699話 シピサと出かけようとしたラティルは、乳母から皇女の具合が悪いと聞かされました。
◇興味を持って欲しい◇
約束の時間が迫っていました。
よりによって、やるべきことが
同時に重なってしまい
ラティルは困ってしまいました。
侍女たちが焦りながら
近づいて来ました。
ラティルは再び時計を見ながら
ゲスターは?
と尋ねました
乳母は当惑した声で、
部屋にいるのではないかと
答えました。
ラティルは部屋の外に出て
廊下を早足で歩きながら
宮医は?
と尋ねました。
もう呼んだと乳母は答えました。
せっかちなラティルは
乳母の腕を軽く叩き、
先に行くと告げると、
スピードを上げて走り出しました。
ラティルは、
ゲスターの部屋に到着すると
すぐにトゥーリに
ゲスターは?
と尋ねましたが、
よりによって今日に限って
ゲスターは留守でした。
少し出かけていると言うトゥーリに
ラティルは、
ゲスターがどこへ行って
いつ帰って来るのか尋ねましたが
トゥーリは、
ただ散歩に行くと言って出かけたので
自分もよく分からないと
面食らった顔で答えました。
ラティルは額を手で押さえました。
頭がおかしくなりそうでした。
ラティルはゲスターに
ザイシンを連れて来てもらおうと
考えていましたが、彼の散歩は
あまりにも範囲が広すぎました。
ラティルは懐中時計を取り出して
時間を確認しました。
シピサとの
約束の時刻になっていました。
トゥーリは、
皇帝が来たことをゲスターに
伝えようかと言いましたが、
ラティルは
トゥーリの言うことを聞かずに
飛び出して行きました。
待ち合わせの場所に行くと、
門の前でうろうろしている
シピサが見えました。
ギルゴールの姿は見えませんでした。
シピサはラティルを見つけると、
すぐに顔が明るくなりました。
ラティルは、
すぐに自分の前にやって来た
シピサの明るい表情を見ると
心臓が小太鼓のように鳴りました。
ラティルは、
シピサに申し訳ないと思いながら
今、皇女の具合がとても悪いことを
伝えました。
シピサは、
それなら、皇女の所へ行ってみてと
言いました。
ラティルは、
ザイシンを見つけたら、
すぐに治療できるので、
30分だけ待ってくれないかと
頼みました。
シピサは、
唇をピクピクさせながら頷き、
30分くらいなら平気なので
待っていると返事をしました。
ラティルはシピサに謝ると、
彼は、皇帝のせいではないと
慰めました。
ラティルはシピサの肩を叩くと
ラナムンの部屋へ向かって
再び走り出しました。
ラティルは、
突然、扉を開けて中へ入ると
皇女の様子を聞きました。
ゆりかごを囲んで、
ラナムンと宮医、
クライン、タッシールなど、
今すぐ役に立たない人々だけが
集まっていました。
宮医はラティルに挨拶をした後、
皇女に薬を飲ませたけれど
熱が下がらないと報告しました。
ラティルは
そんなに具合が悪いのかと尋ね、
ゆりかごの中を見下ろしました。
皇女の顔が真っ赤になっていて、
グズグズ言いながら、
頭をあちこち動かし続けていました。
宮医は、
熱がかなり上がっていると告げると、
ラティルは解熱剤を
もっと飲ませることはできないのかと
尋ねました。
宮医は、
まだ幼いので、これ以上、
薬を使うことができないと答えました。
ラティルは、
赤ちゃんのふっくらとした頬を
撫でて眉を顰めました。
赤ちゃんの額と首筋が
汗びっしょりになっていました。
宮医は、
ラティルの顔色を窺いながら
薬の代わりに使える食材を
見て来ると言って、退きました。
宮医がいなくなるや否や、
ラティルは、
すぐにカルレインのことを
尋ねました。
ゲスターがいなければ、
カルレインを走らせてでも
ザイシンを背負って
