後、
エルナは、それを否定し、
ビョルンは
何か勘違いしているようだと
断固として、首を横に振りました。
この男の罪悪感を
手綱のように握りしめたいと
悪い気持ちになった瞬間も
ありました。
そうすれば、もうこれ以上、
この愛の弱者として、
気を揉まなくてもいいと思いました。
しかし、エルナは、そんな強者に
なりたくありませんでした。
今度は同じスタート地点に
この男と並んで立ち、
同じ心のスピードで、
誰も、他の誰かを傷つけない恋が
できるよう望んでいました。
エルナは、
まだ、その手札を大切にしていると
話しました。
ビョルンは、
それは何なのかと尋ねました。
エルナは笑顔で、
世の中に自分の手札を
素直に教える賭博師がいたかと
丁寧に平然と聞き返しました。
面食らいながら、
その愛らしい勝負師を
眺めたビョルンも、結局、
彼女のように笑ってしまいました。
その笑いが収まると、ニ人は
再び落ち着いた目で
見つめ合いました。
それ以降の記憶は、
遠い夢の中のことのように
薄れてしまいました。
どちらが先ということもなく、
二人は抱き合ってキスをしました。
そっと唇を合わせて息を交わす、
まるで初めてのような
慎重なキスでした。
そして、唇が触れ合う度に、
少しずつ深まっていく、そのキスに
官能的な熱が加わるまで、
それほど長い時間は
かかりませんでした。
「愛しています」とエルナは
自分が持っている手札の一端を
そっと見せました。
ビョルンは「知っています」と
もう一度、キスをしながら
傲慢に、はったりをかけました。
少し憎たらしいけれど、
この男は、本当にキスが上手なので
エルナは理解することにしました。
バーデン男爵夫人は
苛立たし気な足取りで
病院の長い廊下を横切りました。
淑女らしくない振る舞いでしたが、
たった一人の孫娘の命を前にして、
見かけなど、
どうでも良いと思いました。
世間とかけ離れたバーデン家に
列車の事故が伝えられたのは
昨日の午後でした。
エルナが無事だという電報も
一緒に届いたので、
彼女の老いた心臓は、
止まらずに済みました。
バーデン男爵夫人を、
ここまで案内してきた
シュベリン宮の侍従は
廊下の突き当たりにある
エルナの病室を指差しました。
バーデン男爵夫人とグレベ夫人は
急いで扉の前に近づきました。
具合の悪い子供を
驚かせてはいけないのに、涙は、
止まる気配がありませんでした。
バーデン男爵夫人は、
涙声で孫娘の名前を呼びながら
病室の扉を開けました。
しかし、彼女は
数歩も踏み出せないまま
硬直してしまいました。
確かにエルナの病室だと聞いたのに、
一番最初に目に入ったのは
ベッドに横になっている
ビョルン王子だったからでした。
ひょっとして侍従が
勘違いをしたのではないかと
疑問に思った瞬間、彼女は、
王子の胸に抱かれたまま眠っている
愛する孫娘を発見しました。
「何てことでしょう」
バーデン男爵夫人は
涙で湿ったハンカチで
口を塞ぎながら後ずさりしました。
まるで放蕩者たちを燃やす
地獄の硫黄の炎に
向き合ったような顔でした。
彼女は、急いで
その忌まわしい光景から逃れました。
後になって状況を把握した
グレベ夫人も、十字を切って
男爵夫人の後を追いました。
再び扉が閉まると、
二人が眠った病室には
再び穏やかな静寂が訪れました。
離婚はなかったことになったという
噂が既成事実化する頃まで、
大公夫妻はぐっすり眠りました。
雪が止んだ、のどかな晩冬の午後。
カーテンの隙間から差し込んだ
一筋の光が、良い夢を見ているのか
安らかな表情の二人を照らしました。
列車事故は
不幸な出来事だったけれど、
そのおかげで、
自分の本当の気持ちを
知ることができたエルナとビョルン。
以前のような二人の会話が
戻って来て、
二人の間に穏やかな空気が流れ
ビョルンにそばにいて欲しいと
躊躇うことなく、
エルナが言えるようになって、
自然に寄り添えるようになった二人。
ハッピーエンドになることは
分かっていても、辛い話が長く続き
ハラハラし通しでしたが、
夫婦の絆を深められた二人を
見ることができて、
本当に良かったと思います。
バーデン男爵夫人には
刺激が強かったと思いますが、
愛する孫娘が
再び笑顔を見せるようになったので
寛大な心で許して欲しいです。
いよいよ、次回は本編最終話です。