439話 捜査官のアニャはラティルに、なぜ自分にとうもろこしパンをくれたのかと尋ねました。
◇500年間の苦しみ◇
ラティルはアニャの質問を聞くや否や
自分が、いつ、彼女に
とうもろこしパンをあげたのか
考えました。
いきなり、
とうもろこしパンの話が出てきたので
ラティルは戸惑いました。
しかし、アニャは
冗談を言っている顔ではなく、
本当にラティルから、
とうもろこしパンをもらったという
顔をしていました。
そんなことはしていないと言えば
アニャが、がっかりしそうなので、
ラティルは、じっくり考えた後、
アニャが、
とうもろこしに似ているからと
適当に言い繕いましたが、
驚いたアニャが「え?」と
聞き返すや否や、ラティルは、
以前、彼女が
カルレインに会いに来た時に
とうもろこしパンをあげたことを
思い出しました。
しかし、それを思い出しても
アニャに
とうもろこしパンををあげた理由は
特にありませんでした。
ドミスの夢の中で、アニャがよく、
とうもろこしパンを食べていたので
ラティルは、本当に何も考えずに
アニャにパンをあげただけでした。
ラティルはアニャに、
とうもろこしパンが好きなのかと
尋ねました。
その言葉が正解だったのか。
アニャは両手で口を覆い、
瞼を震わせました。
ひどくショックを受けた表情でした。
しばらく、そうしていた後、
アニャは腰をラティルの方に曲げ、
とても小さな声で、
もしかして皇帝は
ドミスの転生かと尋ねました。
後ろに立っている
サーナット卿の気配が
鋭くなるのが感じられました。
アニャは、頭はそのままで、
チラッと瞳だけ上に上げて、
サーナット卿を見ました。
しばらく、
2人が睨み合っているのを
見ていたラティルは、
不機嫌そうな声で、
なぜ、それを聞くのかと尋ねました。
ラティルは、
ただアニャが現れただけなら、
話しても構わないと
思っていましたが、
今のアニャは、
アニャドミスの隣に張り付いているので
注意する必要がありました。
同じ理由で、サーナット卿も
アニャを警戒しているだろうと
考えました。
アニャは、顔を歪ませながら、
自分はドミスを守るために、
彼女のそばで500年間過ごした。
周りには誰もいない。
話す相手もいない。
盟約に関わった聖騎士が、
時々、部下に血を持って来させたけれど
彼らは自分と話そうとしないし、
自分も彼らと話そうとしなかったと
言いました。
ラティルは、百花の部下たちが
血を持って行ったのだと考えました。
続けて、アニャは、
洞窟の中で、
死ぬことも生きることもできないまま
棺桶のそばにだけいた。
数え切れないくらい
何度も死にたいと思った。
けれども、自分が死ねば
ドミスを守る人がいなくなるので
死ぬことができなかった。
500年間、ドミスだけを見て
耐えて来たのに、
自分のそばにいたのがドミスでなければ
とても虚しいと思うと、
目に涙を浮かべて話しました。
ラティルは、
ドミスの夢の中で見ていたアニャと
今見るアニャの性格が
違うように感じたのは、
500年の時間がアニャを精神的に
大きく蝕んでしまったからだと
考えました。
カルレインも
500年間、耐えたのは事実だけれど、
少なくとも彼のそばには
仲間たちがいて、
傭兵の仕事をしながら
外を歩き回っていました。
けれども、アニャは
真っ暗な洞窟の中、棺のそばで
何もせずに過ごしていたかと思うと
ラティルはぞっとしました。
アニャは緊張した面持ちで
ラティルを見つめました。
むしろ彼女は、
ラティルがドミスの転生でないことを
望んでいるようでした。
一方、ラティルは、
ここまで苦しめられた人に
嘘をつくのは大変だけれど、彼女に
500年間無駄に苦労したと言うのも
楽ではないと思いました。
しばらくラティルは、
冷めたコーヒーカップを
弄っていましたが、
500年間を無駄に過ごして来たのは
本当に恐ろしいことだと思うと
ようやく返事をしました。
アニャの表情が
絶望に染まりました。
◇真実を知るべき?◇
アニャは、
頭の上に鉄の塊を乗せたように
よろよろと歩いて出て行きました。
ラティルは、
アニャに聞かれるまま
答えてしまったけれど、
彼女は大丈夫だろうかと
心配しました。
自分が悪いわけではないけれど、
彼女に申し訳ない気持ちになり
思わず、
サーナット卿の腕を振りました。
その途端、ラティルは
サーナット卿を怒っていることを
思い出しましたが