連れて来なければなりませんでした。
タッシールは、
すでに大神官を迎えに行ったと
答えましたが、いつもと違って、
笑いのない声だったので、
ラティルはラナムンを見ました。
彼は口をギュッと閉じて、
皇女だけを見つめていました。
何だか話しかけにくい表情でした。
それでも、ラティルは、
どうして、
こんなことになったのかと尋ねると
ラナムンは目を合わせずに、
分からない、 急にこうなったと
答えました。
ラティルは、
もしかして自分の意図を、
ラナムンが
誤解したのではないかと思い、
ラナムンを責めたわけではないと
すぐに付け加えました。
ラナムンは、
今度もラティルを見ないで、
分かっていると言いました。
ラティルは、ラナムンが
少し怒っているような気がして、
ラナムンをチラッと見た後、
タッシールを見ました。
彼と目が合うと、タッシールは
首を軽く横に振りました。
黙っていた方がいいという
意味なのか。
タッシールが見ても
ラナムンが怒っているように
見えるのだろうかと考えていると、
赤ちゃんが、突然、
激しく泣き出したので、
ラティルは考えるのを止めて、
ゆりかごの中に手を伸ばしました。
皇女を抱きしめようと
手を伸ばした後、ラティルは、
赤ちゃんを抱く方法も
知らないことに気づきました。
ほぼ同じレベルだったラナムンは
育児の専門家になりつつあるのに、
ラティルはその場に
留まったままでした。
ラティルが腕を伸ばしたまま
躊躇っていると、
クラインは、訳もなく体を傾けました。
幸いなことに、扉が開いて
宮医が入って来ると、
自分が見ると言って、
宮医は勝手に皇女を抱き上げました。
宮医が上手に皇女をあやしている間、
ラティルは揺りかごを
ギュッと握っていました。
その時、扉がぱっと開き、
大神官を連れて来たと言いながら
カルレインが現れました。
彼の背中には、
ザイシンがおんぶされていました。
宮医は目を見開いて、
カルレインとザイシンを
交互に見ました。
ラティルは、
よくやったとカルレインを労うと
彼はラティルに頭を下げました。
それから、ラティルは
急いでザイシンを呼び、
皇女の治療を頼みました。
ザイシンは宮医の前に近づき、
皇女をのぞき込みました。
皇女様、随分具合が悪そうですね。
と優しい声で呟くザイシンに
宮医は素直に赤ちゃんを渡しました。
ザイシンは赤ちゃんを
上手に抱き締めました。
彼の腕の筋肉は
赤ちゃんと同じくらい大きいけれど
赤ちゃんは居心地が悪そうに
見えませんでした。
ザイシンは赤ちゃんを抱き締めながら
片手で軽く撫でました。
何度かそうしているうちに、
真っ赤になっていた皇女の顔が、
だんだん、いつもの顔色に
戻っていくのが見えました
ラティルは
大丈夫かと急いで尋ねました。
ザイシンは、
そうだと思うと
自信満々に答えながらも、
宮医に大丈夫かと尋ねてから
ゆりかごに赤ちゃんを寝かせました。
宮医は診察をした後、
熱は確かに下がり、
呼吸も良くなったと伝えました。
ようやく、ラティルは安心しました。
念のため、2時間後に
また来るという言葉を残して
宮医は立ち去り、クラインも、
ザイシンが来たから大丈夫だと言って
出て行き、
タッシールとカルレインまで出て行くと
ラティルは、ゆりかごに両手を乗せて
息を整えました。
ラティルは、
赤ちゃんが、こんなに急に
具合が悪くなるとは思わなかったので
本当にびっくりしたと言った後、
すぐに頭を上げて、
ラナムンは大丈夫かと尋ねました。
彼は、自分が病気なわけではないので
大丈夫だと答えましたが、
依然として冷たい声をしていました。
ラティルは困惑しました。
やはりラナムンは、自分に
怒っているような気がしたので、
