567話 ラティルは、自分がロードであろうとなかろうとアイニは気にしないと言っていたけれど、それは本気だったのかと尋ねました。
◇良い人◇
いくら本当のことを言っても
この皇帝は私の言うことを
信じてくれないのですね。
確かに、簡単に信じるのも
それはそれでおかしいけれど。
ラティルはアイニの心の声を聞いて
安心しました。
先程のアイニの言葉は本当でした。
だからといって、
これから味方になるという意味では
ないだろうけれど、
少なくとも敵ではないという
意味ではないかと思いました。
ラティルとは違い、
アイニは彼女の心が読めないので
息詰まる思いのようでした。
アイニは、しばらくグラスを握った後、
ラティルに、
自分の言うことが信じられないのかと
尋ねました。
ラティルは、
少し前まで信じていませんでしたが、
「信じます」と即答し、
最初に自分を訪ねて来て、
冷静に酒瓶を渡した時から、
自分はアイニを信じていたと
答えました。
その時から?私を?ずっと?
と、アイニの心の声が
聞こえて来ました。
ラティルの熱烈で断固とした言葉に
アイニの瞳が揺れました。
酒の勢いがない時は、アイニは
こんなにすぐ信じないと思いましたが
見た目は正常に見えるけれど、
5本の酒の酔いが
一気に回ったのではないかと
思うくらい、彼女は普段以上に
感情的に変わったようでした。
ラティルはアイニに、
このような状況で、一体、誰が、
冷静に酒瓶を渡したりするだろうかと
聞きました。
アイニは毅然としていました。
ラティルは、その姿を見て
本当に良い人だと思いました。
そして、アイニの瞳がさらに揺れて
潤んできました。
アイニは、
考えてみれば皇帝は、
何度か自分に手を差し伸べてくれたと
言いました。
しかし、アイニの心の声が
巡り合わせが悪い時も多かった。
と言ったので、ラティルは
何度も巡り合わせが悪かったのは
アイニの責任でもあると思い、
無意識のうちに
お酒を1杯飲もうとしましたが、
すでに自分も、かなり酔いが
回っていることを考えて
グラスを置きました。
アイニは苦笑いを浮かべながら
自分の侍女たちも助けてくれたと
リズミカルに言い、心の中では、
ヘウンの身体を
なくしたりもしたけれど。
とラティルを非難しましたが、
ヘウンの首を隠してくれていると
言いました。
ラティルとアイニは、
自分たちが思っているよりも
少し感動した表情で
相手を見つめました。
一瞬、相手に対する好意的な思いが
膨らみました。
◇ランブリーの悩み◇
その頃、ランブリーは
ゲスターが作ってくれた
小さなブランコに座り、
不機嫌そうに尻尾を垂らしていました。
なぜかランブリーは
他の側室たちのように
戦略を立てて皇帝の執務室を訪れ、
彼女と仲良くなろうと
努力する必要はありませんでした。
しかし、むしろそのせいで、
議長が連れてきた青年と
ギルゴールの会話に全神経が注がれ、
他の人より、
さらに憂鬱になっていました。
ランブリーは
数日前のことを思い出しました。
ギルゴールは、
ランブリーが彼の会話を
盗み聞きしたことを知ると、
ランブリーの襟首をつかんで持ち上げ
冷たくて恐ろしい目で
ランブリーを見つめました。
その視線は、
この小さくてかわいい生命体を
どうやって投げ捨てようかと
考えているように見えました。
ランブリーは恐怖のあまり、
全身の毛が縮こまりました。
すでに前世代で
ギルゴールと戦ったことのある
ランブリーは、
今はおとなしいふりをしている
この狂った吸血鬼を
少しも信頼できないことを
知っていました。
しかし、ギルゴールは目を細め、
ランブリーを
しばらく見つめているかと思ったら、
さっと投げ捨て、
ランブリーみたいなレッサーパンダは
いくらでもいるよ。
もし、良かったら口を開いてみる?