すでに手遅れでした。
ラティルは、
自分の好きなように行動しよう。
もしサーナット卿が犯人なら、
その時は、我慢しようとしても
怒りは抑えられないし、
今は、サーナット卿が
犯人ではない確率の方が高いと
思いました。
サーナット卿は、
ラティルが握った腕を
そっと見下ろしながら、
仕方がない。
アニャは虚しさを
感じていると思うけれど、
そうならないために、
ずっと彼女の敵だった
アニャドミスに仕える方が
残酷だと言いました。
ラティルも、
確かに、残酷なことだ。
真実を知る方がいいと
サーナット卿に同意しました。
そして、ラティルは、
アニャが仕えているドミスが
先代対抗者であることを
彼女は知っているのだろうかと
呟きました。
ラティルは、それについても
話せば良かったと考えていると
サーナット卿が
ビクッとしたのが不思議で、
どうしたのかと尋ねました。
サーナット卿は
ラティルが知れば傷つく真実でも
知りたいと思うかと尋ねました。
ラティルは肩をすくめながら、
状況次第だ。
アニャが真実を知れば
これ以上、アニャドミスのそばに
いなくてもいいので、
アニャの今後の行方を
変えることができる。
でも真実を知っても何も変えられず、
苦しくなるだけなら
知らない方が楽かもしれないと
答えました。
◇遺体を真っ先に見た人◇
情報を探していているうちに
気絶するように
寝てしまったタッシールは
数時間、死んだように眠りました。
しばらくして起きた
タッシールの目の下のクマは
さらに、ひどくなっていました。
タッシールは、
時間を無駄にしてしまったと嘆くと
冷水で濡らしたハンカチで
顔を拭いた後、
気を引き締めて情報を探し始めました。
そして、ついに彼は
サーナット卿が
メロシー領地に行ったその時期に
黒死神団の傭兵の一部も
メロシー領地に行ったことを
確認しました。
タッシールは、
この時、サーナット卿とカルレインが
領地内か、その付近で
会ったと考えました。
タッシールは
その部分を書き写している時、
心を落ち着かせるために、
紙を握り締め、
ぎゅっと目を閉じました。
そして、すぐにいつもの状態に戻ると
情報を書き写しました。
書き終えたタッシールは、
ペンを前ポケットに差し込み、
情報を元の状態に整理した後、
保管所の外へ出ました。
副首都も、やはり年末祭の熱気で
盛り上がっていました、
人々は、
1年の終わりを楽しく過ごすために
興奮して遊んでいました。
タッシールはベンチに座り
膝の上で腕を組みました。
そして、何らかの形で、
カルレインとサーナット卿が
事件に関係しているのは
確かだけれど、
どのように関係しているかが
問題だと考えながら、腕をほぐし、
膝を手で2回叩きました。
先帝がサーナット卿に託した情報は
きっと皇帝と関係のある情報に
違いない。
問題は、なぜ、あえて先帝が
彼一人で保管したり処分していれば
誰にも漏れなかったはずの情報を
隠すように、
サーナット卿に指示したのか。
サーナット卿が
情報を隠したことまでは
突き止めたけれど、
この点は理解できませんでした。
サーナット卿が隠したその情報を
見つけることができるだろうか。
処分しろではなく、
隠せと言ったのだから
きっと、どこかにあるはず。
そして、ラティルが先帝暗殺犯だと
書かれたメモは一体誰が残したのか。
そのメモを残した人は、
何か他の情報を知っているのか。
その人を探すことはできないだろうか。
活気に満ちた音楽と
人々が騒ぐ声の中で、
タッシールは深刻に考えました。
情報がもっと必要だ。
これでは足りない。
メモを残した人も
なかなか見つからない。
自分が皇帝を疑うふりをしたら、
メモを残した人が
接近してくるだろうか。
他に目撃者はいないのか。
遠くから花火の音が聞こえ、
夜空が色とりどりに染まりました。
タッシールは、
反射的にその光景を見て
立ち上がりました。
タッシールの頭の中でも
花火が上がりました。
サーナット卿が手を出す前に
先帝の遺体を真っ先に見て、
変な点があれば、
真っ先に気づいたのは
アナッチャと
トゥーラ皇子であることに
タッシールは気がつきました。
◇アナッチャの疑問◇
外から聞こえて来る騒がしい音で
目を覚ましたアナッチャは、
上半身を起こしましたが、
身体を起こすや否や
首がズキズキしたので、アナッチャは
再びベッドに横になりました。
その状態で、ウンウン唸っていると
