644話 アリタルと彼女の中に入っているラティルは、部屋の中で血の匂いを感じました。
◇悲劇◇
ラティルは、アリタルの不安を
感じることができました。
彼女の心臓の鼓動が、
徐々に速くなって行きました。
手に持った器と臼を置いたアリタルは
ゆっくりと首を回しました。
ラティルは叫びましたが
アリタルは悲鳴を上げませんでした。
彼女は急いで走ると、
子供の腕を激しく引っ張りました。
血まみれの自分の手を
見下ろしていた子供が
人形のように、
さっと引きずられました。
お母さん?
子供は、
少しぼんやりとした声で
アリタルを呼びました。
アリタルは倒れた子供を見ました。
6歳か7歳くらいの子供は、
すでに血を流し過ぎていました。
シピサ!シピサ!
子供の虚ろな目は、
彼の好きな母親の呼びかけにも
反応しませんでした 。
シピサ!
子供の傷を見ていた
アリタルの視線が揺れました。
彼女はゆっくりと首を回して
セルを見つめました。
セルは、何が起こったのか
全く分からないという
顔をしていました。
しかし、傷もないのに
血に染まっている子供の手は、
自分のすぐ後ろで起こったことが
誰の仕業なのかを、アリタルに
はっきりと知らせていました 。
あなた・・・あなたが
アリタルの声は、
まともに出ることができず、
ずっと、喉で詰まっていました。
セルは
お母さん。
と、はっきりと彼女を呼びました。
アリタルは返事をせずに
倒れた子供の傷の上に手を浮かせて
何かをしようと努力しました。
子供の傷は、すぐに回復しましたが、
子供は生き返りませんでした。
神聖力を注ぎ続けた
アリタルの頭の中が
少しずつ崩れ始めていました。
ラティルは、その感情を
感じることができました。
彼らについて
よく知らないラティルでさえ
仰天するような光景だったので、
アリタルが、
耐えられるはずがありませんでした。
あなた、あなたが・・・
アリタルは、
セルの肩をしっかり掴みました。
ぼんやりとしていた子供の表情に
初めて恐怖の色が浮かびました。
幼かった子供は、
倒れている自分の兄弟と、
恐ろしい形相で肩を掴んでいる
母親を交互に見て涙ぐみ、
お母さん、僕じゃなくて
シピサが弱かったんです。
シピサが弱すぎました。
僕はシピサと遊んでいただけです。
シピサのせいです。
お母さん、怖いです。
と訴えました。
セルが泣きながら
アリタルを抱きしめようとした瞬間
ラティルは、彼女の頭の中が
真っ赤になるのを見ました。
完全に、彼女の思考回路は
壊れていました。
アリタル!アリタル!
ラティルは何度も彼女を
呼んでみましたが、
ドミスがそうだったように、
アリタルもラティルを
認知できませんでした。
ウワアアアアッ!
アリタルは悲鳴を上げて
子供の首に手をかけました。
アリタル!
ラティルは、
全身をよじらせながら、
その状況から抜け出そうと
努めました。
自分が体をコントロールできれば、
アリタルを止めることができました。
しかし、アリタルの頭の中は、
今、完全に真っ赤になっていて、
何も見えませんでした。
それでも幸いなことに、
子供から流れ出る不思議な力が
アリタルの手から
子供を守っていました。
まるで子供の体の周りに
薄い防御膜でも
張られているようでした。
その瞬間、
アリタル!
キーッという音とほぼ同時に
男の悲鳴が上がりました。
誰かが駆けつけて
アリタルの腕をひねり、
彼女の手から子供を引き離しました。
アリタルが首を回しました。
ギルゴールがセルを抱きしめたまま、
目を見開き、
倒れた子供を見ていました。
何をしているんだ!
ギルゴールは涙目で、
アリタルに向かって叫びました。
真っ赤になっていたアリタルの頭の中が
徐々に落ち着き始めました。
私は何をしたの?
アリタルは、
ギルゴールの懐に抱かれた子供の
首を見て考えました。
ラティルはアリタルの考えを
初めてはっきりと読みました。
彼女は先程より
正気を取り戻したようでした。
アリタルは、なんとか口を開きました。
彼女は何か言おうとしました
一体、どうしたの?
セルがシピサの命を奪ったの?
それで、私がセルの命を
奪おうとしたの?
アリタルが言葉に詰まったまま
躊躇している間に、
意識を取り戻したセルが
ギルゴールの首を抱きしめながら
涙を流し、
お父さん!お母さんが・・
と呟くと、すぐにまた気絶しました。
ギルゴールはセルを抱いたまま
死んだ子供の腕を振り、
シピサの名を何度も呼びました。
切羽詰まった声でした。
ギルゴールの目から
涙がぽたぽた流れ始めました。
アリタル、どうしたんですか?
