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146話 ビョルンはエルナに、本心を全てさらけ出しました。
バーデン家の敷居を越える時まで
呑気だった村の医者は、
自分が診なければならない患者が
誰なのか分かると、真っ青になり
おどおどし始めました。
ベッドに横たわっている患者よりも、
医師の顔色が悪く見えるほどでした。
寒い天気なのに、汗をだらだら流し、
しゃっくりまでしていた彼が
数年分は老けたように
憔悴した姿で帰って行くと、
深い静寂が、寝室を包み込みました。
田舎町の医者の魂を奪った
レチェンの王子は、だるそうに
ベッドのヘッドボードに頭をもたれて
目を閉じていました。
エルナは窓のそばに立って
彼を見ていました。
ビョルンの体調が悪いことを知ったのは
今朝でした。
医者を呼ぶべきだと言う侍従の顔色は
とても暗くなっていました。
平穏だったバーデン家の朝が
ひっくり返りました。
驚いたバーデン男爵夫人は、
慌てて御者を町の病院に行かせました。
すぐに台所へ駆けつけたグレベ夫人は
鶏肉のスープを作り始め、
他の使用人たちも、
患者に必要なものを用意するために
忙しく家の中を行き来しました。
エルナは気持ちが決まらないまま、
騒がしくなった家の中を
うろうろしていました。
あのような吹雪の中を
やって来たのだから、
風邪を引くのも
無理はありませんでした。
そういえば、
雪だるまを作った昨日の午後から
かなり高い熱があったような
気がしました。
その記憶を思い出すと、
エルナは、さらに困惑しました。
病気の人に知らんぷりするのも
おかしな話だけれど、
平然とビョルンの顔に
向き合う気にもなれませんでした。
しかし、そんなエルナの背中を、
窓の外に立っている
葉巻をくわえた大きな雪だるまと
花をつけた雪だるまと、
2つの雪だるまの間に立っている
ビョルンが作ってくれた
赤ちゃんデナイスタである
小さな雪だるまが押してくれました。
使用人たちが皆退き、扉が閉まると
エルナは、
もう横になってと、
長い間、言うかどうか悩んでいた
最初の一言を発しました。
ビョルンは、ようやく目を開け、
エルナを見ました。
何の返事もせず、
静かなため息をついたビョルンは、
ベッドの横にある
サイドテーブルに置かれた水を
一口飲んだ後、
ゆっくりと体を横にしました。
躊躇いながら近づいたエルナは、
ぎこちない手で枕を整え、
布団を引き上げました。
息づかいだけでも、
彼の熱がかなり高いことが
はっきりと感じられました。
本当に色々と自分を困らせると
エルナは尖った言葉を投げかけながら
ベッドの横に置かれた椅子に
座りました。
ビョルンは、
目を細めて彼女を見つめると、
ため息のような笑みを浮かべました。
ビョルンは、
これを機会に、離婚してくれない夫を
片づけてしまえばいいのではないか。
自分が死んだら、
遺産は全てエルナのものだ。
慰謝料よりいいではないかと
とんでもない冗談を言うと、
くすくす笑いました。
呆れた表情をしていたエルナは、
遅ればせながら、カッとなり
彼の腕を叩きました。
思ったよりも
大きな力を入れたせいで、
叩いた手がひりひりしましたが、
後悔はしませんでした。
しばらく、二人は
無言で互いを見つめました。
そして、
どちらが先だということもなく、
そっと目を背けました。
患者のために火力を上げておいた
ストーブのせいか、
部屋の中の空気が
とても息苦しく感じました。
エルナは勇気を出して、
「もし必要なものがあれば・・・」
と言いましたが、
最後まで言い終える前に、ビョルンは
「出て行きなさい」と、淡々と、
拒絶の言葉を投げかけました。
驚いたエルナは目を見開きました。
ビョルンは、
恋愛してくれるのでなければ
出て行くようにと、
だるそうな声で囁くと
体を横に向けて目を閉じました。
エルナは当惑しながら
彼の背中を見つめました。
瞬きを何度かするほどの時間が
経ってから、
自分が拒絶されたことに気づきました。
パクパクさせていた唇を
固く閉じたエルナは、
その場から立ち上がりました。
熱のせいで、荒い息を吐く
彼の額と髪の毛は、
汗でびしょびしょになっていました。
エルナは、メイドが持って来た
たらいと濡れタオルを
苦心して見つけましたが
結局、そこに手を伸ばすことは
できませんでした。