頭にタオルを被った農婦が
中に入って来て、
まだ、身体が痛いようだけれど
大丈夫かと、心配そうに尋ねました。
アナッチャは、
大丈夫。 ほとんど治ったと
明るく答えましたが、農婦は
アナッチャの言葉に騙されず、
治っていれば、今頃、
元気に走り回っているはずだと
皮肉を言いました。
彼女は、持ってきた籠を
家の片隅に置いた後、
医者を呼ばなくても大丈夫か。
小さな町だけれど、
医者がいないわけではない。
少し遠くへ行かなければ
ならないけれど、
人を助けるためなら、
そのくらいすると、
つっけんどんだけれど親切に
農婦は提案しました。
しかし、アナッチャは笑いながら
首を横に振り、
本当に大丈夫だと断りました。
農婦は、アナッチャに
何か事情がありそうなので、
これ以上勧めることはできないと
言いました。
アナッチャは、
首に巻いた包帯を片手で触りながら
外が騒がしいけれど、
何かあったのかと尋ねました。
農婦は、
今は年末祭だ。
何日も遊ぶのは難しいけれど、
一日くらいは遊ぼうと言って、
皆で忙しく準備中している。
夜は焚火の周りで踊り、
バーベキューをすると
嬉しそうに答えました。
そして、農婦は、
アナッチャも身体に気をつけながら
バーベキューを食べないか。
踊るのは無理でも、
細かくちぎって食べたらどうかと
誘いました。
しかし、アナッチャは、
回復が遅れるといけないと言って
農婦の誘いを断りました。
アナッチャは、
もう年末祭であることに驚き
今頃、
自分が来ないのを心配している
トゥーラのことを思い浮かべて
舌打ちしました。
そして、アイニ皇后は、無事に
タリウムへ行っただろうから、
彼女を再びタリウムから連れて来るには
どうすればいいかと考えました。
そうしているうちにアナッチャは、
農夫が籠の下に敷いておいた紙を
数枚、窓に貼るのを見て、
眉をしかめながら、
それは何なのかと尋ねました。
農婦は、年末祭を境に、
風が冷たくなるので、
風が入らないように
前もって、紙を何重にも貼って置くと
答えました。
しかし、アナッチャは
紙のことを聞いていると聞き直すと
農婦は、紙を一枚、
アナッチャに差し出しました。
それは、指名手配書でした。
農婦は、
見たことのある犯人でもいるのかと
尋ねました。
アナッチャは、
手配書に描かれた自分の顔を
妙な目で見下ろしながら、
否定しました。
農婦は紙を持って行き、
窓に貼り付けると舌打ちしました。
アナッチャは、
人のことは分からない。
皇后を抑えて、
皇帝の寵愛を一身に受けた
素晴らしい側室が、
今は逃亡者の身となり、
息子の頭が
広場にさらされたことを
不思議だと思いました。
そして、農婦が
舌打ちする音を聞きながら、
アナッチャは自分の手にはめた
指輪を撫でながら、
なぜ、こんなことになったのかと
考えました。
◇歓喜◇
その時刻、
年末祭の雰囲気を感じられない、
山の奥深くの静かな洞窟の中で、
棺桶の上に腰掛けたアニャドミスは
空に向かって腕を広げ、
明るく照りつける月明かりを
抱きしめるかのように
棺の上で踊りました。
そして、腰を曲げて笑うと、
嬉しそうに、
もう気絶しないと、叫びました。
自らを犠牲にすることで
異種族も幸せになれる世界を
目指したドミスのために
アニャは500年間も
ドミスの棺のそばで、
彼女を守っていたのに、
それが、ドミスでないと知った
アニャは、
なぜ、こんなことになったのかと
疑問に思っているのではないかと
思います。
そして、先皇帝暗殺事件について
調べているタッシールも、
先帝がサーナット卿に託した情報を
自ら保管、
あるいは処分しなかったことに
なぜ、こんなことになったのかと
疑問に思っているはず。
先帝の死因が何であれ、
スムーズにラティルが
皇位を受け継いでいれば、
いくらラティルが
アナッチャを嫌っていたとしても
アナッチャは、
先帝の他の側室たちのように
丁重に扱われていたはず。
それなのに、
今は指名手配までされていて
惨めな状況。
それでも、タッシールは
直接、自分に関係していることで
悩んでいる訳ではないし、
アナッチャが
指名手配されているのは自業自得。
けれども、アニャには
何の落ち度もないばかりか、
今まで、ドミスの皮を被った
対抗者のアニャに利用されて来た。
なぜ、こんなことになったのかと
同じ疑問を抱いている3人ですが、
アニャには心から同情します。