アリタル、一体どうして?
ギルゴールは、
目を覚まさない子供から視線を離し、
アリタルを見ながら尋ねました。
アリタルは返事をする代わりに、
ギルゴールに向かって
手を伸ばしました。
何かが指先から伸びる感じと共に、
ギルゴールが飛ばされて壁にぶつかり
壁が粉々になって
大きな音を立てました。
アリタル?どうして?
ギルゴールが起き上がる姿も見ずに、
アリタルは、
死んだ子供を抱きしめました。
アリタルは、
3分の2が壊れた壁を乗り越えて、
出て行きました。
外にいた人たちは、大きな音を聞き
何事かと思って1人2人出て来ました。
気絶したギルゴールと
彼が胸に抱いている子供。
アリタルが抱いている子供。
片側が壊れた家の形を見て
悲鳴を上げました。
ああ、大神官様!
これはどういうことですか!
前にラティルに挨拶をした老人が
かろうじて走って来ました。
しかし、アリタルは返事をせずに
どこかへ歩いて行きました。
アリタル!
あなたがしたのではないと言って!
セルがやったのだと言って!
ラティルは、
心の中で叫び続けました。
しかし、アリタルは止まることなく
ひたすら歩き続けました。
シピサの命を奪ったのが
セルだったなんて!
ところで、なぜアリタルの血族は
シピサの命を奪ったのが
アリタルだと言ったのだろうか。
アリタルはこのことで
濡れ衣を着せられたのか。
濡れ衣を晴らせなかったのかと
考えました。
アリタルは歩き続けるだけで、
ラティルの言うことを
全く聞くことができなかったので、
結局、ラティルは
一人で考え込んでしまいました。
ラティルは、
アリタルが何かミスを犯して
シピサをの命を奪ったと
思っていましたが、
シピサを殺めたのはセルでした。
しかも、当時のセルの反応を見ると、
彼も故意にやったのでは
なさそうでした。
それでも、やはり変でした。
確かにギルゴールは
誤解する状況だったけれど、
セルは自分がしたことだと
分かっていたはずだから、
後からでも誤解を解くことが
できたのではないだろうかと
考えました。
◇子供を助けたい◇
アリタルが立ち止まりました。
ぼんやりと
物思いに耽っていたラティルは
すばやく辺りを観察しました。
夜遅い時間で、
あちこちで陰鬱な鳥の鳴き声が
聞こえてくる薄暗い森でした。
エルフ!エルフ!
アリタルは
大きいけれど平凡に見える木に
手を当てて叫びました。
アリタルは力が尽きたように、
木に額を当てて、
力なく、寄りかかりました。
大神官?
地面が少し振動するような
音がした後、
頭上から声が聞こえて来ました。
木のそばに議長が立っていました。
子供が・・・?
議長はすぐにシピサの状態を調べ、
身を屈めました。
アリタルは泣きながら、
子供を助けることができるかと
尋ねました。
どうしたの?
議長は子供を見ながら尋ねました。
アリタルは首を横に振ると、
分からない。
血の匂いがしたので振り向くと、
セルがシピサを殺めた後だった。
一体どういうことなのか
分からないと答えました。
議長は、
神聖力を使ってみたかと尋ねました。
アリタルは、100人以上生かせるほど
使ったと答えました。
議長は子供を見て舌打ちをし、
もう死んでしまったので
仕方がないと言いました。
しかし、アリタルは
シピサを助けたいと訴え、
子供を抱きしめながら、
生かす方法はないかと尋ねました。
議長は、人間の命については
アリタルも、よく知っているはず。
死んだ人を生かす方法は
黒魔術だけだ。
大神官とは完全に相反する力だと
答えました。
アリタルの涙が子供の額の上に
ぽたぽたと落ちました。
彼女は、黒魔術の力でも借りたいと
主張しました。
議長はアリタルに
虫唾が走るようなことを言うな。
黒魔術で生かした存在は
まともな存在ではない。
それは、ただの怪物で、
ゾンビや食餌鬼のようなものだと
反対しました。
アリタルは泣き続けました。
議長は、
仕方がないことだから諦めるように。
大神官であるアリタルが祝福し
よく祈ってやれば、
子供は良い運を持って転生すると
言い聞かせ、断固たる態度で
曲げていた足を伸ばしました。
アリタルは、それでも
子供を手放すことができずにいました。
そしてアリタルは議長を見上げながら
以前、エルフは
神聖力で黒魔術を使えば
どんな力が出るのか気になると
言っていたではないかと言いました。
議長は眉を顰めました。
アリタルは、
子供を自分の方に引き寄せながら
神聖力で黒魔術を使えば
怪物にならないかもしれない。
神聖力は、神が与えてくれた
最も清らかな力だからと
主張しました。
議長は目を見開き、
大神官! 正気ですか?