私が君をどう処理するか気になるよね。
と言いました。
口を開けば、命を奪うという
脅迫でした。
それからギルゴールは姿を消し、
いまだに現れていませんでしたが、
ランブリーはその日以来、
口を開くことができませんでした。
けれども、少しだけなら
言ってもいいのではないかと
思いました。
◇口数が少なくなった◇
ラティルはランブリーの悩みを
知らないまま、アイニを見送った後、
久しぶりに安堵して
眠りにつきました。
まだ乗り越えなければならないことと
解決しなければならないことが
たくさんありましたが、
ラナムンは最初から
こちらの味方になってくれたし、
アイニも自分と対立する気がないと
言っているので、
アニャドミスさえ退治すれば、
皆で力を合わせて怪物を退治しながら
基本的な皇帝の業務をこなす日常が
訪れるだろうと思いました。
怪物を退治することも
容易ではないだろうけれど、
まず、アニャドミスのことさえ
解決すれば、
心はずっと穏やかになりそうでした。
まずは、
ヒュアツィンテを見つけるために
アニャドミスを
捕まえなければならないと思いました。
久しぶりにぐっすり眠れたラティルは
翌日、顔色が良くなりました。
仕事をする時も、ここ数日より
ずっと頭がよく働きました。
そのおかげで、ラティルは
普段より、さらに効率的に
午前の日課を終えた後、
昼食時間を十分に取って、
タッシールを訪れました。
アニャドミスを探すために、
黒林の暗殺者たちを
動員できるかどうか、
タッシールに聞いてみるためでした。
ラティルが部屋の中に入ると、
タッシールは立ち上がり、
笑いながら挨拶をしました。
彼は、ラティルに負けないくらい
多くの書類を、
机の両側に積んでいました。
ラティルは、すぐにタッシールの方へ
歩いて行きました。
この湧き上がる意欲を、
早くタッシールと
分かち合いたかったのですが、
ラティルは変なことに気づき、
机に着く前に立ち止まりました。
タッシールの机の上は、
仕事でいっぱいでしたが、
彼の新しい侍従は、
部屋の中に見当たりませんでした。
ラティルはタッシールに、
侍従の行方を尋ねると、
タッシールは、
ロプーはお使いに行かせたと
答えました。
ラティルは、最近、側室たちが
持って来続けた様々なおやつを
思い浮かべて笑いました。
ラティルは、
調理室に行かせたのかと尋ねると
タッシールは否定し、
花園に送ったと答えました。
ラティルが、その理由を尋ねると
タッシールは、
ロプーは仕事はできるけれど、
まだヘイレンほど信頼できない。
少し大事なことをする時は
そばに置いておくと気になると
答えました。
ラティルは、その話を聞くと、
吸血鬼になってしまった後、
日中、歩き回ることができなくなった
ヘイレンを思い浮かべて
舌打ちしました。
ラティルは、
タッシールは、思ったより
ヘイレンを頼りにしていたようだと
呟きました。
しかし、ラティルの表情を見ていた
タッシールは、
狐のように笑いながら彼女に近づいて
ラティルの腰を抱くと、
ヘイレンは病気もなく、
四肢も感覚もすべて正常だ。
死ぬより生きている方がましなので、
そんなに、
悲しい表情をする必要はないと
言いました。
ラティルは、
ヘイレン自ら選んだことではないと
言うと、タッシールは、
自分たちが恋に落ちたことのように?
と、からかいました。
ラティルは腰に忍び寄る
タッシールの手の甲を軽く叩くと、
彼を訪ねた用件について話しましたが
そうしているうちにラティルは
タッシールが、普段より
口数が少なくなったことに
気づきました。
おやつを持って
執務室を訪ねてきた時は
いつものように休む間もなく
口を動かしていたので
気づきませんでしたが、
突然訪ねてみると、
タッシールの口数が
めっきり減っていました。
ラティルは、
タッシールを心配しました。
大怪我をしても、
冗談を言うのを止めなさそうな
タッシールが、
突然慎重になったように見えると、
ラティルは急に怖くなって、
大丈夫なのかと尋ねました。
普段より口数が減っただけで、
カルレインやラナムンのように
無口な人たちと比べれば、
タッシールは依然として
口数が多い方でしたが、
ラティルはタッシールのことが
心配だったので、
そこまでは考えられませんでした。
タッシールは、
もちろん大丈夫だと答えると、
ラティルに、どうしたのかと
尋ねました。
ラティルは、タッシールが
静かになったような気がすると
答えると、
タッシールは無邪気に笑い、
片腕でラティルを抱き寄せ、
自分の頬を
ラティルの頬に寄せると、
自分の声を、
もっと聞きたいということですかと
尋ねました。
ラティルは、
本当にタッシールの口数が
少なくなったような気がして
心配していると答えました。
ラティルは、タッシールの香りを
久しぶりに近くで嗅ぐと、
すぐに顔に熱が上がって来ましたが
それに流されないように
努力しました。
ラティルは、
本当にタッシールのことが心配で
言っていると言いました。
◇ランブリーの悩み事◇
ラティルが、
本当に大丈夫なのかと何度聞いても、