どうしたのかと聞いてみようか。
それとも、分かったと言って、
知らんぷりをしようかと
しばらく迷いました。
結局、ラティルは、
皇女の具合が悪いせいで、
ラナムンが、そのような態度を
取っているのかもしれないけれど、
もしかして自分に
怒っていることがあるのかと
尋ねました。
ラナムンは、
そんなはずがないと答えました。
しかし、ラティルは、
それにしては、ラナムンが
怒っているように見えると反論すると
ラナムンは、
大したことではない。
ただ皇帝が、皇女に対して
とても無関心だと思っただけだと
返事をしました。
やはりラナムンは怒っていると
思ったラティルは
ラナムンの腕を叩いて謝りました。
しかし、彼は、
謝る必要はない。
皇帝が皇女を嫌う気持ちを
理解できると言って、
皇女の髪の毛を撫でました。
その時、ラティルは
ラナムンの手の甲に、
いくつかの傷を発見しました。
治りかけの傷のようでした。
ラティルは、
その傷について指摘すると、
ラナムンは何でもないと
返事をしました。
それから彼は
袖を下ろして傷を隠し、
皇女に伸ばした腕を
引っ込めました。
ラティルには、その態度が
かえって変に思われたので、
どうして話してくれないのか。
何でもないようには見えないと
ラナムンを問い詰めましたが、
彼は、本当に大丈夫だと
答えました。
それでも、ラティルは
ラナムンの傷のことを気にしていると、
彼は、ラティルに
もう少し皇女に興味を持って欲しいと
頼みました。
その言葉にラティルが驚いていると、
ラナムンは
皇帝が皇女を嫌がっているのは
心から理解できる。
皇女のことが好きでなくても構わない。
しかし、しばらくすれば
皇女も知恵がついて来て、
人見知りをするようになるだろう。
心が伴わなくてもいいので、
気遣うふりだけでもしてくれると
嬉しいと、早口で打ち明けました。
しかし、余計なことを
言ってしまったと
後悔している顔をしました。
ラティルは、ぼんやりと
彼の横顔を見つめました。
ラナムンは、
もっと言いたいことが
ありそうでしたが、
それ以上は口にせず、
赤ちゃんを撫でるだけでした。
ラティルはラナムンと
もっと話そうとしましたが、
時計を見たところ、
シピサに30分だけ待ってと言ったのに
いつの間にか35分が過ぎていました。
ラナムンは、
どうしたのかと尋ねました。
ラティルは言葉に詰まりました。
病気の皇女を心配しているラナムンに
シピサと遊びに行くことになっていて
その約束の時刻になったと話すのは
大変でした。
しかし、シピサは
ラティルを30分以上待っていました。
すると、ラナムンは
約束があるようだと指摘しました。
ラティルは、
シピサと出かけることになっていると
打ち明けました。
その言葉に、
ラナムンが黙っていると、ラティルは
皇女が病気になる前に約束したと
言い訳をしました。
皇女とは、
そんな約束をしたこともないくせにと
ラナムンは思いましたが、
文句を言うことなく、顔を背けました。
ラティルは、
ヒュアツィンテから
アイニを庇う手紙を受け取った時以上に
苦しくなりました。
ラティルは、
ゆりかごを見下ろしているラナムンと
眠りかけている皇女を
交互に見ました。
◇出かけられない◇
ラティルが近づくと、
ギルゴールと並んで立ち、
ぎこちなく正面だけを
見ていたシピサは、
陛下、お待ちしておりました。
と言って
素早く走って来ました。
興奮し過ぎて手に負えなさそうな
その態度を見て、
ラティルは動揺しました。
ギルゴールがシピサの後ろから
ニコニコした顔で現れると
なおさら、そうでした。
しかし、ラティルは、
少し前に皇女が回復したといえ、
治ったから、もう大丈夫だと言って
