176話 外伝23話 エルナとビョルンはバーデン家へ戻る途中です。
馬車の窓から
日が沈むのを眺めていたエルナは、
何度も薄っすらと笑みを浮かべながら
今日は、とても長い一日だった。
まるで、数日が
過ぎてしまったような気がする
一日だったと思いました。
赤ちゃんも
そうだったのだろうかと
エルナは質問するように
膨らんだお腹を撫でました。
バフォードに滞在している間に、
お腹が、随分、
大きくなったような気がしました。
おそらく、グレベ夫人が、
毎食、テーブルの上に
たくさん並べてくれる
料理のせいでした。
エルナは、
また動いてくれることを
期待して、お腹のあちこちを
指先で叩いてみました。
昨日の夜、
弱い胎動が感じられたのが
とても不思議で、
眠っているビョルンを
起こそうとしましたが、
その間に、子供は
再び静かになってしまいました。
「こんにちは、赤ちゃん」と囁いても
子供は答えませんでした。
その時、クスリと笑う声が
聞こえて来ました。
そちらへ顔を向けると、
眠そうな目を伏せている
ビョルンが見えました。
もう一度、
ため息をつくように笑った彼は、
いたずらっぽく優しい手つきで
エルナの頭を撫でました。
そして深呼吸を繰り返すと
何も言わずに再び目を閉じました。
酒の勢いに勝てなかったようでした。
「ビョルン」と名前を呼ぶと
彼は目を閉じたまま、
いつもよりずっと柔らかい声で
静かに返事をしました。
エルナは心配そうに
夫を見つめながら「大丈夫?」と
尋ねました。
ゆっくり頷くビョルンからは、
思わず顔を顰めるほど
濃い酒の匂いがしました。
エルナが、
今後は、お酒を
たくさん飲まないように。
葉巻も、もう少し減らしてと
小言を言っても、
ビョルンは、「うん」と
上の空で答えました。
エルナはため息をつくと、
自分の言うことを
真剣に聞いて欲しい。
赤ちゃんが、このような姿を見れば
父親をどう思うかと訴えると、
ビョルンは、
適当にごまかすかと思ったら
「バフォード最高の男」と、
意外な返事をしました。
一瞬、
言葉が詰まってしまったエルナは
呆れた表情で瞬きをしていましたが
その間にビョルンが目を開けました。
夜の光に照らされながら、
眉をつり上げて、そっと笑う
厚かましい男を見て、エルナは
笑ってはいけないと
自分を叱ってみましたが、
結局、我慢ができなくなり
笑いを爆発させてしまいました。
そうだろうと思ったかのように
ビョルンはクスクス笑いながら、
再び目を閉じました。
エルナは首を横に振りながらも
すべての祭りの賭け事を渡り歩いた
バフォード最高の男だと言って
笑いました。
飲み過ぎは良くないけれど、
今日は祭りの日だし、
妻と子供のための飲み過ぎだから
理解してやれないはずが
ありませんでした。
そして、あの花車のことを思い出すと
また、クスクス笑いました。
少し恥ずかしかったけど、幸せだった。
子供に、今日の祭りと花車の話を
聞かせる日を想像してみると、
その幸せは、
もう少し大きく膨らみました。
そして「あなたもそうよね?」と
質問するように
そっとお腹を撫でましたが、
本当に寝ているのか、今回も子供は
返事をしませんでした。
その時、軽い笑いを含んだ声で
ビョルンがエルナを呼びました。
彼女は返事をせずに、
彼の方を向きました。
彼はゆっくりと目を閉じて、
「愛している」と
だるそうに囁きました。
予想外の言葉に
呆然としているエルナを見つめながら
ビョルンは、
甘い声でもう一度囁きました。
その後、彼は、
すぐに眠ってしまいました。
少し赤くなった頬を触るエルナの口元に
恥ずかしそうな笑みが広がりました。
愛してるという一言が本当に高価な
この男は、お酒を飲むと、少し簡単に
言ってくれることに気づくと、
お酒が、とても悪いことばかりでは
ないという気がしました。
減らさなければならないけれど
完全に止めるように言うべきではない。
少し寛容になろうと決心した瞬間、
眠っているビョルンの頭が
彼女の肩にもたれかかりました。
エルナは喜んで肩を差し出し、
目を閉じました。
祭りが開かれていた広場いっぱいに
響き渡った歌の旋律を
子守唄のように口ずさむ唇には
満足そうな笑みが浮かんでいました。
エルナをよく食べさせようと、
腕を磨いて来たグレベ夫人が
総力を尽くしてくれたおかげで
バーデン家で過ごす最後の夜の食卓は
まさに盛大でした。
ビョルンは、
今回の収穫祭の景品で得た
ワインのグラスを握ったまま、
夕食の食卓の風景を眺めました。
いつものように客は彼らだけでしたが
バーデン男爵夫人は、
晩餐会にふさわしい
格式のある食器と燭台を出し、
大事にしている夜用のドレスを
着ていました。
そこに付けられている
ブローチとコサージュは
彼女が一番好きな装飾で、
エルナの趣向の根源が
分かりそうな姿を、ビョルンは
とても気に入っていました。
主にエルナと男爵夫人が話をし
ビョルンは淡々とした目で
彼らを見守りました。
最初の数日間は、
母親になる孫娘のことが心配で
戦々恐々としていましたが、
今は一段と安心している様子でした。