タッシールは大丈夫だと答えたので、
ラティルは、これ以上聞くのをやめて
部屋を出ました。
タッシールの仕事は多そうだったし、
ラティルも時間を作って
やって来ましたが、
まだやるべきことが山積みでした。
そして、ラティルは、帰る途中で
ランブリーを見つけました。
不思議なことにランブリーは、
ゲスターの住まいの塀に腰掛けて
ため息をついていました。
離れた所にいるのに、
ランブリーが落ち込んでいる姿が
見えるほどでした。
ラティルは、
ランブリーはどうしたのかと
不思議に思い、
そちらへ近づこうとしましたが、
ランブリーはラティルが近づくと
飛び上がって、あっという間に
姿を消してしまいました。
結界の中に
隠れてしまったようでした。
ガーゴイルがそのようにすれば、
ラティル1人では
見つけられませんでした。
自分たちだけで、
互いに悩みや相談事を
打ち明けるのだろうか。
ラティルは仕方なく、
元来た道を引き返しました。
◇10個の指輪◇
妙に静かになったようなタッシールと、
理由もなく不機嫌そうな
ランブリーを見て、ラティルの心は、
午前よりも沈んでしまいました。
アイニが、これ以上
自分に敵対しないだろうと思って
浮かれていましたが、
改めて考えてみると、
少し警戒を緩めていいだけで、
状況は大きく
変わっていないようでした。
アイニがラティルを
警戒していた時も、
彼女はすぐに攻撃すべき敵では
ありませんでしたが
潜在的な敵でした。
だから、アイニが敵でなくなった今も
大きな違いはなさそうでした。
アニャドミスの居場所を見つけ、
彼女に対抗するための
新しい計画を立てる頃には
役に立つかもしれませんが、
現時点では、
前と状況は変わりませんでした。
ラティルの意欲のおかげで
速くなった仕事の処理速度は
元に戻り、彼女は、
山積みの書類に埋もれていましたが
夕方になった頃は、首が凝ってしまい
自然に眉をひそめました。
すぐに風呂に入って
寝たくなったラティルは、
夕食を断り、
すぐに寝室に戻りました。
ところが、ラティルが部屋に入って
上着を脱ぐ前に、
侍女長が、大きな金の盆を持って
近づいて来ました。
金の盆の上には、
ベルベットのような質感の
小さな宝石箱が
10個置かれていました。
侍女長は、
ラティルが注文した指輪が到着したと
告げました。
最初、ラティルは訳が分からず、
箱を1つ持ち上げて
蓋を開けてみました。
側室たちに贈るのかと
侍女長に聞かれたラティルは
ようやく、
ギルゴールの指輪が壊れて
新しい指輪を注文したことを
思い出しました。
彼の10本の指に
指輪をはめてあげようと
思っていましたが、
その後、あれこれやることが多くて
すっかり忘れていました。
ラティルは、侍女長に
「いいえ」と答えると、
ギルゴールの細長い指に
よく似合いそうな
真っ赤なルビーを見て
ため息をつきました。
彼の手に
指輪を10個はめておけば、
彼の正気を、よく保つことが
できると思っていたけれど、
指輪をあげる前に、
彼は正気を失ってしまいました。
正気を失ったギルゴールを
戦力として考えるべきか、
戦力ではないと考えるべきなのか
ラティルは悩みました。
ぼんやりとしているラティルを
侍女長は不思議に思いながらも、
ラティルが着替えるのを
手伝ってくれました。
侍女長が外へ出ると、ラティルは
自分で選んだ10個の指輪を
1つ1つ確認し、箱から取り出すと
指輪だけポケットに入れました。
ギルゴールは、どこへ行ったのかと
呟きましたが、彼は突然、
現れたりしませんでした。
ラティルは短くため息をつくと、
ベッドに戻り、
布団の中に潜り込みました。
しかし、ちょうど眠りについた頃、
トントンと窓を叩く音が
聞こえて来たので、
ラティルは目を覚ましました。
彼女は疲れていましたが、
すぐに窓の方へ駆けつけました。
ギルゴールがカルレインか
グリフィンが来たようでした。
しかし、意外にも現れたのは
レッサーパンダでした。
それもクリーミーではなくて
ランブリーでした。
ラティルは窓を開けながら
「タヌキ?」と呼ぶと、
ランブリーは追われるように
部屋の中に入って来て、
聞こえるか聞こえないかの
とても小さな声で、
話があると告げました。
レッサーパンダは、
その姿だけで可愛いので
何もしなくても、無条件に
愛されると思います。
もっとも、ランブリーは
一度、ラティルを
ひどい目に遭わせているし、
クリーミーの方が
性格が良さそうなので、
ラティルのお気に入りは
クリーミーだと思いますが、
ブランコに乗って、
悩んでいるランブリーを見たら
ラティルも
胸キュンとなると思います。
レッサーパンダのために
ブランコを作ってあげるなんて
ゲスターも、
たまにはいいことをすると思います。
タッシールは
もしかしてラティルが
死ぬのではないかと思ったので、
彼女との時間を
冗談ばかり言って過ごすのではなく
真面目に過ごそうと思い、
ラティルをからかう回数を
減らしたのではないかと思います。
それを、ラティルは
彼が静かになったと
感じたのではないかと思いました。