今はすべてが混乱し、
漠然としているので、
何一つ明確に判断することが
難しい状態でした。
エルナは厚いカーテンで日光を遮り
部屋を出ました。
静かにドアを閉めて振り向くと、
我慢していた、ため息が漏れました。
床の模様を見ながら
廊下を歩いていたエルナは、
ビョルンに随行している侍従に
「妃殿下」と声を掛けられ
驚いて顔を上げました。
エルナは彼の挨拶を
黙礼で受け入れました。
そして、エルナが
再び歩き出そうとした瞬間、侍従は、
王子が大公妃のことを
たくさん考えていると、
緊迫した様子で
言葉をかけて来ました。
侍従は、
王子が、もう、ここに
1週間も滞在できず
再び去らなければならないことを
知りながらも、ここへ
少しでも早く帰るために、
シュベリンでの日程を無理に消化した。
だから、もう少し王子のそばに
いてもらえないかと、
普段とは違う姿を見せながら、
もう一度深く頭を下げました。
そして、侍従は、
こんなことを言う資格がないのは
分かっているけれど、
あえてお願いしていると告げました。
物思いに耽った顔をしていたエルナは
すぐに、またシュベリンに
行かなければならないのかと
尋ねました。
微かな希望を見いだした侍従は、
熱心に頷くと、
遅くとも次の月曜日までには
シュベリンに戻らなければならない。
これまでは、
旅行の準備をしながら
あらかじめ日程を調整しておいたので
ここでも業務を
行うことができたけれど
今は、これ以上先送りできない
銀行と王室の仕事が多く、
これ以上、バフォードに
長期間滞在することは難しいと
答えました。
エルナは眉を顰めながら
「旅行って?」と聞き返しました。
一歩遅れて、
失言をしたことに気づいた
侍従の顔の上に、
狼狽の色が浮かび上がりましたが、
王子が大公妃の誕生日に合わせて
二回目の新婚旅行を準備していた。
暖かい南の国へ行く予定だったけれど、
急にバフォードへ来ることになり、
その日程は無効になったと
ギュッと閉じていた目を開けて
真実を打ち明けました。
新婚旅行という
とんでもない言葉を
繰り返していたエルナは、
ついニヤリと笑ってしまいました。
自分が離婚届を準備している時、
彼は、そんな、とんでもないことを
していたなんて、
本当に自分勝手で傲慢な男でした。
エルナの顔色を窺っていた侍従は、
再び、もう少し懇願するような口調で
「妃殿下」とエルナを呼びました。
エルナは、
複雑な感情が入り混じった
ため息をつきながら
振り返りました。
廊下の突き当たりにある窓から
差し込む光は、ビョルンに似た
明るい白金色をしていました。

夢を見ました。
目を覚ました瞬間、
消えてしまった夢でしたが、
その残像が、
とても温かみのある光のように
残っていました。
ビョルンは既視感に襲われ、
目を開きました。
もう見慣れた天井が
最初に視界に入って来ました。
ビョルンが、息を整えている間に、
今、起こそうとしていたのだけれど
ちょうど起きたと、
意外な声が聞こえて来ました。
ビョルンはしかめっ面をして、
ベッドの横に置かれた椅子に座っている
エルナを見つめました。
確か、彼女が出て行く後ろ姿を
確認した後に、
眠ってしまったようだけれど、
エルナは、いつのまにか
再び、その場に戻っていました。
彼と目が合ったエルナは、
食事をするようにと
声をかけました。
ビョルンは、
恋愛をするのかと尋ねました。
エルナが否定すると、
ビョルンは、
それでは出て行くようにと言って
深いため息をつき、起き上がりました。
薬を飲んで、ぐっすり寝たおかげで
熱は少し下がりましたが、
相変わらず体は重いままでした。
どれほど酷い恰好をしているかは
あえて鏡を見なくても
いくらでも見当がつきました。
エルナは
何も聞いていない人のように
食事をしてと、
同じ言葉を繰り返しました。
ビョルンは、
置いて行くようにと告げると、
エルナは「嫌です」と
断固として返事をし、
握っていたハンカチを置いて、
椅子から立ち上がりました。
ぼんやりと
その姿を見ていたビョルンは、
一歩遅れて、自分の体が
きれいに拭かれているという事実に
気づきました。
ビョルンは、
恋愛もしてくれないのに、
どうして、
こういうことをするのかと尋ねると、
少し、苛立ちのこもった目で、
スープと白いパンを乗せた
お盆を運んできたエルナを
見つめました。
エルナは、