と尋ねると、アリタルの腕をつかみ、
無理矢理、子供の死体から、
手を離させようとしました。
しかし、アリタルが何か言うと、
彼は短く呻きながら、
アリタルの腕から手を離しました。
アリタルは議長を見上げると、
神聖力で、どこまでできるか
気になると言っていたし、
見たがっていたではないかと
言いました。
その言葉に、議長が驚くとアリタルは
助けてください!
と訴えました。
議長は、
しばらく答えられませんでした。
ラティルは、議長が
ひどく葛藤していることに
気づきました。
好奇心を満たす機会と、
絶対にしてはいけないことの間で
苦しんでいるようでした。
アリタルは、
消えゆくロウソクのような声で、
エルフには何の害もない。
エルフは、
ただ好奇心を満たすだけでいいと
囁きました。
とうとう、議長は
身を翻しながら承知しました。
アリタルはシピサを抱いて
議長の後を追いました。
議長は、
他の子は?セルはどうするの?
彼がシピサを殺めたって?
議長は薄暗い森の中を
迷わず歩きながら尋ねました。
アリタルは、
分からない。
ギルゴールが連れて行ったので、
きちんと面倒を見ているだろう。
今は、あの子のことは考えたくない。
まず、シピサを助けたいと
答えました。
議長は、
自分の兄弟を殺めた子供が、
大神官の後継者になれるだろうかと
尋ねました。
アリタルは、
なれないと答えました。
議長は、
黒魔術で目覚めた子供も、
後継者にはなれないと断言しました。
アリタルは、
目を覚ましてくれるなら、
それは重要ではないと返事をしました。
議長は、
どこかの小屋の前で立ち止まりました。
彼は扉を開けると鋭い音がしました。
議長は扉を押さえたまま、
神が与えた力で、
黒魔術を使ったアリタルも、
やはり、これ以上、
大神官の席にいられないと
警告しました。
アリタルは、
関係ないと返事をすると、
躊躇うことなく家の中に入りました。
アリタルは子供をテーブルの上に寝かせ
血のついた服が見えないように
神官のコートを脱いで
彼にかけました。
議長は、
片側の壁に取り付けられた
棚に近づきながら、
子供を何に蘇らせるのか。
ゾンビは理性がないから、
食餌鬼かと尋ねました。
ラティルは、アリタルの心の中に
ようやく拒否感と迷い、罪悪感、
緊張感が湧き上がってくるのを
感じました。
子供を生かすために、
黒魔術の力を借りることにしたけれど
大神官なので、いざとなると
迷っているようでした。
しかし、アリタルは
シピサが優先だと、
心の中で呟きました。
議長はゾンビや食餌鬼について
記された本を取り出し、
アリタルに渡すと、
彼女は大神官なので、
手続き通りにすれば、
すぐにやり遂げることができるだろうと
言いました。
それから議長は、遠く離れた
ソファーに腰を下ろしました。
そして、議長は、慎重に選ぶように。
神から授かった力で黒魔術に手を出せば
何が起こるかわからないと
警告しました。
しかし、アリタルは
返事の代わりに本を開きました。
その瞬間、ラティルの視野が
完全に、ぐちゃぐちゃになりました。
呻き声を上げるほど苦しい
強い頭痛と吐き気が
押し寄せて来ました。
体を動かせないので、
吐くことができない。
それなのに。
胃がひっくり返る感覚だけは
生々しく感じられました。
どうしたんだろう?
目の前に広がっていた光景が
一つに圧縮され、
それが砕けて散らばったように
めまいがしました。
何かを区別できるような形では
ありませんでした。
かすかに、その間に
悲鳴のような声が
聞こえて来ましたが、
それに集中することも
できませんでした。
苦しい。
ラティルは絶えず身悶えしました。
息ができませんでした。
その時、
陛下は、まだ
お目覚めになられていませんか?
と言う声が聞こえて来ました。
家に帰って来たら、
子供の1人が死んでいて、
もう1人の子供は
アリタルに
命を奪われそうになっていて
おまけに、ギルゴール自身も
アリタルに壁に飛ばされてしまった。
幸せいっぱいだった家族が
なぜ、急にこんなことに
なってしまったのか、
ギルゴール自身も
訳が分からなかったのではないかと
思います。
そして、真実を知らぬまま
何千年も生きて来て
シピサが生きていることさえ
知らなかったギルゴールは
苦しみと悲しみと苦痛から
逃れるために、
精神を狂わせるしかなかったのかなと
思います。
ギルゴールが真実を知り、
少しでも安らぎを得られればいいなと
思います。