外へ遊びに出かけるのは
気が引けました。
ラティルは、
シピサには本当に申し訳ないけれど
ひどく具合の悪かった皇女が
少し良くなったとはいえ、
自分がそばにいる必要があると思うと
打ち明けました。
すると、耳まで上がっていた
シピサの口が
また下りてきました。
ああ。
シピサは呆然とした表情で
意味不明の嘆声を吐きました。
ラティルは、
本当に具合が悪かったからと
言い訳をし、シピサに、
また今度、遊ぶのでもいいだろうか。
皇女は、ほとんど良くなったけれど、
それでも念のため
様子を見たいと思うと話しました。
シピサは、
大丈夫。
具合が悪いのなら仕方がないと
頭を下げて、慌てて答えました。
ラティルはシピサにお礼を言うと、
彼の腕を2、3回叩いた後、
急いで背を向けました。
シピサは遠ざかる母親の後ろ姿を
ぼんやりと見つめました。
彼は、瞬きさえしませんでした。
ギルゴールはそれを見て
シピサの腕に手を置くと、彼は、
自分が恥ずかしい。
母親は皇女の母親なので、
自分は後回しにされても
仕方がないけれど、
やはり寂しいと言うや否や
シピサの目から涙が一滴落ちました。
ギルゴールは躊躇いながらも
手を伸ばして
子供の涙を拭いました。
子供がじっとしていると、
ギルゴールは
ゆっくりと両腕を伸ばして
子供を抱きしめました。
そして、自分がは永遠に
シピサの父親で、
皇女よりシピサを優先すると
告げました。
ギルゴールは、
シピサが自分を押し退けると
思いましたが、
彼は逃げることなく
じっとしていました。
しかし、それもつかの間。
シピサの従順な態度に、
むしろギルゴールの方が
焦っている頃、
シピサはギルゴールを押し退けて
他の所へ走って行きました。
ギルゴールは後を追わず、
自分の胸を見下ろしました。
子供が
おとなしく抱かれていた時に、
しわくちゃになった服が
目に入りました。
ギルゴールは、
しばらく動けませんでした。
◇急報◇
ラナムンは皇帝が来ないと
思っていたので、寂しそうに
皇女の頭を撫でていましたが、
皇女の様子を聞きながら、
ラティルが中へ入ってくると、
自分でも知らないうちに
ラティルに駆け寄ってしまいました。
ラティルは、
ラナムンが突然目の前に現れ、
自分を見下ろすと、
びくっとして後ろに下がりました。
ラティルは、
また具合が悪いのかと尋ねましたが
ラナムンは返事の代わりに
ラティルを見下ろすだけでした。
彼女は彼を呼びながら、
ラナムンの片方の頬に手を触れ、
彼の顔色を窺いました。
皇女の具合が悪いのでは
なさそうでした。
ラティルはラナムンに
怒りが収まったかと尋ねました。
ラナムンは怒っている様子はなく
自分の頬に触れている
ラティルの手の上に
自分の手を重ねると、
ラティルの手のひらにキスをし、
皇帝が来てくれて嬉しいと
言いました。
その時、誰かが慌てて扉を叩き、
ラティルを呼びました。
最初にラティルが
待ち合わせの場所に行った時点で
皇女の具合が悪いので、
出かけるのは、
また次の機会にしようと
シピサに伝えていれば、
彼の悲しみの度合いは
少し弱くて済んだかもしれません。
それなのに、ラティルは
シピサを30分以上も待たせ、
彼に期待させた挙句、
やはり行けないと言うなんて、
あまりにも酷いと思います。
せめてもの救いは、
シピサが少しだけギルゴールを
受け入れることができたことでした。
ラティルよりも
ゲスターとメラディム以外の
側室たちの方が、
皇女のことを気にかけている現実を
母親としての務めを
何も果たしていないラティルは
恥じるべきだと思います。
それでも、今回のことで
ラティルの母性が
少しでも目覚めることを
期待します。