エルナも余裕のある笑顔で
祖母を安心させました。
絶えまなく食べ物を出してくる
乳母を止めるために、
エルナが台所へ行くと、ビョルンは
ずっと舌先でウロウロしていた
男爵夫人へのお礼の言葉を
伝えました。
そして、
ワイングラスを置いたビョルンは
まっすぐな姿勢で彼女と向き合い、
自分を許し、信じ、
再びエルナの夫として生きる機会を
与えてくれた男爵夫人に
いつも感謝していると伝えました。
男爵夫人は、
この人里離れた家に閉じ込めてしまった
可愛そうな子供に
新しい世界を開いてくれた大公に
むしろ大きな借りを作ってしまったと
言うと、
昨冬のことを知らない人のように
慈しみ深い笑みを浮かべました。
過ちを覆い隠そうとする老婦人の
慈しみ深い気持ちが分かるようで
ビョルンは、それ以上、
そのことを話しませんでした。
ビョルンは、
遠くにいる孫娘を、
いつも切ない思いで心配している
バーデン男爵夫人に、エルナの出産まで
大公邸に滞在することを
真心を込めて丁重に提案しましたが
いつものように生真面目な彼女は、
自分は、エルナの新しい人生から
できるだけ遠く、
かすかな存在であり続けることが
まもなく去ることになる自分が
エルナにあげられる
最後のプレゼントだと思うと、
穏やかだけれど、断固とした態度で
拒絶の意思を伝えました。
そして、自分は、まだ欲張りなので
大公とエルナの子供も
見なければならないし、
その子が歩けるようになり、
自分を「おばあ様」と
呼んでくれるその日も
楽しみにしているけれど、
永遠に生きることはできないので
いつか、その日が来た時、
自分がいなくなったことへの
エルナの空白感が、
あまりにも大きく鮮明でないことを
願うだけだと、
温かい笑みを浮かべた顔で
落ち着いて話を続けました。
バーデン男爵夫人を
じっと見ていたビョルンは、
その言葉の意味を理解するというように
頷きました。
それでも、ビョルンは、
子供が生まれる頃には、
シュベリン宮へ来て欲しい。
エルナも祖母が来るのを
待っていると言いました。
もちろんそうする。
自分は、毎日のように
二人の子供だけを待っている。
息子なのか、娘なのか。
どれだけ、きれいで愛らしいか。
一日に数十回も
その顔を思い描いていると言って
にっこり笑うバーデン男爵夫人の顔は
愛する孫娘とそっくりでした。
男爵夫人は、
父親の予想が気になると言って
ビョルンの考えを聞きました。
ビョルンは、
薄っすらと笑みを浮かべながら
自分の予想は、
一日に何度も気まぐれを起こすので
信じられるものではないけれど、
子供が母親に似て、
この世で一番きれいな茶髪を持って
生まれることを願う気持ちは、
最初から今まで
一度も変わったことがない。
そして、その子が
茶色の髪を愛して生きていけるように
あなたの茶髪が本当にきれいだと、
他の何者でもある必要がなく、
ただ、あなたであるだけで完璧で
そのような、あなたを愛してると
必ず伝えると、抑揚のない声で
淡々と話し続けました。
あまりにも感傷的ではあるけれど
幼い孫娘にかけられなかった
その言葉が、胸の奥深くに
悔恨として残っているという
バーデン男爵夫人の心が
一層軽くなるように
必ず彼女に聞かせたかった言葉でした。
バーデン男爵夫人は
何の返事もすることなく
彼を見つめていましたが、
その青い瞳に涙が溢れた頃、
ようやく乳母を止めることができた
エルナが戻って来ました。
バーデン男爵の頬に流れる
涙を見たエルナはびっくりして
どうしたのかと尋ねました。
バーデン男爵は
大したことないと返事をすると
慌ててハンカチを取り出して
涙を拭いました
途方に暮れたエルナは、
当惑した顔でビョルンを見て、
これは一体どういうことなのかと
尋ねました。
二人の間に
何かあったには違いないけれど、
ビョルンは、ただ、のんびり
笑っているだけでした。
そのビョルンが
エルナの悪口を少し言っていたと
とんでもない返事をすると彼女は、
眉を顰めました。
彼とバーデン男爵夫人は
同時に笑い出しました。
エルナは、
ますます訳がわからなくなりました。
信じていた祖母まで、大公と一緒に
エルナの悪口を言っていたと
不可解なことを言いましたが、
涙に濡れた目をしても
彼女は明るく笑っていて、
驚いたことに、
とても幸せそうな顔でした。
以前、バーデン男爵夫人が
ビョルンだけに打ち明けた
エルナへの悔恨。
ビョルンは、その辛い気持ちを
楽にするためだけではなく、
自分だけ茶髪であることを
悩んでいるエルナが、
生まれた子供の髪が金髪だった時に
再び疎外感を覚えないように
自分の子供が茶髪であることを
願っていると言ったのではないかと
思いました。
ビョルンの優しさに涙がこぼれました。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
いよいよ11月。
ハロウィンが終わると
今度はクリスマス、そして年末と
あっという間に一年が
終わりそうです。
少しずつ、寒くなってきましたが
体調を崩されないよう、
お体をご自愛ください。