自分も好きなようにしようと思う。
あなたも、あなたの好きなように
行動しているからと淡々と答えると、
ベッドの片側に慎重にお盆を置き
「食事をしてください」と
さらに断固とした口調で
繰り返しました。
壁になった鹿を見つめていた
ビョルンのため息が
静寂の中に染み込みました。
諦めたビョルンは、
「それでは服からください」と
頼むと、背筋を伸ばして座りました。
布団が胸の下まで滑り落ちると、
何も着ていない上半身が現れました。
ビョルンは、
見ての通り、妃のせいで
困った姿になっていると言いました。
エルナは、
あなたが一番好きな姿だと
思っていたからと鋭い口調で
言いましたが、エルナは素直に、
新しいパジャマを渡しました。
近くで見ると、
頬が少し赤くなっていました。
ビョルンはクスッと笑うと
裸の肩の上に
パジャマを羽織りました。
スプーンを握る彼を見ていたエルナが
ズボンには触れていないので
ご心配なくと、一言付け加えました。
ビョルンは、
実に大きな慰めになると
返事をして、クスクス笑うと、
エルナの口元も僅かに上がりました。
すぐに表情を硬くしましたが、
一瞬だけ残った、その微笑みの残像が
鮮明に心に残りました。
食欲はなかったものの、
ビョルンは黙々と食事を進めました。
エルナはベッドの近くに座って
彼を監視しました。
突き刺すような視線に、
顔がヒリヒリしそうでした。
味が感じられないスープの器を
半分ほど空にした頃、
一つ気になることがあると
エルナが口を開きました。
ビョルンは淡々と頷き
エルナに話すよう促しました。
エルナは、
鈴蘭のことだけれど、
嫌な記憶があるせいで
捨てるほど、嫌いだったのでしょう?
と予期せぬ質問を投げかけて来ました。
無理にスープを飲み込んだビョルンは
今回も、あっさりと頷き
「ああ、そうだった」と
返事をしました。
エルナは、
それなのに、
なぜ自分の見舞いに来た時に
あの花を買って来たのかと尋ねました。
ビョルンは
「見舞い?」と聞き返しました。
エルナは、
自分が王子様のタウンハウスに
世話になっていた時、鈴蘭を持って、
自分を訪ねて来たではないかと
答えました。
エルナが言及したことを思い出した
ビョルンは、
口元に曖昧な笑みを浮かべながら
「ああ、あれ」と返事をしました。
雑誌を売っていた行商の老婆が、
おまけにくれた花でした。
紳士から花を贈られたのは
初めてだと言って喜んでいた
エルナのことが思い浮かぶと、
改めて自責の念に苛まれました。
息を殺して答えを待っていた
エルナは、眉を顰めながら、
まさか、あなたが買ってくれた
贈り物ではなかったのかと
尋ねました。
そして、沈黙の意味を理解した
エルナは、
「何てことでしょう」と呟くと
深くため息をつきました。
彼女は、
あの頃のビョルン・デナイスタは、
本当に誠実さの欠片もない
男だったと非難しました。
水で唇を濡らしたビョルンは、
神の祝福が共にあるだろうと
言われたと、
突飛な言葉を口にしました。
エルナは疑問を示すように、
小さく首を傾けながら、
それはどういう意味なのかと
尋ねました。
ビョルンは、
その花をくれた老婆の言葉だと
答えました。
エルナは
「お婆さん?」と聞き返しました。
ビョルンは、
街で雑誌を売っていた老婆が
お釣りを受け取らなかった
お礼にくれた花だったと
淡々と、あの贈り物の真実を
白状しました。
思いも寄らない出所に戸惑った
エルナの目が丸くなりました。
あまりに呆れてしまって、
力なく笑ってしまいました。
じっとエルナを見つめていた
ビョルンは、
その花を受け取った日に、
結婚しろという
国王陛下の命令を受けたので、
神の祝福とは、
まさに妃だったのではないかと思うと
よくもまあ図々しい詭弁を
並べ立てました。
エルナは、
神の祝福を、そんなにも軽んじたのかと
尋ねました。
ビョルンは、
だから、こんな屈辱を受けながら
神からの罰を
受けているではないかと答えると
熱っぽいため息をつきながら
ふっと笑いました。
自分の姿を見つめる
その眼差しからは、
隠すことができない自嘲の色が
滲んでいました。
こうなると分かっていたら、
ズボンも脱がせてしまえば
良かったと、
意地悪な後悔をしましたが、
エルナは、
それを表に出しませんでした。
とにかく、彼はまだ病人だから。
盆を片付けるエルナを
見つめていた彼は、
がっかりさせて申し訳ない。
次は、自分で買った花をあげると
小声で囁きました。
しかし、エルナは
いいえ、その必要はないと
きっぱりと首を横に振り、
彼の視線を避けました。
まもなく、呼び鈴を鳴らす音が
寝室いっぱいに響き渡りました。
空の食器を片づけたメイドが退くと
寝室は再び静まり返りました。
目的を達成したエルナは、
ようやくベッドから離れて窓に近づき、
カーテンを開けました。
クッションに、
もたれかかったビョルンは、
窓から差し込む夕日で
バラ色に染まった妻の後ろ姿を
見つめました。
視線を合わせなかったので、
初めて心が安らかになりました。
自分の心の底を
丸出しにした相手に向き合う気持ちは
かなり照れくさかったからでした。
以前には、なかったことなので、
一体、どんな風に
この感情に向き合えばいいのか、
きちんとした判断を下すことが
できませんでした。
しばらく日が沈む空を
凝視していたエルナの視線は
ゆっくりと下を向き、
ある一つの地点で
釘付けになるように止まりました。
見なくても、そこがどこなのか
分かるような気がしました。
ビョルンは静かにベッドから降り、
ガウンを羽織りました。
まだ回復していない体が
ズキズキしましたが、
体を動かすのが難しいほどでは
ありませんでした。
窓際に近づいて来る彼を見た
エルナは、厳しい目つきをして、
休んでいるようにと言いました。
ビョルンは、にっこり笑って
窓枠にもたれかかると、
この程度で、
遺産を相続することはないと思うので、
安心してと、
軽い冗談を言いましたが、
窓の下を見下ろす彼の目つきは
深くて静かでした。
訝しそうな顔をしていましたが、
エルナは、これ以上、
無理強いしませんでした。
窓の両端に立ったまま、
庭を見下ろす二人の間に
差し込む夕日は、ますます
赤い色を帯びていきました。
バラ色に染まった3つの雪だるまが
闇の中に消えると、
ビョルンは低い声で、
エルナの名前を囁きました。
首を回して彼を見るエルナの瞳は、
これ以上、涙を流すことなく、
光を放っていました。
適当な言葉を見つけられなかった
ビョルンは、ただ、じっと
その目を見つめるだけでした。
エルナも、淡々と彼の視線を
受け入れました。
結局、先に視線を避けたのは
ビョルンでした。
これは本当におかしな気分でした。
まるで、
裸になったような気分というか、
いや、裸になって
ありとあらゆることをする時にも
感じたことのない気分なので、
そのような比喩も
適当ではなさそうでした。
エルナは、
休むようにと、
再び同じ命令を繰り返すことで
ビョルンの考えを強調しました。
闇が濃くなると、部屋の明かりが
まっすぐな姿勢で立って、
彼をじっと見つめるエルナを
照らしました。
虚しいため息をついたビョルンは、
素直にエルナに従い
ベッドに向かいました。
この気分は、
裸になった以上のものだと、
彼は確信することができました。
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143話と145話に
伏線が張られていましたが、
やはり、ビョルンは
熱を出してしまいました。
ビョルンにとっては災難ですが
彼も、そう思ったように
心の奥底に隠していたものを
二人でさらけ出し合った後に、
顔を合わせるのは、照れくさいし、
気恥ずかしいでしょうから、
病人と看護人という立場で
二人が接するのは
良いことなのではないかと思います。
そして、侍従の言葉で、
かなりエルナは動揺していると
思います。
生まれ変わったようなビョルンに
今、エルナは、
戸惑っているのかもしれませんし
まだ、自分の気持ちの整理が
ついていないのではないかと
思います。
けれども、あと、もう一押しで
エルナを包んでいた殻が
完全に壊れそうな気がします。
ところで、ビョルンの言う
裸になった時以上のものって、
今までとは違った形で
エルナを愛するようになったと
いうことなのでしょうか。
もし、そうであれば、
フィツ夫人の言う通り、
二度と、ビョルンは
エルナのように愛せる女性を
見つけることはできないでしょうから
絶対にエルナを逃がしてはならないと
思いますし、
ビョルンに、一世一代の恋を
かなえて欲しいと思います。
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